ここにあるもの。
ひとつ歳を重ねた日の半日と、その次の日を、いま、ここにあるものを丁寧に見つけ出していく、という行為に使った。それは、庭仕事のこと。
山の麓の一角を自然を相手に間借りするつもりで、地主さんから土地を借り小さな住処をこしらえさせてもらって…2年と半年が過ぎた。この土地に巡り合ったときは、もう更地に戻っていたのだけれど、その2年ほど前までは、ここで40年の日々を過ごした家族がいたと聞いていた。最後の数年は、夫に先立たれたご婦人が一人で暮らし、長野に住む娘夫婦のもとへ移り住んだと。
更地になっていた平らな土地は、スギナやヨモギやハルジオンやフキやワラビなどなど野草天国になっていたのだけれど、南側の高い隣地へ続く斜面には、生い茂った篠竹や絡みついた藤のツルの合間から季節ごとに、花の色が、かすかに見え隠れしていた。ツツジ、アジサイ、ヤマブキ、バラ、ユキヤナギ…。藪の奥には、朽ち果てた支柱やアーチも見えていた。先人は、この斜面をも庭として、植物を育てながら日々の暮らしの中で、眺め、手入れをし、心の拠り所としていたのだろう。
冒頭に書いた「作業」のことは、木々に絡みついたフジのツルや、密集して伸び放題の篠竹を刈り、先人が残した、ここにあるものを、もう一度、光や風の中に解放すること。その生の輪郭をあらわにしていくこと。
刈り取った篠竹の向きを揃えて地面に横たえ、その量が軽トラの荷台1杯分くらいになる頃、樹形も花々もあらわになったツツジの花に、黒いアゲハが、さっそく飛んで来ていたという。作業の親方(パートナー)が教えてくれた。
「ひらひらした柔らかい羽を傷つけることもなく、 花にとまれるようになったから…」と。
私はその姿を見てはいないのだけど、その描写の言葉に、日々、考え続けてきていることのイメージを重ねて、花に呼応する蝶の姿を見た。ないものを望むのではなく、身の丈以上に背伸びすることもなく、先人から受けついで、ここにあるものの価値を見出し丁寧に、見ていくこと。見るようにしていくこと。見えるようにしていくこと。
斜面の奥にも、山の麓の林に分け入っても、園芸種に混じって野のものも見えてくるようになった。とりたてて何でもない土地が、豊かな土地。