メインビジュアル画像

全国上映キャラバン
「津軽のカマリ」益子へ

2019年10月27日 映画上映会の企画・運営・広報

それを聴けば 
津軽の匂い(カマリ)が わきでるような、
そんな音を出したいものだ。
—– 初代 高橋竹山
.
津軽三味線の巨匠、初代・高橋竹山の足跡を辿り、津軽地方の風土・文化・人を描き出す、大西功一監督のロードムービー。2015年から2年の撮影期間と1年の編集期間を経て、丹念に編み上げた「津軽のカマリ」は、2018年に渋谷ユーロスペースなどで全国上映され、そのチラシを、2018年末の「ど田舎にしかた祭り」の切腹ピストルズ土産出店で観て以来、いつか自主上映会を!と考えていた。

戦後、満州から引き揚げたのち心が荒れ家庭放棄した親の元を去り、自活の道を求めて温泉旅館に住み込みで働いていた私の母は、連れて来た弟を中学に通わせながら、三味線、長唄、日本舞踊の稽古にも励んでいたという。父と結婚した後は、生活の苦労を気に病むこともなく、趣味として続けていたのが三味線だった。私が、小学校高学年の頃だったと思うが、初めて演奏会というものに連れられて行ったのが、故郷の市民会館、高橋竹山のライブだった。もちろん、特に演奏に感動したとか、どんな曲がよかったとかの記憶は一切ないけれど、母が出かける前から上機嫌だったことはなんとなく思えている。
.
そして、「津軽のカマリ」のチラシを見て半年以上すぎたある日、友人がポツリと「なんかさー。高橋竹山、知ってる?その映画を、監督が北海道から上映機材を積んだ車で全国キャラバンで回ってるらしくて、北海道の友達から、その移動の途中で益子も通るから、上映会やらない?って連絡きたんだよねー。監督と友達なんだって!」と。
お互い、かなり忙しい状況だけれども、このタイミングは、そういうことになるということで・・・。すぐさま、大西監督へメールで問い合わせることに。

そして10月27日(日)、ヒジノワに福島から茨城への旅の途上の監督を迎えて上映会を開催。3回の予定を組んでいたものの、事前に地元紙が大きく取り上げてくれたこともあり、予約の電話が殺到し、急遽、時間をやりくりして、新たにもう一人の友人にも協力を仰ぎ、翌日にも回を増やし、合計100名(ヒジノワ定員は25名)を超える方に見ていただけました。
.

○以下、雑感。
来場していただいた方のほぼ8割が、70歳以上だったと思う。
「30年前だっけかなあ、栃木に来たんだよ。行ったもの、よかったよ、忘れないよ、ずっと。それで新聞で見たからさ、誘いあってきたんだよ。竹山先生、見に行こって」
何人かお話させていただいたけれど、高橋竹山の全盛期の全国ツアーを体験した方たちの、その熱い体験は、おそらくご自身の人生のピークとも重なり、当時の竹山体験を思い返すことは、ご自身の人生で、大なり小なりの苦難を越えながら前へ前へと進んでいた時期への思いと重なり、より一層の鮮やかさを伴って何度も何度も何度も、心に刻まれて来たのではないだろうか、そんな気がした。
.
映画は、地元の青森放送などが残していた貴重な映像と、新たに大西監督が撮り下ろした、2代目高橋竹山との「旅」の映像で構成されている。一番印象に残っているのが、1998年に咽頭癌で他界する2ヶ月前、夜越山温泉の保養施設の座敷のステージにて、三味線をお孫さんなどの支えてもらい「竹山ね、昨日の夜、血を吐いて大変だったよ」と喋りながら、演奏するシーン。施設の職員の方がホームビデオで撮影したものだという。
夜越山温泉(よごしやま)は、竹山が生まれ育った東津軽郡平内町にあり、苦難の時代の竹山に演芸会などで演奏の機会を与えてくれたという恩ある温泉。座敷では、温泉上がりのお年寄りや、家族連れが、おもいおもいにくつろぎながらも、バチさばきもおぼつかなくなっている舞台の竹山を見守っている。レコードデビューしても、渋谷ジャンジャンの定期公演や全米ツアーの成功を収めても、全国ツアーで熱狂的に迎えられても、最後に帰っていく場所があり、そこで竹山は「アリラン」を演奏した。

その最後の演奏について、公開されている秋田大学教育文化学部の研究紀要(2012年)に掲載された論考(→PDF)を見つけたので、その箇所を転載して紹介します。

———————————————————–
『高橋竹山』考   筆者:大城英名

「(前略)竹山の最期は,喉頭ガンであった。彼は最後まで舞台 に意欲を示し演奏することに執着する。竹山の三味線 の音色への探求は,津軽三味線奏者として本気になった が ゆ え の 執 着 で あ る 。 最 後 の 演 奏 は , 平 成 10 年 12 月 21日,郷里の「よごしやま温泉J。当日,彼は大量の血 を吐いた。それでも弾くと言ってガンときかない。アリ ランを弾いた。北海道を門付けして歩いているとき,竹 山は飢え死にしそうになる。そのとき,貧しい朝鮮人の 夫婦に助けられる。彼はそのことを片時も忘れたことは ない。孫娘に支えられながらやっと弾いた。そこにあっ たのは,喰うために三味線を弾いていた門付け時代の竹 山の姿である。また,生きつづけるための強靭な意志を もっ竹山の姿である。享年 87歳であった。」引用転載・終。


「津軽のカマリ」は、ドキュメンタリー映画としてだけでなく、また、2019年の9月に北海道をスタートして南下し、沖縄で折り返したのち北上して最終地・青森を目指すという、大西監督自らが映画とともに旅をしてゆく全国キャラバンという行為そのものが、総体的に見て、今の世の中においてとても意味がある「現代アート」のように思えてならない。
門付けの旅芸人・竹山の映画にふさわしい、上映の手法。小さな村でも、小さな離島でも、監督と、自主上映企画者と、そして来場者の皆さんの人生が、スクリーンを前に交錯する。公民館だったり、個人経営のカフェレストランだったり、大きな民家の空間だったり・・・、さまざまな土地で積み重なってゆく、現代のメッセージアート。旅の終わりに見えてくるものは?
.
大西功一監督インタビュー記事 
 →「高橋竹山を通して見える、日本の地方と音楽の在りよう
映画公式サイト http://tsugaru-kamari.com/index.html
全国キャラバン・スケジュールは、→ こちらで