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守るもの守られるもの

陶芸家 鈴木稔 と 彫刻家 古川潤

アルバムに残っていない、つまり時を経てから写真を見ることで追体験し記憶してきたわけではない古い記憶で、うすぼんやりと思い出せるのは、小さな水辺(たぶん小さな池)のほとりに作られた木造のお堂のような…そしてそこにあった、聖母マリア像。みんなとお揃いの小さな丸い襟の白いブラウスを着た私は手を合わせて「お守りください」とお祈りをしている。カトリック教の幼稚園児だった頃の記憶。小さな手を合わせることで得られる安心感。守られている。守ってくれる存在がいる。

現実世界に出て行く前の、うすぼんやりとした遠い記憶。

大切な友人のひとり、陶芸家の鈴木稔が聖母像を粘土で形にし始めたのは、いつのころだっただろう、私はSNSで投稿された写真で知った。その表情にうすぼんやりとした記憶が投影され、昨今の現実社会の状況も投影され、心もちょっとズキズキした。

彼も作り続けながら、まっとうに考え続けることをやめていない。それだけははっきりとした輪郭をもって、私は少し、安心をすることができた。幼稚園の庭で講堂で手を合わせる時に感じていた安心感にもにて。

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都内のギャラリー。彼の個展の空間で、聖母像は無造作に、とも言える空気感をまとって団体で並んでいた。益子で出会ったらまた感じ方も違ったのだろうか、都会のそこで見る聖母像はあまりにも無防備に「何かにさらされている」ように感じた。守ってあげないと!小さいそれを掬い取るように2体の聖母像を手にしてレジへ向かった。

……
彫刻家の古川潤。彼もまた、作り続けながら、考えることをやめていない、私の大切な友人のひとり。彼に守るものを作ってもらおう。小さな聖母像を白く薄い和紙に包んで手渡し、「木のウロの中で守られるような、そういう空間を作ってあげたい」とお願いをした。

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しばらくして彼が見せてくれたのは、手の仕事が温かみとその息遣いの痕跡を確かに残して、そこにある小さな聖堂だった。

守るものは、守られる。
守られるものは、また、なにかを守る。

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このようなことを、人は軽く「作り手と作り手のコラボ」というかもしれない。守り守られるもの、というと、人は軽く「ウィンウィンの関係で」と企画書に書くかもしれない。

もう、そういう口先だけの言葉使いには、うんざりしているのです。

この週末は、土日ともに多くの友人たちととても良い時間がもてて、あらためて自分の中で確認した。私は誰の真似でもないやり方でまっとうに生きようとする人たち、大切な友人たちとともに自分の足元から小さな革命を続けていく。国民を守る、と、国のリーダーが唱え続ける現実社会で、聖母に守られていた幼稚園の記憶から遠くきてしまった平成の現実社会で。