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未来に繋ぎたいものは?
宮古島と益子を結んで

2020年1月 イベントの企画・運営、広報

レポート公開|未来YES!2020冬のツドイ
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1月25日にヒジノワで開催した、こどもの未来にYES!をつくろうネットワーク「2020 冬のツドイ|地域の文化と暮らしの平和–宮古島と益子を結んで」について、「開催趣旨・開催概要・報告レポート」をここにまとめて、記録します。
また、石嶺さんの益子での滞在中は、一緒に日下田藍染工房に正先生を訪ねたり、「ぬのといと」メンバーとの交流の時間も持っていただいたので、そのことについても写真とともに追記します。
ということで、超!長文になりますが、お時間あるときに、何かしらの手がかりに、お読みいただければ幸いです。

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1|開催の趣旨と概要|facebookイベントページより
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「地域の文化と暮らしの平和–宮古島と益子を結んで–」

宮古島の染織の手仕事展・お話会・映画上映会
2020年1月25日(土)益子町ヒジノワcafe&space

みなさまへ
益子が、陶芸の産地であるように、その土地その土地には、それぞれの歴史風土に育まれた文化があります。遠い海の彼方の沖縄も、多くの島々があり、それぞれ違った言葉や歌や工芸があります。2017年にヒジノワで上映会を開いた、民俗学研究者でもある三上智恵監督の「標的の島 風かたか」では、沖縄島だけではなく、宮古島のミサイル基地建設や石垣島への陸上自衛隊ミサイル部隊配備の問題とともに、島の芸能や祭りも描かれていました。石垣島の民謡トゥバラーマ、旧盆の伝統芸能アンガマ、仮面をつけた神々が家々をまわる宮古島の伝統行事パーントゥ、そして宮古上布の織物…。まずは、お互いの土地の文化を知り、理解しあう、尊重しあう・・その先に平和を描いていけたら。そんな思いから、今回の企画となりました。自分たちの地域の文化を守ることが、自分たちの暮らしの平和をつくることに繋がる。相手の地域の文化を知ることが、相手の暮らしの平和を守ろうという想いに繋がる。お互いを理解し、お互い尊重しあう。そして、大切に守り、未来に繋ぎたいものは、何なのか。
わたしとあなたの平和の巡り。一緒に感じて、考えてみませんか?
「標的の島 風かたか」にも登場されていた、染織作家の石嶺香織さんをゲストに迎えて、作品のミニ展示会とお話し会、夕食交流会を開きます。 
関連企画として、この秋にヒジノワで上映した「津軽のカマリ」の大西功一監督が、宮古島で口承で継がれてきた、宮古独自の「神歌」を追ったドキュメンタリー「スケッチ・オブ・ミャーク」の上映会も行います。お誘いあわせの上、ご参加ください。
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あなたが、守り、未来に繋ぎたいものは、なんですか?
・・・そんなことを、共有しあう時間にできたらと思います。


イベント内容:タイムテーブル
○9時〜18時30分
宮古島・染織工房timpab展示会
ヒジノワスペースⅠにて、一部販売もあり。宮古上布や、沖縄ならではの染織の手仕事をご覧いただけます。また、染めや織りの反物をお選びいただいての受注も承ります。
○9時40分〜16時40分 
映画上映会「スケッチ・オブ・ミャーク」ヒジノワスペースⅡにて。
・料金 1200円(当日1500円)中高生500円(当日800円)
・小学生以下無料 ・各回定員25名、
09:40-11:20 上映①  12:20-14:00 上映②  15:00-16:40 上映③
映画公式サイト http://sketchesofmyahk.com
○17:00-18:00
お話会「地域の文化と暮らしの平和」ヒジノワスペースⅡにて。
ゲスト:石嶺香織さん
○18:30-20:00
夕食交流会 |会費:お茶や珈琲などの飲み物込みで1500円

石嶺香織さん|1980年生まれ。福岡県出身。染織工房timpab主宰。
大阪外国語大学中退。2008年宮古上布を学ぶために宮古島に移住。陸上自衛隊配備に反対するママたちを中心とする「てぃだぬふぁ 島の子の平和な未来をつくる会」共同代表。元宮古島市会議員。2016年に開業した「染織工房timpab-天の蛇-」では、苧麻や綿、紙糸などの素材から糸をつくり、島の草木で染め、織っている。また手織りの布やアンティークの宮古上布を使った織衣や小物、刺繍作家や紅型作家、革職人などと作品の制作を行い、沖縄県の工芸品振興事業への参加など、精力的に創作の幅を広げる。8歳5歳の男の子、3歳1歳の女の子の母でもあり、島の歴史と自然の恵みを受け取り、手仕事の豊かさを通して「いのち」とともに次世代につなぐ日々をおくる。

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2|イベントレポート
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石嶺さんは、末っ子の「あやちゃん」をおんぶして、大きなスーツケース2個に作品を詰めて、6時間弱という時間をかけて、ほんとうに言葉通り遠路はるばる、益子ヒジノワに来てくれました。
ガジュマルの気根やフクギを用いた染めの手仕事、苧麻を用いた織りの手仕事、刺繍作家さんとのコラボ作品、骨董屋さんから仕入れた宮古上布の着物などを、まとまった点数で手にとって拝見する機会となりました。しかも、ご本人のお話を伺いながら!なんとぜいたくな…。
手仕事のものが作られる土地の歴史や自然の文脈や背景、そして作家ご本人の歴史や思い、さまざまなものが交わり合いながら生み出される手仕事の話を、夕方からのお話会はもちろん、昼間の展示エリアでも訪れた人に丁寧にお話してくださいました。朝から夜まで、お客様も絶えることなく、また、町内外の染めや織りの作家さんも訪れてくださって、石嶺さんと染料のことや糸のことなど情報交換の会話を弾ませていらっしゃいましたね。

 『スケッチ・オブ・ミャーク』は、3回の上映で48名の方にご覧いただけました。その中でも、なんと、映画の原案・監修・出演を務めた久保田麻琴さんと、かつて音楽活動をともにしたいたというドラマー井ノ浦英雄さん(県北にお住まい)が、お仲間の三線の会の方や、宮古島の西67kmに浮かぶ多良間島ご出身の方とご一緒に来てくださり、映画鑑賞後に石嶺さんとの立ち話も弾んでいました。

『スケッチ・オブ・ミャーク』より
『スケッチ・オブ・ミャーク』より

そして17時からのお話会には、26名のご参加をいただきました。内容については、書き起こしの記録をぜひ、お読みください。

最後に、石嶺さんは、最近お亡くなりになったお祖父様との関係性のことを語ってくれました。そこで「愛」という言葉を使われていました。その具体的な経緯やエピソードから、まさに「愛」としか呼びようがなく、「愛」というものの実態が初めて見えた気がしました。

同時に、私たちは「愛」や「平和」という言葉をついつい使いがちですが、果たして、その「具体」を自分のものとしてちゃんと持っているのか?と省みる機会にもなりました。自分たちの地域の文化を守ることが、自分たちの暮らしの平和をつくることに繋がる。相手の地域の文化を知ることが、相手の暮らしの平和を守ろうという想いに繋がる。お互いを理解し、お互い尊重しあう。そして、大切に守り、未来に繋ぎたいものは、何なのかを、ひとりひとりが確かめていく。あの日あの空間に集うことができた皆様と、それぞれの生活の中で、そんな「これから」の手がかりを大切に育てていけたらと思います。
      

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3|「石嶺さんのお話会」書き起こし記録
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暮らしと結びついた祭祀のあり方

こんばんは。宮古島から来ました石嶺香織と言います。よろしくお願いします。今日はたくさん集まっていただいて、ありがとうございます。

先ほど、簑田さんからもお話があったんですが、私は福岡出身なんですが、宮古上布を習いたくて、最初は1人で移住しまして。12年前ですね。そこで工房に入って、習っていまして。織物を習うときはお給料も出ないので、昼間9時から5時までとかずっとやっているんだけれど、ほとんど無給で習うような感じなので、夜アルバイトしていまして。塾で働いていて。そこで夫と知り合って結婚したんです。その夫が宮古島出身で、夫のお父さんもお母さんも池間民族になるのですが、お父さんのほうが、先ほど映画に出てきた西原というところなんですね。スーツの男性がみんなで踊っていた、あそこです。

お母さんが佐良浜といって、三角形の宮古島の左側に小さな島があるのですが、これが伊良部島といって、いまは橋でつながっているのですが、この伊良部島の佐良浜という漁師町が夫の母の出身地です。佐良浜と、宮古島の北のほうに池間島がありまして、あと宮古島の西原というところの3カ所が池間民族という民族なんですね。順番としては、北のほうにある池間島から伊良部島の佐良浜に移ったんです。池間と佐良浜両方から、西原というところにまた移っていまして、それが130年ぐらい前ということなんですが、西原の文化自体は、そんなに歴史は古くないんですが、民族としてはずっと伝承されているので、いろいろな歌などが残っているんです。いま宮古のなかでもかなり祭祀をやっている、残っているほうだといわれています。その分、地域の結束が強かったり、縛りがきつかったりして、住みにくいとか、そういうこともいわれていまして。うちの夫の家は町中に家を建て直して、西原を出てしまっているのですが、ルーツは佐良浜と西原にあるので、言葉などを聞いていて、同じだなという感じ。

言葉が違うのに驚かれたと思うのですが、宮古島の中でも全然言葉が違うんですね。私はそんなには聞き取れないんですが、イントネーションとかを聞いていて、池間民族の言葉だなというのは分かるようになりました。映画の話をしはじめたらとまらないかもしれない。少しだけ続けます。
今回、私の作品をいろいろ持ってきまして、宮古上布、アンティークの宮古上布も持ってきているのですが、藍染めの濃い紺色のものが、宮古上布の着物をほどいて作ったものです。 それを見ていただくにあたって、この映画とセットというのはすごくよかったなと思っていて。やはり、単純に洋服とかものとして見るというより、きょうの映画を見ていただいたら分かると思うのですが、祭祀があって、そのために織るとか、ただの衣料品としてのものではなくて、祈りとか、そういうものと布が一体となっているんですよね。映画では、歌と祭祀は一つだと言っていましたが、布もやはり関わってくる。
いま、西原のほうではスーツになってしまっているのですが、あれも彼らにとってはすごくいいものを着ているという感じなんですよね。もともと着物でやっていて、洋服が出てきて、普段は農業などをやっているおじさんたちなんです。ネクタイを締める機会などないです。その人たちが一番いい服を着るというので、ああいうふうになってしまっていて、ちょっとどうかなと思うのですが。そういうものなんですね。
女性たちは着物を着ていたと思うのですが。ブー績みのシーンもありましたね。苧麻をおばあが績んでいる。なめているのかつないでいるのか分からないぐらい唾を使ってくっつけるのですが、もちろんひねったりするのですが、いまの人は唾をつけないで、水をこのへんに置いてつけたりするのです。おばあの唾液でやったのとは違うみたいな(笑)。やはり粘着性があるので、それでちゃんとした糸ができるというのがありました。

祭祀が消えていくという状況・・・、いまこの映画だけ見ると、本当にすごくいい世界観があるんだなという感じですが、実際はこれを守るのも大変だし、宮古島にいても関わっていない人は全然分からないし。祭祀を守っていくというなかで、私は祭祀は祭祀だけであるのではなくて、もともとは収穫のお祝いだったり、宮古上布の納税が大変で、人頭税という女性に課せられた税金、それが大変で、年一回の納税が終わって解放されたときに踊るとか、そういう労働があって、喜びがあってというセットなわけです。なので、祭祀だけ守るというのだけでなくて、やはり生活スタイルがすごく変わってきていて、失われていっているものがあります。
西原でやっている祭祀でも、収穫祭といってもひとつだけではなくて、粟が取れたお祝いとか、おいもが取れたお祝い、お米が取れたお祝いとか、ツカサ大変だと言っていたんですが、カレンダーびっちりなんです。仕事をやめないとできないぐらい、ずっとこのときは何日間、御嶽に泊まり込みですとか、普通に考えたらできないような生活をやらないといけないんですね。
そういういろいろ生産して作る労働があって、それに対する祈りや祭祀というのがあるので、いま変わってきたなかで、ではどうやって守っていくのかというところなんですが。ただ祭祀を守るとか、方言を守るとかだけでなくて、完全に昔に戻ることはできないにしても、やはりそれを生み出した生活とかを見直したり大切にするという・・・。
無意識にああやって着物から背広になってしまったこともあると思うのですが、いまの人たちは自然にやっていたら、そういうこととは関係ない生活になっていくので、ある程度、意識的に守っていく、選んでいくということをするのが大事なのかなと思っています。

ひとりの人が亡くなると「文化」が消えてしまうということ

私自身は織を通して、それをやれたらなと思っています。
私もおばあたちが言っていた神様というのを、実際にすごく信じられるかと言ったら、宮古で育った人間でもないし、そんなに信心深くなれるわけではないのですが、最初に宮古に来て工房に入ったときに「糸の神様」とか工房の先生たちは自然に口にするんですね。
宮古の苧麻糸というのは、小さい枷でなくて長い7mぐらいの枷で、棒と棒を立てて、そこに張っていくのです。それを巻いていくのですが、そのときに糸の神様だからまたいでは駄目とか、すごく言われるんです。だけど、部屋にばーっと張っているから、どうしても面倒くさくなってまたいでしまったりしたことがあるんです。そうしたら、苧麻は細いから見えなくて、数本切れてしまったりするんです。
それを聞いてやはり、神様だから大事にしなさい、またいでは駄目とかいうことが、いろいろなことを教えているというか、切れたりすることも防いでいたり、神様だよと迷信のようなことを守ることによって、いろいろな教えのようなものが「糸が切れるからまたいではいけませんよ」という伝え方ではなくて、神様だからまたいではいけませんよとか、そういう伝え方になって機能しているんだなと思うことがあったりします。

あと、御嶽(うたき)の周りの木も絶対切ってはいけないといわれるんですが、いまはすごく開発が進んでいて、御嶽のところしか木が残っていないんです。御嶽の周りの木を切ってはいけないと言われているから、みんな怖いと思うから切らないんです。だけど、そういう畏れる気持ちがなくなってしまうと、どんどん開発が進んでしまう。映画でも、おばあがの話で迷信と出てきましたが、迷信のようなことがあるなかで、いろいろな人間の生活が守られている。
うちの夫のお母さんは、「標的の島」にも出ていたのですが…、子どもが産まれて、名前の紙とかを見て、あとは胎盤を埋めたりするシーンとかです。昨年亡くなったのですが、やはり一緒に接していると、迷信みたいなことばかり言ってきて「うっとうしいな」という感じなんですよ。「夜は御嶽の前を通っては駄目よ」とか、「帰り道は遠回りしなさい」みたいなことを言うけれど、私たちは無視して通ったりしていました。

でも、失ってみると、その人の存在そのものが文化だったんだという感じがして。ひとりの人が亡くなると、文化が消えてしまうみたいな、それぐらいやはり大きな差がある。その世代の人たちが持っていた文化と、私たちが持っている文化が、きちんと継承されていないから文化が消えてしまう感じがすごくするんです。映画のおばあたちもそうだと思いますが。だから、意識的にやっていくことが大事かなと思っています。

福祉の仕事から手仕事へ、水俣から宮古島へ

私が織物をやろうと思ったきっかけについてお話しますね。私は25歳ぐらいで織物をやりたいなと思って。それまで福祉系の仕事をやっていて、障害を持った方たちが絵を描いてTシャツのデザインをして、それを商品化して通販で売ったりするようなお仕事をしていまして。そのなかで、障害を持った方たちが最初のデザインはするんだけれど、そのあと、やれることが少なくて、Tシャツを作ったり、プリントしたりするのは外注だったので、もっとこれが手仕事だったら、いろいろな仕事が生み出せるのになと思っていて。
彼らの仕事がないことにすごく自分の中で葛藤していたというか、もっと手仕事ならいろいろな工程があって、この人はここができる、この人はここができるとか、そういうことができるのになという思いがあって、だんだん手仕事に興味を持って、私自身が織物をすることになっていったんです。

最初は熊本の水俣に行って、個人工房に住み込みで1年ぐらい習いました。そこは和紙と機織りの工房で、夫が紙すきをしていて、妻が綿を植えて、わたを取って、糸つむぎから織るところまでやって、それをある程度習って。
そのあとに、産業として織物が成り立っているのは、いまは沖縄ぐらいだよということを聞いて、沖縄で学ぶ場所を探して、そのなかで、離島なら後継者が少ないから外からの人も受け入れてくれるよという話を聞いて、いろんな縁もあって、宮古島に行ったんです。
沖縄も、織物の種類は地域ごとにいろいろありまして。宮古上布を選んだのは、原料からすべて島で手づくりしているというのが宮古島だけだったんですね。たとえば首里織とかは絹で、絹糸は中国から買っていたりとか。もともとは蚕からやっていたと思うのですが、いまは、原料を島で育てて、糸を手紡ぎとか手績みをして、織物をしているところは、日本全国でほとんど残っていなくて。それをやっているのが宮古島だったんですね。
これはアンティークですが、苧麻という草の茎から繊維を取って、裂いて、糸にして。それからこれは絣です。くくってから藍染めして、織るという工程をやっています。

穏やかに手仕事をする日々ではなくなる・・・

織物をやりたいと思って、宮古に移住して、結婚して子育てもしながら、織をやっていたのですが、宮古島に陸上自衛隊のミサイル基地ができるという話になって、まだそのときはもちろん三上さんの映画もできる前ですよね。これはもう穏やかに織をやれるような生活ではなくなるかもしれないと思って。
やはり文化というのは平和あってのものだから、もちろん戦争になったらそんなことはできないし、その前に戦争のような雰囲気になってきたら、ものづくりする人なんて切り捨てられていくというのは、前の戦争で分かっていることなので、ちゃんと止めないといけないと思って。

そのときは計画段階で止めないといけないと思いまして。辺野古を見ていたので、工事が始まってしまってから止めるのは難しいし、自分たちのような子育て世代がずっと座り込むなんてこともできないし、仕事もしなければいけないし。やはり計画の時点で止めなくてはいけないと思って、反対運動を始めました。
議会に陳情書を出したりするなかで、議会を見に行くようになって、委員会の傍聴をしていましたら、地下水のこととか、自衛隊配備を止めてくれと陳情を出していて、議論されるんだけれど、まったく知識のない人たちが議論していて、陳情は切り捨てみたいな感じの状況を見て、私が見ていたのは総務財政委員会というところだったのですが、このなかに入って私が絶対手を挙げたい、採決にも入るようにならないと、この人たちが決めているんだから、やはり議員にならないと駄目だという思いが、運動を始めてから1年ぐらいでそう思いまして、一番それが有効な手段かなということと、市長を追い詰めないといけないと思って、議員になりました。

最初は、「てぃだぬふぁ 島の子の平和な未来をつくる会」という会を作って…。議員になる前ですが、市役所の前で毎週スタンディングとかをやって、そのころはSEALDsが国会前でやっていたころで、私たちも同じような感じでやろうといって、市役所の前で抗議行動を毎週金曜日みたいな感じでやったりしていたのですが。ある程度人が集まったら、それ以上増えなかったんですね。島中の人がみんな反対して、SEALDsのように人がすごい集まるんだと思ったのですが、20人程度で、もうあとはいつも決まったメンバーみたいな感じになって。

実際は、いろいろな人と会って話したりすると、自分も反対だよとか、頑張ってねとか、声を掛けてくれる人は多いのですが、なかなか輪が広がるというふうにならなかったです。途中で仲間を増やすとか、輪を広げるということを私は諦めてしまって。もうしょうがない。この島の中ではすごく言いにくい案件なんだなというのが分かってきて。
沖縄は自衛隊員に息子がいるという人がすごく多いんですね。あとは親戚とか隣の人とか近所の人が自衛隊に行っているというだけで、もう自衛隊配備反対というのは言えないと思っているんです。
家族が自衛隊ということと、ミサイル配備反対ということは、本当は全然別のことで、身近な人がいるからこそ、そんなものは作ってはいけないと思うのですが、なかなかそこまで考えるというか、そういうふうに思う人は少なくて。自衛隊配反対といったら、自衛隊のことを悪口言っているみたいな感じの、そういうふうな思考になってしまうので、なかなか声を上げられる人がいない。

あとは、建築関係ですね。基地を作るのはすごく儲かるので、この間、カジノの賄賂疑惑で問題になった下地幹郎さんとか、宮古島出身の議員ですが、あの人の兄弟が宮古の中で一番大きな建築会社の社長なんですよ。辺野古もやっているのですが。そういう建築関係の人が周りにいると、またもう言えないとなって、かなり多くの人が言えない状況にあるんです。
そのなかで、私はもうみんなが言いにくいならいいやと、私はみんなの代わりに言う役割でいいと思って、自分が犠牲になるではないですが、そんな感じでやってきたんですね。
映画を作るときに、三上さんともお話をしたのですが、周りの人がやはり心配して、顔とか名前をあまり出さないほうがいいんじゃないかとか、子どもも映っていたりするので、子どもを出さないほうがいいのではないとか言う人たちもいたのですが、やっぱり三上さんが、個人の名前を出して、顔を出して、個人のストーリーをきちんと見せないと、ここに生きている人というのが伝わらないと、みんな共感しないし、考えてもらえないから、やはり出すのは大事だという話をして、私もそれでいいですという感じだったですね。
山城博治さんとか島袋文子さんとか、そういう人物を通してみんな物事を理解していくというか。ざくっと風景だけ映しても、やはり皆さんは感情移入しにくいし、自分事として捉えにくいというのがあると思うので。

それで私は、そういう演出の下、演出の下というか、別に三上さんの演出ではないのですが、私自身がそういうつもりでやっていました。始めた当初は、ママたちから市長への手紙とか、そういう新聞投稿をしたり、お母さんがこんなに思っていますみたいな感じのをやってみたりしました。ちょうど、「安保関連法に反対するママの会」の西郷さんがママの会を立ち上げたのと、「てぃだぬふぁ」ができたのは一日違いなんですが、同じころにそういうことが進んでいたんですね。法制化ということと、現場ではそういう実戦部隊ができるということが同時並行で行われているなというのをすごく感じていたのですが。

落胆や失望の気持ちを抱えながら、ふたたび織りの仕事に。

ただ、そうやって自分が痛い目に遭ってもいいから、それで止めるんだみたいな、止めるためなら自分が犠牲になってもいいという考えでやることは、やはりちょっとマイナスの要素もあったなと、いまはすごく思うんですね。余計にいろいろな人が参加しにくくなるというか、私はいろいろな発言でたたかれたりもしていたので、なんか言ったらあの人のような目に遭うんだみたいな、そういうふうになってしまうと、どんどん普通の人から遠ざかっていってしまって、本当はもっとどんな人でも入りやすい活動、やわらかい活動とか、やわらかい表現とか、そういうふうにやっていけばよかったのですが、だんだん皆さんも遠巻きに見るような感じになっていってしまって。それはやはりよくなかったなと思っているんです。

私は補欠選で議員になりまして、10カ月間やったのですが、そのあとの本選では落選したんです。やはり地盤があるわけでもないし、いろいろなバッシングとかもあって、難しかったかなと思います。選挙の直前に産経新聞に書かれたりとか、いろいろありました。
「ヒゲの隊長」って呼ばれてる佐藤正久議員にツィッターで書かれたり、そういうのもありまして、やはり自衛隊を配備したい人たちには目の敵にされていたのですが。落選して、そのときは698票取ったのですが、800ぐらいが当選ラインだったんですね。2017年10月22日に選挙があって落選して、その月の30日から千代田のミサイル基地建設の工事が始まったんです。
それまで私は2年間ぐらい織物をまったく休んで、ずっと活動をしていたんです。議員の間だけでなくて、議員になる前からほとんど活動で一日が過ぎてしまっていて。座り込みとかではないのだけれど、いろいろな資料を作ったり、質問を出したり、陳情書を出したりということをやって、それだったら、議員になったほうがいいなという状況だったんですね。2年ぐらいずっと休んでいたんです。やりたかったけど、できなかった状況があって。それで、工事が始まってしまったというのと、落選したこともあって、いままでのことはなんだったんだろうみたいな、これだけやっても止められないんだという失望感や絶望感がすごく大きくて、織物をやりながら、リハビリみたいな感じの時期を過ごしていました。

織を久しぶりに始めて、そのなかで、あそこにもあるジュゴンのものを作ったり、今日は持ってこられなかったのですが、宮古上布に刺繍をしてもらって、ジュゴンの額装作品を作ったり。あとは、2016年に米軍属の男性に殺されたうるま市の二十歳の女性がいましたよね。彼女を追悼するときに、沖縄の皆さんが黒い蝶々で鎮魂の意を込めて追悼しました。そういった蝶々のモチーフを作品に込めたりとかして、そういう作品を作るようになっていったんです。それで辺野古のことも作品にちょっと言葉を添えたりとかしたんですね。
それまで、SNSとかで私が政治的に、議会でどうのこうのとか、法律がどうのこうのとか書いても、全然反応がなかった人たちから、作品を通してだったら、「いいね!」とかしてくれて、この人がそんなことに賛同してくれるんだ!みたいな、すごい驚きがあって。こんなに伝わるんだみたいな。
いままですごいスルーされていたのが、きれいなものとか、美しいものを通してだったら、こんなに受け入れてもらえるんだなというのにすごくびっくりして。
それで、いままですごく私は、自分が犠牲になるわみたいな、そういう感じでやってきたのが、転換したんですね。

アートというのは、受け取る人の間口をすごく広げる。議会報告とかいっても、来る人は一部ではないですか。でも、作品展とかだったら、もっとたくさんの人が来てくれたり。間口を広げるということと、やはり頭というよりは心に届くようなことがあるんだなと。無意識の層に働きかけるようなところがあるんだなと思いました。それで、いままで作品とか織物というのと活動はすごく分けて考えていて、特に自分の工房の展示などは、私は政治なんてしていませんみたいな、まったく書かなかったんだけれど、だけど、ちょっと融合させていくというか、自分のなかで一つになっていくような。作品を通してもこういうことが伝えられるんだという手応えを感じて、少しずつ変わっていきました。

政治というのは、いまある既存の枠組みを変えるとか改善するというところにあると思うのですが、アートとか、思想というのは、もっと新しい枠組み自体を作っていくとか、そういう試みなのかなと思って、いまはそういうアート的な表現とか、そちらに興味があるというか、可能性を感じるんですね。
なぜかというと、いまの宮古島というのが、結局、県外のチェーン店がいっぱい入ってきたり、ドン・キホーテもできたし、吉野家もできたし、マクドナルドもなかったのができたり、イオンもできたりとか、そうやってどんどん便利になっていくんだけれど、結局お金はどこに流れているんだろうと。それで、みんなバイトで働かされてみたいな感じで。
あとは、基地を作るとか公共工事をどんどんやって必要もないものを作って、建築屋に頼るというような、そういうことがメインになっていて。もっと地域にある自然を生かして、環境を守りながら、でも資源も使ってものづくりをしていくような、そういうふうに変えていきたいなとすごく思って。
それは、政治ができることでもないというか、もっと生き方の提案とかアートとか、政治でできることを自分なりにできるだけやって、変わらない限界が見えて、もっと人の意識そのものを変えないと、いくら基地反対とか訴えても、賛成している人にはもうそれ以上は届かない。
反対している声が聞こえるだけで、怒りが聞こえるだけで、その人たちの心が、では反対してみようかなとか、そういうふうには変わらないので、意識そのものを変えていかないといけないんだと思ったときに、やはり自分は、今はアートとか、そういうことを通して伝えていきたいなと思うようになりました。
なので、すごく遠回りな方法だとは思うのですが、基地は必要ないよねとみんなが思っていくような宮古島に変えていかないといけないかなと、いつか撤去したいなとは思っているんですが。
辺野古でもいま座り込みが続いていますし、宮古でも東のほうに保良というところがありまして、そこで弾薬庫の建設が、いま工事が始まっているのですが、そこでも座り込みをしている人たちもいます。でも反対と言っているばかりでも頭打ちのような感じがしていて。よく運動のなかでは、声を上げ続けることが大事と言われるのですが、私はやはりちゃんと本当に変化が見たいというか、変化をしてほしいので。ではどういう方法が有効なのかと考えたときに、やはりもっと意識を変えていかないと駄目だなというふうに思っています。

主義や立場を超えて、人と人との愛情に立ち戻る

1月17日に祖父が亡くなったんです。福岡なんですが、小さいころからすごくかわいがってもらったおじいちゃんなんですが、すごい自民党支持者で、しかも建築関係の会社をやっていたんです。小さい会社ですが社長をやっていて。自民党の議員を応援したりするようなおじいちゃんだったんですね。
私が議員になったりしたときとか、こういう反対運動をしていることも、祖父はすごく面白くないと思っていたし、こういう問題が出てきて、関係がぎすぎすしていたんですね。なんとなく気持ちも遠のいていったんですが、昨年末から病気になって。
91歳だったのですが本当に亡くなる間際になったときに、そういう考え方の違いで心の距離を感じていたのって、なんだったんだろうみたいな。自分のなかで本当に愛情しか残っていなくて。宮古島の中でもそうなんですが、すごく賛成派と反対派で、自分たちで距離を持ってしまうんですね。あの人は賛成だから話しにくいとか、そういうふうになって。島が分かれていくというのがあって。でも、本当に人が亡くなる間際になると、そんなのってどうでもいいじゃないですか…本当に大事にしてくれてありがとうとか、そういう感情だけしか残ってないなかで、なぜこういう考えの違いで、こんな関係の悪い数年間を過ごしてきてしまったのか。

やはりそれは、普段の生活の中でも、結局自分たちがすごく損をしているのではないかと。そういうことでいろいろな人とのつながりが切れてしまったり。考えはいろいろ皆さん違うと思うのですが、「あなたはそういう考えなんですね」でいいんじゃないかなと思うんですよね。
こっち側の人、あっち側の人と分かれなくても。私は祖父の死を通して、もっと人と人の愛情とかそういうものを大事にしていくようにしないと、人々はどんどん分断されていくのではないかなと思っています。

いま、これからやっていきたいと思うのは、もともとやっていた福祉の仕事に戻っていくことですが、ものづくりをするなかで、私はいま工房をひとりでやっていて、全部自分で作っているわけではなくて、いろいろな人に、がま口を作ってくださいとか、刺繍をしてくださいとか頼んでやっているんです。だけど、もう少し私のところで織るということを、織るのもひとりだと限界があるので、仲間を増やして、いろいろな人とやりたいのですが。そのときに、障がいがある人とか、女性でいろいろな問題を抱えている人とか、いまDVの支援をやっている団体の人ともつながったりしているのですが、そういう社会で生きにくさを抱えている人たちの仕事づくりに、この手仕事がなっていけばいいなと思って。やはり手仕事は、やるだけでもすごく元気を与えてくれるし、そこにもちろんちゃんと収入がついてこないといけないのですが、そのためにもちゃんと商品化して売るという流れを作っていきたいと思って、いろいろな商品開発をしているんです。織っているだけでは、反物がありますといっても、なかなか売れていかないので、やはりいろいろな人が暮らしの中で取り入れられる形にして、売れていけば、いろいろな人の仕事が作っていけるなと思ってやっています。それも、私の場合は、あくまでも目的が福祉というのではなくて、ものづくり、作ることというのが先にあって、結果的にそれが福祉にも役立っているねとか。経済の話でもそうですが、作ることがあって、それがあるから宮古島は潤っているねとか、仕事がちゃんとあるねというようになっていけばいいなと思っていて。
そのへんの信念は、結構始めたころから変わらないのですが、織物をやっている先輩たちのなかには、織で食べていけるなんて、最初から思っては駄目と言われたこともあります。これは副業と考えて、ちゃんと本業をやりながら、趣味でやらなきゃ駄目よとか言われるんですが。

私はやはり手仕事で身を立てるって、なんかすごくいい、なんというか、いま私がやっている手仕事は、自然の力を借りて、苧麻ですね。自然に対応して苧麻の力と、あと人の手の力ですね。手仕事の力をすごく信じているところがあるので。それを失っていったことが、いまの社会の問題を作っているのではないかと思っているんです。
ガンジーもそういう考えで、チャルカを皆さんに推奨していったんだけれど、結局、インドがイギリスに支配されて、いままで自分たちで綿を紡いで、糸を作って、自分たちの服を作っていたのに、イギリスに綿を売って、糸が全部産業革命で、イギリスの工場で作られるようになってしまって、自分たちはお金を払って布を買わなければいけなくなって、お金に支配されていって、仕事もなくなってしまったというところから、ガンジーはチャルカ、糸車ですね、取り戻して、自給していこうという呼び掛けをしていったんです。

そういう仕事が存在することが、社会をまっとうな社会というか、豊かで人間らしいと言いますか、そういう社会を保てる。いくら思想でそういうことを考えても、なんていうのかな、うまく言えないのですが。
たとえば、機械で作られた大量生産された服は、やはりいくら物を大事にしなさいと言われても、まあいいや、捨てちゃおうみたいに、やはりなってしまいますよね。でも、こういう手仕事のもの、買ったら簡単に捨てないですよね。人がどれだけ手をかけて作ったかが分かっていれば、ものは簡単に捨てないですよね。
そんなふうに、ちゃんとその過程に関わることとか、その価値を知ることが、ものを大事にすることにもつながるし、やはり考えだけでは駄目だというのをすごく思っていて。実践があって、そこからいろいろなことが自然と分かってくるとすごく思うので、手仕事の力をすごく信じていて。
いま私が人を雇えるかといったら、なかなかそこまではいかないのですが、たくさんの仲間でものづくりをしていきたいなというのは、宮古に来た当初から思っていて、そういう形ができるように、これからもやっていきたいなと思っています。
ありがとうございました。(終)

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4|日下田藍染工房 訪問
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イベントの前日に(益子に着いてすぐ)日下田藍染工房を訪ねました。正先生には、事前にお伝えしていて、お忙しい中「楽しみにお待ちしていましたよ」と迎えてくださり、石嶺さんとの地域を超えた、染めと織りのお話は尽きることがありませんでした。職人の小島さんにも色々とお話を聞かせてもらえました。
工房を出てからの「メディアに出ている著名な方たち以外にも、そんな方達と同じように素晴らしい方がまだまだいらっしゃるということがわかって、出会うことができて、とても嬉しいし励みにもなります」という石嶺さんの言葉に強く頷きながら宿へお送りした簑田でございました。

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あの日から約1ヶ月。
世界の空気は、とてもとても変わってきてしまっています。
だからこそ、あらためて思い出したいと思います。
国や中央の頭を飛び越えて
地方と地方がダイレクトに繋がり、
草の根で文化理解を進めること。
上か下か、右か左か、ではなく、自立か隷属か。
そして、過去の過ちを繰り返すのではなく、
未来に残したいものをどう守っていくか、を。
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石嶺さんが最後に語ってくださった、
人と人の愛情の「具体」。
その意味と希望を、あれからずっと反芻しています。