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君たちはどう生きるか

君たちはどう生きるか

スタジオ・ジブリ最新作、一昨日、劇場で観てきました。

宮崎駿監督には、1996年に、朝日新聞社の某月刊誌の仕事でインタビューをさせていただいた。その際の、私の質問への宮崎さんのお話、そして、インタビュー後、鈴木敏夫プロデューサーとのやりとりは、20年以上経っても、私の中で色あせず、「社会」を見る視点、そして「伝える」姿勢の軸になっていて、同時に「それでは、私は、どう生きるか」という「問い」に繋がっている。

そのことを再確認する、という目的もあり、『君たちはどう生きるか』を観た。となりのトトロ誕生の「原型」についても、過去のインタビュー記事を振り返りながら書いていきます。

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はじめに過去のインタビュー記事のことから。
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昔、引っ越しの際に、「自分の書いた記事が載っている雑誌類」と「そうではないもの」を仕分けしていて、間違って前者を捨てて(痛恨のミス)しまったので、その掲載誌は手元にない。その後、縁あって、発行元勤務の方から社内保管の誌面のスキャンデータをいただくことができた。

掲載誌は、朝日新聞社の月刊誌『幼稚園ママ』(1995-1998)。宮崎監督に、あらためて『となりのトトロ』について語っていただく、という趣旨で、発行人氏と編集担当氏とカメラマン氏と、ジブリのスタジオを訪ねた。行きの車の中で、発行人氏から「宮崎監督と呼ばれるのが嫌みたいだから、宮崎さんと呼んでください」と注意事項の伝達があった。氏の手元には、甘党の宮崎さんへの手土産の和菓子の菓子折も。
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「トトロ」という生き物は、宮崎さんの中でどのように生まれたのか。何か、その「もと」になるイメージや体験があったのか。
そのようなことを、インタビューの冒頭で尋ねた私に、宮崎さんが教えてくれたのは、宮澤賢治の『どんぐりと山猫』の話だった。

月刊『幼稚園ママ』朝日新聞社1996年 スキャンデータより


インタビュー終了後、同席されていた鈴木俊夫プロデューサーから、お褒めの言葉と、違和感からのご指摘の言葉をいただいた。このような内容だったと思う。

「トトロのイメージが、どんぐりと山猫からきていたとは、僕も初めて聞いた。そこを引き出せたのは大収穫じゃないかな」
「話の中で、地域社会の中で孤立化する若いお母さんたち、と言っていたけど、それはどうかな? うちのマンションでは、世代に関係なく交流があるけど・・・」
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お褒めの言葉は、その後、「なんとなく、そうだよね」という集団思い込みの先入観から離れて、そもそものところから当の本人に聞いてみるというインタビュー際の私の鉄則となった。これも、あとで聞いたことだが、その場では、発行人氏は「なんてこと聞くんだ!」とハラハラしていたそうだ。受け手の解釈によっては、「何かの模倣をしていると言いたいの?」とご立腹される可能性もあるから、と。
まあたしかに。とはいえ、新しい創造にも、その姿形が立ち上がる土壌があり、霞のようなものだとしても原型がある。そこをさかのぼり言語化していくことが、創造者へのインタビューの醍醐味だと思う。
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違和感ご指摘については、その時は「そうかあ、ケースバイケースだなあ」くらいにしか受け止める力量がなかったけれど、仕事や活動を重ねるにつれ、その際の指摘の意味がわかってきた。地域社会の中で孤立する若いお母さんたち・・・。先が見えない未来・・・。住民の高齢化が進んだことで増えてきた耕作放棄地・・・、などなど。「世の中で、こう言われているから」「新聞やテレビニュースで、よく、語られているから」と、常套句を、枕詞のように、安易に・・・対峙する現実に付けるな!という教えとして。。常套句の枕詞に違和感を持つ(疑う)視点は大切だと思う。
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さて、新作『君たちは、どう生きるか』、です。
公開から10日、(まだ)ウェブもパンフレットも公開されていないので、詳細は省くが、
観終わってから、(観てよかったとは思ったものの)、何をどう受け止めて良いものか、なかなか難しく、ずっと「咀嚼」の試みだけを続けている。

そして、昨日。購入してきたポストカードを見ながら、そうか、と、私なりの1つの解釈に行き着いた。吉野源三郎の小説(1937年)に題名を借りた宮崎駿アニメのとしてのタイトルには「言葉を補って」受け止めるべきなのではないだろうか。

(今の時代に)君たちはどう生きるか。

どう生きるかという問いの前に、
今の時代をどう認識しているのか?と問う映画なのだ(私にとっては)。


主人公マヒトが自ら進んで入って行った「世界」に存在した、無数の、小さくて丸い生き物(ワラワラ)たちは、宮崎さんがインタビューで語った宮澤賢治が描くドングリたちのようでもあり、それをヤマネコのように鷹揚に見守る存在(キリコ)もいる。
そのワラワラが、現実世界に生まれ出ようとする前に襲って食べてしまう、悪意に満ちた目をした無数のペリカンたち。しかし、ペリカンたちもまた「生きづらさを抱えている」と瀕死の老体はマヒトに語る。
城のような塔の中に入れば、まさに烏合の衆のように押し合いながら食べ物の支給をただただ受け身で待つだけの、インコたちが無数にいて、(近代×国家)に飼い慣らされ声もあげぬ市民のようでもあり。

ああ、点と点を繋いで行きたいのだけれど、まだまだ咀嚼できない。
あの日のインタビューへの宮崎さんの答え、つまり宮崎さん独自の『どんぐりと山猫』への解釈も、25年経っても理解できていないようにも思える。
(今の時代を)どう生きるか。もう老体の域に入ってきた身ではあるけれど、自分の中に問いとして持ち続けていくしかない。「こんな時代」だからこそ。

あと、1、2回は観たいなー。