「憲法は実行するものです」
中村哲さんの訃報に_2
中村哲さんの訃報に、多くの人が、(彼の地の人たちも、こちらの人たちも)涙にくれる日々が続いている。ある人は、SNS で「中村さんのことは忘れません」と投稿し、ある人は、国内外のさまざまな情報をシェアし続け、悲しいね!と涙を流す顔のマークがいくつも押されていく。ある人は、政府筋が、中村さんの死に際して対応が冷たいと、SNS で憤る。
日本でのらりくらり過ごす私が「忘れない」とは、どういうことだろうか。
凡庸な私が「志を受け継ぐ」とは、どういうことだろうか。
書籍も読み、ドキュメンタリーも拝聴し、大学の講義では、授業の1回分で、ペシャワール会の活動を紹介してきた。しかし私は多分、1年もすれば、いまの喪失感も何かで埋め合わせていくし、ペシャワール会に寄付をしようと思ったことも忘れていく。
しかし私は・・・。
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中村さんの訃報に接した翌日、郵送されてきていた「訴訟委任状」にサインをした。「安保法制違憲訴訟(国家賠償)東京地裁 原告団」のひとりとして、中村さんの志と無念さを、凡庸な人間として、しっかりと受け止めながら「控訴」の動きに加わった。
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2015年9月19日、安全保障関連法が参院本会議で強行採決され、号外には「海外での武力行使に道」「海外での武力行使を含む自衛隊の活動は飛躍的に広がる」という言葉が並んだ。非戦を誓った国から、戦争ができる国へ。
各地の路上で、デモやスタンディングでの抗議も行われ、その一方で、市民が「訴訟」を起こす動きも広がった。安保法制による自衛隊の出動などに対する「差止訴訟」と、平和的生存権と人格権侵害などに対して「国家賠償請求訴訟」が、札幌地裁から沖縄地裁まで、全国22の地域で提訴がなされ、7704名の市民が原告となっている。私は、2017年から、国家賠償訴訟(東京地裁)の原告に加わっている。
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さて、そして、その国家賠償(東京地裁)は、11月7日に結審し「原告の請求はいずれも棄却する」という判決が言い渡されている。
この判決に至る経緯については、ぜひ、こちらの記事をお読みください。
→ 朝日新聞(憲法を考える)
経緯を少し補足すると、2018年の1月と5月の期日で、10名の原告本人尋問が行われ、計11回の口頭弁論が開かれ、原告の証言を裏付けるために証人申請をしていました。 これまで、横浜地裁などの裁判で「安保法制はあきらかに違憲」と証言を続けてきた、元内閣法制局長官の宮崎礼壹さんやNGO職員など8名。しかし。7月に「原告側の証人尋問を一切認めない」という判断を裁判官は下し、以下8名の証人は一切の証言を封じられたまま、「原告の訴え棄却」という判決に至っています。また、この間「裁判官が全員入れ替えられる」という事態も発生しています。
そしてここでは、原告となるときに提出した「陳述書」を公開します。
そこでは、中村哲さんの言葉も引用させていただいています。
公開については、安保法制違憲訴訟の会事務局に相談をして、代理人弁護士の方から「著作権は本人にありますし、公開することは、市民の立場でできること、市民の権利を伝えることにもなるので、ぜひ」という許可のお返事をいただいています。
安保法制違憲訴訟の会 →公式ウェブサイト
中村哲さんも、インタビューでおっしゃっていましたよね。
「憲法は、守るものではなく、実行するものです」
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「憲法は我々の理想です。理想は守るものじゃない。実行すべきものです。 この国は憲法を常にないがしろにしてきた」 2013年毎日新聞夕刊 追悼・中村哲(佐高信) https://kadobun.jp/feature/readings/6vi8aplht1oo.html
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陳述書
2017年11月30日
簑田理香
1自己紹介
私は熊本県人吉市で生まれました。福岡出身の母は、三井炭鉱の経理の仕事をしていた父の満州駐在にともない、子どもの頃に家族で中国北東部へ渡り、終戦後に辛い思いをしながら日本へと引き上げてきました。ソ連軍の侵攻にともない、日本へと避難するために夜通し歩いて移動し、引き上げ船に乗るまでのことは、私が成人して結婚し、長女をもうけて初めて話してくれました。赤ちゃんを背負った婦人が泣き止まない赤ちゃんを周囲の大人たちに「ソ連兵に見つかるから」と叱責され、路上の石に赤ちゃんの頭を叩きつけて死なせたこと。それを女学生だった母は息もできずに声も出せずに、ただみているしかできなかったこと…。絞り出すように「二度とそんなことが、戦争があっちゃいかんとよ」と語った母の声は忘れることができません。
同じく福岡出身の私の父は、学徒動員で下関の軍事工場で働いていて終戦となり、線路の上を歩き通して福岡市内の自宅へ帰る道すがら、二度と戦争のない世の中をつくるために、自分はこれから死に物狂いで憲法や法律を勉強しようと考えたそうです。その後、父の父、つまり私の祖父が家業に失敗し、祖父を支えなければいけないこともあり、熊本の逓信講習所に入所し郵便局員になりました。戦争のない世の中を作るために憲法の勉強を…という志は、労働組合員として、やがては、全逓信労働組合の地域の支部長や地区労議長などを務めながら、社会的弱者の基本的人権を守り、個々人の尊厳を守る活動を亡くなるまで続けながら、常に、戦争放棄をうたった平和憲法を誇りにし、それを活動の拠り所にしていました。私が大学生になって、父から贈られた本は、小学館の写楽ブックスから出版された『日本国憲法』でした。
2 安保法制の制定・施行による私の被害
それから30年、刷を重ねた小学館の『日本国憲法』を、私は今年の春、次女に贈りました。大学で国際関係論を学び、JICAの青年海外協力隊として、6月に南米のパラグアイに赴任した娘への餞別です。娘は、8月6日に生まれました。その日が広島に原爆が落とされた日であるということを、小学校の高学年の頃から意識するようになり、なぜ、戦争が起きるのか?ということを子供なりに考え始め、杉原千畝やアンネフランクの伝記などにこころを動かされていました。2013年の4月に入学した大学では、国際学部で学びながら、途上国の住宅建設支援のNGOの大学支部で、フィリピン、マレーシア、ネパールなどのアジア各国にボランティアで出かけ、「卒業後は平和構築に貢献するためにNGOや民間ボランティア組織で働く」という夢を持ち、ニューヨークの国連研修にも参加していました。そんな彼女の活動を、離れて見守りながら、応援したい気持ちの一方で、不安が増すようになってきました。彼女が夢に向かって活動を進めるのと同時進行で、日本政府が戦争参加への道を進み始めたからです。2014年7月の集団的自衛権行使容認の閣議決定、2015年9月の強行採決。この事態で、海外で活動する子どもをもつ親として、私は、計り知れない不安と精神的なダメージを受けています。戦争放棄をうたった平和憲法をもつ国の国民として、海外での活動へ安心して子どもを送り出せていたはずが、「アメリカに従順で好戦的な国の国民、戦争準備の道を進み始めた国の国民」となったことで、どこで、どのような事件やテロや攻撃に巻き込まれるかわからないという不安から逃れられなくなってしまいました。「日本がいろんな国と、友好な関係を築けるように。世界の平和構築に貢献できるように」と海外に羽ばたいた娘の夢を安心して応援することもできなくなってしまっているのです。それも、本来、政府の暴走を縛るはずの憲法に背く暴挙を続ける政府によって。こんな理不尽なことがあるでしょうか。日本は立憲主義国家であったはずです。
裁判官の方々も、アフガニスタンで活動するペシャワール会の中村哲さんのことは、ご存知でしょう。2014年5月14 日付の西日本新聞の取材に中村さんはこう答えています。「米国同時多発テロの後、米国を中心とする多国籍軍が集団的自衛権を行使し、軍服を着た人々がやってきてから、軍事行動に対する報復が激しくなり、国内の治安は過去最悪の状況です。アフガニスタン人は多くの命を奪った米国を憎んでいます。日本が米国に加担することになれば、私はここで命を失いかねません。安倍首相は記者会見で「(現状では)海外で活動するボランティアが襲われても、自衛隊は彼らを救うことはできない」と言ったそうですが、全く逆です。命を守るどころか、かえって危険です。私は逃げます。」
集団的自衛権の行使によって、海外で活動する私の娘が危険にさらされる。1日も早く、その悪夢から逃れられることを切に願っています。裁判所が、未来を担う若い世代の人権はもとより、平和構築の夢を描く権利も、それからもちろん日本国憲法を守る最後の砦であることに、望みをつないで私の陳述書とします。