2006年に某パズル雑誌に書いていた「言葉×子ども」をテーマにした連載エッセイの中から、4編をほんのすこし加筆修正して掲載します。登場する個人名は、連載当時は「仮名」にしていましたが、ここでは容赦なく愛を込めて実名です。内容については2%ほどのフイクションが含まれます。
どうしてママは犬じゃないの?
どうして空はおっこちてこないの?
どうしてウサギはウサギなの?
コトバを覚え始めたコザルたちの素朴な疑問にどうこたえるか?
これがけっこうめんどうくさかったりするわけです。
むかしむかし、長女のサキがまだ2,3歳だったころ、
お風呂の中や車や電車での移動中、昔話をしてあげていた。
金太郎、浦島太郎、桃太郎・・・。
話の筋は覚えているので、ディテールは適当に語れば、
小さい子どもの退屈しのぎには、もってこいのお話ばかり。
ある日、サキが素朴な疑問をぶつけてきた。
「ねえ。どうしてみんな名前に太郎がついてんの?」
じぇ。そうきたか!
思いもつかなかったツッコミに不意を突かれた私は、
とりあえず、大人の余裕ってやつで、こう答える。
「そんなことも知らなかったのぉ?」
答えながらも、数秒なやむ。
(えーと、なんでだっけ?)
(めんどくさーい。テキトーにあそんじゃえ~)
「ああ、まだ教えてなかったっけ? サキの本当の名前」
「あなたの本当の、つまり正式な名前はね、サキ太郎なの。
日本人に生まれた子どもは、みんな、名前に太郎がつくの。
男の子も女の子もね。サキ太郎とか、けん太郎とか、
ゆい太郎とか、いつき太郎とかね。
幼名って言うんだけどね。
それでみんな5歳の誕生日がきたら、
無事にすくすく育ちましたってことで太郎は卒業して、
名前からも外すのよ。わかるかな?」
「サキたろう?」
自分の本当の名前を口にするコザルの瞳は、
一瞬キラーンと輝いたように見えた。
それから数か月後、コザルを連れて電車に乗った。
平日の昼間とはいえ、山手腺の車内は混んでいた。
電車の揺れに同調しながら、短い脚を踏ん張って立っている。
目の前に座っていたご婦人が、スキマをつめて隣に座らせてくれた。
はにかみながら、座るコザル。
「お名前はなんていうの?」
もじもじしながら私を見上げるコザル。
手招きして耳元に口を寄せてくる。
「本当の名前を言うの?」
フルネームで言うのか? という意味だと思った私は
「そうだよ」と、ご婦人との会話を促ながす。
ご婦人のほうに向きなおり、
満面の笑みを浮かべて本当の名前を告げるコザル。
「サキ太郎!」
その直後のご婦人の「に、が、わ、ら、い」としか言いようのない
曖昧な笑顔と、コザルの、ちょっと得意そうな笑顔。
自分自身がテキトーなデタラメを教えていたことなど、
すっかり忘れていた私。
でも、コザルは忘れていなかった。
ちゃんと学習していた。
自分の本当の名前にも、昔話のヒーローと同じ「太郎」がついていることに、
ささやかな誇りと喜びを感じながら。
コザルをだますって、ほんとうに楽しいじゃないか。
コザルにしても、自分の本当の名前を知ったあの日以来、
頭の中で、サキ太郎が主人公のストーリーを繰り広げ、
物語の世界で豊かに遊んでいたに違いない。
コザルをだますということは、
コザルの健全な想像力を育むという立派な理念に基づいた、
愛情に満ち満ちた、意義のある行為なのだ。