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お前の人生、めっちゃいいな!

村門祐太の伝
平太鼓 栃木市西方町

村門 祐太(むらかどゆうた)

切腹ピストルズ平太鼓隊員

がまぐち職人

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長崎県西彼杵郡時津町(にしそのぎぐんとぎつちょう)に生まれ育ち、諫早市や長崎市をホ ームグラウンドに三十歳までを過ごす。結婚を機にパートナーの千彰さんの実家がある名古 屋市へ。二〇二一年秋、愛知県で仕事があった簑田は、名古屋市へ回って、埠頭の公園で祐太さん千彰さんに話を聞いていたけれども、記事をまとめる余裕がないまま、時は流れ、べ べんべん、二〇二一年五月に、祐太さん・千彰さん・ハッチの村門一家は、なんと栃木市西 方町へ移り住んだのでありました。メインビジュアルの写真は、西方町の古い民家に引っ越 して間もない頃の一枚です。にしかた有志の会・名カメラマン針谷伸一さんの撮影。懐かし いような新しいような、独特の空気感が見事おさめられております。




二〇一八年十月栃木県日光市「アースディ日光」にて

そういうわけで、前半には、名古屋で聞いたお話。後半には、今年の一月に西方で聞いたお 話。織り交ぜてお届けします!



祐太さん本人からは、ギュッと短くまとめてくださいとお願いされていたのでございますが、名古屋で聞いた昔話が、何というか、思い出ぽろぽろ、いや、思い出ぼろぼろ、いや、やっぱり、思い出ぽこぽこで、強烈に面白い。

ぽこぽこというのは・・・、まあありがちかもしれないという類の話を聞いていると、突然、本当にいきなり「ぽこっ!」と突出したエピソードが現れて、えー、そっちにいくのー? ありえなーい(爆笑)という話になっていくというわけです。その辺り略さず紹介したいと思います。昨今のめんどくさいことばかり増えてる世の中で、ベタな言葉でいうと、ぽこっと突き抜ける力というものを少しでも取り戻したいじゃないですか、ぽこっと! それでは村門祐太さん、長崎、名古屋、北東の風に乗って現在は、栃木市西方の地に根っこを下ろした祐太さんの伝、はじまりーはじまりー(オチは特にないです)。





バス停、爆竹、精霊流し、チャンポン


ぐーっと遡って、小学生、中学生の頃って、どんな子どもだったんですか?

小学生の頃から落ち着きがなかったっすね。中学校の頃になると、地元にあるバス停の標識 を、動かしたりしてました。バス停の標識の下は、丸いコンクリートで、両手で押して動か せるんです。動かしていって変なところにバス停を置くとか・・・。人が見ていないところ で、そういうことをよくやってたんですよね。小学生の頃は、江頭2:50が大好きで、一 年間くらい、何を言われても受け答えが「やーっ」でした。

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先生にも?

先生にも「やーっ」。転校するときに全校集会で紹介されたら「やーっ」。転入先でも「やーっ」って。まあ、みんなの反応は、なんかハッピーな感じのバカが来たって感じですね。



友達もできやすいタイプですよね

友達は多かったですね、すごい頭の良い子から、なぜか好かれてました。中学 の時に「お前の人生、めっちゃいいな、、、」みたいなこと言われて。バカにされていた のかはわからないですけど・・。



うらやましかったんじゃないかな。

自分が生きたいように生きている感じがして。


長崎って八月十五日に精霊流しってあるんですけど、夕暮れ時に船を流しながら皆んな爆竹やって墓でも爆竹、花火して、そのまま墓で飯食ったり酒飲んだりするんすよね。


船は盆前に自分達で作っちゃうんですけど、タイヤが付いた台車の上に船を乗っける感じです。大きさも大小さまざまあったりして面白いですよ、犬の精霊船もあったり、物凄い長い船もあったりします。


亡くなった方の魂を送る長崎の伝統行事なんで、そこまで騒ぎもせず皆んな黙々と歩きながらひたすら爆竹をならして「どーいどい」って声出して歩くんです。


俺も高校生の頃、初めて精霊流しに参加したんですが、気づいたら全裸で歩いてて(笑)。パトカーがぶわぁーって何台か来て「わぁっ」ってなって、そのまま海に飛び込んで泳いだって思い出の話ですよ。その頃、頭がチャンポンだったんすよ(笑)。


 


笑。そんな祐太さんから見た切腹の先輩たちって、どうですか。訳がわからんでしょう・・的な人が多い印象?


ですです。なんか良く思うのが、世代が違うので頭の思考が違うというか、たぶん幼少期、青春期に流行ったもの見たもの聞いたものが違うんで当たり前なんでしょうけど、やること話すことがめちゃくちゃ面白いんですよね(笑)。

そこでそれやっちゃうんすねみたいな・・・、切腹の隊員で行く遠征が凄い楽しみです。




自分の十年後、十五年後とか「こんな生き方をしてればいいよな」みたいなお手本?

まあ、そうっすけど、俺の世代より上の、四十代、五十代の先輩たちって、多分、どんどん 先に旅立って行くんで(笑)、切腹の先輩たちは、こうだったって、それを俺が語って儲けるっ ていうことをしたいな、と。


笑笑。それ書いていいんですか?

それ書いちゃダメですよ(笑)




裸のヤバイ奴が長崎におる


切腹ピストルズに入隊したのが、三十歳になるちょい前くらいと言ってましたっけ? その前もずっとバンドをやっていたんですよね?

そうです、そうです。長崎で、高三からドラムやり始めて卒業ライブに出て。俺、そのころほん とにバンドとかまったく興味がなかったなかったというか。でもまあ、失恋して、で、友達 が「落ち込んどらんで、何か一緒にやろうぜ」って誘ってくれて。で、バンドやろうぜって なって、ドラムがおらんけん、じゃあ俺やるわ、って。


そのバンドは、次の恋のきっかけに?

いや、まったくないですね。とりあえず青春の一コマ。学園祭で演って終了した感じで、それっきり。


高校卒業してから小学校の同級生でバンドをやり始めて。「BASEBALL tEAM」というバンドで、その時もドラムです。俺、自分に枷(かせ)と言うか重しをつけると言うか、その時期ちょうどそんな感じのこと考えてて、ライブの時にアイマスク付けはじめたんですよ。初めてアイマスクした時なんすけど、瞬間に目の前真っ暗になって(笑)。うわぁ、これぇ、やべぇなって、どうやってドラムまで行こうかってよちよち歩きで彷徨って、やっと座ったらピアノだったんすよ、んで誰かが呆れてドラムのとこまで手を引いてくれたのを覚えてます。


話が前後しちゃうんですが、二十歳の頃って皆んなそうだと思ってるんですが、衝動というか、全部ぶっ壊したいぞ、みたいな(笑)。でも、あんまやることがなくて・・・。 で、露頭に迷ってる時に、諫早(いさはや)ってところに、県外のパンクバンドとかを 呼んでライブやってるところがあって、見にいったんですよね。しかもそこ、ライブハウスじゃなくて、カラオケボックスなんですよ。ハーモニーって名前の。


ハーモニーに初めて行った時、GNAWNOSE(ノーノーズ)という長崎のバンドを見て、初めてっすよ。頭の中に直接針を刺される感じの衝撃を受けたのは。これは直接足を運んで見ないと伝わらないんですけど、ベース、ドラム、ギターで、みんな白装束で破壊的。ギターは雷に打たれたように引きまくるわ、ベースは自分でベースぶっ壊してベースを貸してくれる人を探していて、ドラムは、ずーっとおかしいし、変なリズム叩きまくるわ。とてもふざけた人達なんですけど、長崎のすごかバンドですよ。


ドラムの人を田代ののぶ兄ちゃんって呼んでるんですけど、ライブで見る前に見たことあ って。サッカーボールを蹴りながら歩いている人がいるなあと思って、近づいたら、ボールじゃなくて、ドラムのスネアだったんすよ。物を大切にしなささが凄く衝撃で、なんだこの人やべーと思っていたら、見に行ったライブに、 その人が出てきて、また衝撃!っすよ(笑)


いろんな人やバンドとの出会いがあった時期で、ちょうどその頃に太一さん(天誅山太一さん・平太鼓)と初めて会ったのも、諫早のハーモニー。「犬まがい」っていうバンドのドラムで「なんだかわかんないけど、すげぇ恐ろしい人がいる」って感じでした。ライブが始まったら耳元で物凄いでかい音の蝉の泣き声が聞こえてきて、目を開けたら強烈にタイトなドラムを叩くラメラメのドクターマーチンを履いてた太一さんがいました。自分が二十歳くらいの頃で、今思うと、太一さんが、自分が初めて会った東京の先輩っすね。そこから今のお付き合いがある感じです。


自分の地元に音楽館っていう、おばちゃんがやっていたスタジオというか練習場があったんすよね。公民館みたいな場所で、俺らは、ハーモニーに刺激を受けて、ここでもライブもやれるんじゃない?ってVo.マーボウがいろいろやり始めて、BASEBALL tEAMの拠点っぽくなって、県外から呼びたいバンドを呼んだりしてたんですけど、あっというまに解散しました(笑)。


長崎、よかねえ。私は熊本出身ばってん。長崎、一目おいとっとよ(笑)。それで、祐太さんはバンドは続けたとね?


二〇〇六年かな、長崎の山下さんに誘われて入りました。それが VELOCITYUT(ベロシチュート・註一)。長崎でずっとやってるバンドで、「エレクトローカル」ってイベントを諫早ハーモニーで主催したり、当時は海外や県外からいろんなバンドが来てました。編成はベース、ギター、シンセサイザー、座りドラム、スタンディングドラムの5人、スタンディングドラムが、貞さん(貞方威さん・平太鼓)の時もありましたよ。自分は、二〇一五年に切腹入ったけど、まだ VELOCITYUT にも籍はあります。どんなジャンルかって? 毎回なんて言えばいいか困るんですけど、ライブした時のフライヤーに「瞬間コラージュエレクトロキラーパンク」と呼ばれたりってありました。その山下さん、今はベロシチュートもやってるんですが、長崎で「菫舎」という福祉の介護施設もやってまして、そこでいろんな展示、ゲスト呼んで企画したりと動き続けてます。


VELOCITYUT時代には、名古屋を拠点にバンド活動していた千彰さんとの出会いがあったそうでして、千彰さんにも会話に参加していただきましたー!



千彰 ・対バンで会う前から、祐太のことは、名古屋にも噂が届いていて、知っていたんです。 祐太が十九歳くらいの頃、同年代でめっちゃヤバいバンドが長崎にあるっていう話を最初に聞いて、情報とるのがすっごい早い子は、カセット持ってるんですよ。ライブで録音され た。で、「これ知ってる? ドラムが裸でローラースケート履いて暴れとるバンドだよ」っ て聞いて。それだけでまずヤバいと思ったんですよ。ちょっとやられた感あるんです。同世 代でこんな奴らって、ちょっと目立つのが気になっていたんで。うわっと思って、話だけで も衝撃を受けてたけど、カセット聞いたら、めっちゃかっこよかったんですよ。うそーと思 って、おんなじ年か!と思って。しかも裸だろって思って(笑)。会ったのは、その二年後 くらいかな。


祐太・その時は、VELOCITYUTだった。


千彰 ・対バンしたんです。そのときに、裸のヤバい奴というのが祐太だって分かったよね。


祐太 ・俺だったって話。


そのときも裸だったんですか?


祐太 ・いや、VELOCITYUTでは、裸になるな、暴れるな、 目隠しするなって。言われてました(笑)。ドラムを普通に教えられる感じはまったくなくて、「ドラムをドラムだと思うな」ってずっと言われてましたね。技術も大切なんでしょうけど、バンド内のイメージの共有だったり、見せ方だったり、なんか言葉では言えないふんわりしたものが大切なんだなって感じてました。


千彰 ・そうね。脱がなくなってたね、だいぶね。VELOCITYUTはとにかく演奏もカッコ良 くて、ライブは四分で終わるんですよ。わーっと盛り上がって、あ、もう終わ り?みたいな、それもかなり独特で。


千彰さんのバンドはガールズバンド?


千彰 ・いやー、SIKASIKA っていう名前のバンドで、男の子がボーカル。あと三人の女の 子が楽器隊。ちょっと珍しい感じでしょ。昔の切腹とも対バンしてるんですよ、二、三回。


千彰さんもギタリストなんですよね。祐太さんも、初期の切腹ピストルズとライブで出会ったんでしたっけ?

そうっす、ライブで一緒になって。その後も、二、三回は長崎に来てくれました。長崎は歴 史の町だから、幕末歴史好きな切腹のメンバーも長崎行きたいって言ってくれて、ベロシチュートと長崎で一緒にやりました。二十二、三くらいかな、ヒロさん(飯田団紅さん・総隊長)、すーさん (壽ん三さん・三味線)、ひでろうさん(久坂英樹さん・平太鼓)に会ったのは・・・。最 初、怖かったすね。ゾクっとした感じとか、おっかなそうとか、、、笑。


そのときはもう、すーさんは三味線だった?


いや、すーさん、ギターでした。たまに出会った頃の話になるんすけど、すーさんにから「祐太は、最初に会ったとき、学校の部活の話をしよったよ」って。「ええっっ? そんな感じでした? 俺」って言って。


部活としては、野球部、ラグビー部って入って。そこから長崎伝統のペーロンってあるんで すよ。知ってます?  ペーロンを十年ぐらいずっとやってて。たぶんその話を延々やってい たと思うんです。部活というよりは、地域の活動ですよね。たしか切腹が初めて長崎に来た とき、ペーロンの自分の櫂があって、一番大事な櫂を太一さんに「これ、持って帰ってくだ さい」って(笑)。太一さんがやっぱり後から「祐太か ら。でかいこん棒のようなやつをいきなり渡されてた」って言っていて。これ持って、 飛行機に乗れんやろって(笑)。



突然あげたくなっちゃった?

そうそう。なんかそういう気持ち。自分の気持ちというので渡しました(笑)。


 


バッグに玉ねぎ詰めて

青春十八切符で東京へ!


仕事のことも聞いていいですか? 高校のころ、将来こうしたいとか。「長崎なんか出てっちゃるばい!」とか? どんなふうに考えてました?

あんまり希望とかなかったんすよね。高校卒業して、看護婦をしている母親の勧めで整体の 専門学校に行ったんです。将来を心配されて、勧められた感じですね。バンドやり初めてからは仕事のこととか考えなくなっちゃたし、ライブ映像とかも母親に見せてたんですけど、アイマスクして、裸で、うわーって言 ってドラム叩いてるから、親としては嫌でしょうね。


うんうん。上半身裸のドラマーってけっこう多いよね?

いやいや、だからすっぽんぽんでした、俺。


えええええ(笑)、下も? 風邪ひくでしょ、それ。

でしょ。そんな映像を「裸たーいっ」って親にも見せてましたから、心配かけるんですよ、たぶん。小さい頃からすぐに脱ぎたくなる子だったんす。さっき話したペーロン中とか、閉会式とか、すぐにすっぽんぽんで。あ。仕事の話でしたね。すぐ脱線して。


あ、そうそう(笑)、それで、整体院に就職?

ガソリンスタンドっすね。その前に、釣りの話があるんすよ。専門学校が終わってすぐ仕事 どうしようかなという時期に、整体の仕事はないな、って、釣りばっかりやってたんです。


ウナギを採る仕掛けを家の近所の川に入れて。そのころは、入っていればいいなみたいな感 じのノリで、自分でペットボトルで作ったりして。それで、そこの川の目の前に、ちっちゃ なぼろぼろのスタンドがあって、そこから、身長百九十センチぐらいはある兄ちゃんが急にこっちに来て、「おまえ、いつもここでなんかしよるけど、なにしとっとや」って。それが 店長さんだったんです。


「ウナギの仕掛けしてるんです」

「とれるもんや、こんなところで。 おまえ、働いとらんとや?」

「はい」

「うちで働けや」

「いいですか?」っていう流れで。

なんかたまたまなんですけど導いてくれるというか、よか出会いでしたね。その人もバンド好きで、自分が働くようになって「バンドで遠征するから休みをください」 ってなるときも、いいよいいよって、すごくよくしてくれたんですよね。


スタンドで何年か働いていて、辞めたあとの話なんすけど。ある時、諫早市ってとこにある渓谷でやってたカフェで手伝いすることになって、カレーの作り方を教わったんですよ。インドカレーぽい感じの。それ習った瞬間に「これ、いけるわ!」って思って、すぐにバッグに玉ねぎだけを詰めて、東京に行ったんです。


え。え。え。え〜。ちょっと待って、話に追いつけんとです(笑)

東京のライブハウスに電話して、カレーの出店できますか?って聞いて。


なんでいきなり東京?

東京で出店して、それから、あちこちで出店しながら、旅みたいな感じでぷらっと回りなが ら長崎へ帰ってくる、と言う感じで考えて。まあ、食いっぱぐれないように、遊びながら過 ごそうという計画で。二十三、四の頃じゃないですかね。青春十八切符、めっちゃ使って鈍 行で行きました。その時、貞さんが東京にいたんで、東京の拠点にさせてもらって、お世話 になって・・・。


カレーの評判? 毎回、ライブハウス側には「誰ですか?」って言われていましたけど(笑)。 「でもまあ、面白いから、いいよ」って。カレーは、みんなおいしいって言ってくれて評判 よかったです。カフェで一日修行しただけで、出店するとか、なめるなよって感じだったで す、たぶん(笑)。そういうことばっかりやってきてしまったんですよね(笑)。で、 大阪とか、名古屋とか寄りながら、一か月ちょいくらいで長崎に戻ってきて・・・。


屋号とかはあったんですか。

そのころはまだないです。帰ってきて、長崎で店を構えてカレー屋しようかなって思い始め ていた頃、お世話になっていたお坊さんがいまして、マウンテンラヴでいいっちゃないみたいな話になっ て決めましたね。


今もそうなんですが、長崎って人口減少が止まらなくて、仕事が原因なんでしょうけど、若者が離れちゃうんすよね、、その頃に現状の地域状況をなんとかせんといかん・・・みたいな、新規の事業者に優しい補助金という制度を見つけたんですよね。それ活用させてもらって、諫早市で店をつくった。普通の食堂っぽい感じ なんですけど、店の名前は、カレー食堂マウンテンラヴ。それで一年目に千彰も名古屋から来て、一緒に店をやってました。


がまぐちを作り始めたのも、長崎時代なんですよね?

です! 千彰が、家族旅行でハワイに行って古着屋に行ったときに、古い布屋があって、可愛い生地 がたくさん売っていたのを買い込んでカレー屋に持ち帰ったんです。カレー屋のパートの 主婦の人が、自分でいろいろとつくれる人で、その人が「がまぐち財布をつくったらいいっ ちゃない?」って言ってくれて。それがはじまりっすね。


最初はカレー屋の端にちょこんとがま口を置いてたんですけど、まったく売れなくて、まぁ、カレー屋なんで売れないかって思いながらも千彰はがっくりしてましたね(笑)。たまたま福岡で千彰がやってたsikasikaのライブがあって、せっかくなら物販でがま口並べてみたらってことで持っていったんです。そこで初めて売れたんですよね。


そこから出店やりつつ、ネットショップのスタイ ルを地道にゆっくりつくっていこうってなったんですよ。




がまぐちをつくるのは全部手作業ですよね。最初は誰かに教わって?

そうそう。そのパートさんに教わって。口金(くちがね)に布を差し込むんすけど、そこが 最初は難しかったっすね。あと、がま口って「パチン」って音がなるじゃないっすか、今は当たり前に音の調整、口金の歪み調整、ってやってるんですけど、、最初の頃はわからずに試行錯誤して、まじでわかんなかったら業者に聞いて、町工場の人に工具貰ったりと地道にやってましたね。あとは、なんでもそうですけど、千彰の感覚を優先してやってます。どっ ちかと言うと、俺はやっぱ職人気質なので、千彰の感覚を形にしていくというか。


いいコンビネーションですよね。それにしてもすごいなあ。めっちゃ楽しそうな二十代。


ずぅーっと楽しいっすけどね(笑)。二十代は「あっ!」って感じで終わりますよね。今もあっという間に過ぎちゃうんすけど、二十歳の頃に八百屋をやってるバンドの先輩の家に遊び行った時、酒飲みながら「いろんなことして、いろんな失敗をしろ」って凄いシンプルなことを言われたんすけど、頭に残ってて、難しく考えることやめるみたいな感覚もしたんで。


うんうん。それからマウンテンラヴを閉めて名古屋に?

切腹に入ったのも名古屋に移ってからでしたっけ?


そうですね。やめて一年後に名古屋に来たんです。千彰の実家の会社に入って、昼間は会社 員で働きながら、家に帰ってきてがまぐちをつくる生活なんですけど、がまぐちがネットシ ョップで売れて、ちょこちょこ忙しくなっちゃって。で、会社から帰ってきて つくり始めて、夜中の二時三時までつくって、そのまま寝て朝六時に出勤してたんで、キツ かったっすね。


切腹は名古屋に引っ越して一週間後に、太一さんから連絡があっ たんです。切腹やるか?って感じで。



自分が長崎にいる間の最後のライブで、 VELOCITYUT と切腹で、ライブやったんですよ。そのときはもう和太鼓で人数も増えていて。その日、打ち上げの時に「自分も切腹やりたいっすねー」って伝えてあったんですよ。



で、入っていいとなったんで、最初の二か月くらい、東京での練習に毎週行ってましたけ ど・・・。ドラムと感覚が全く別ものなんで毎回腕がパンパンになって、入隊当初は公演もあんまし参加できてなくて。会社で働いて、がまぐち つくって、それで切腹の遠征とかに参加するのは、時間的にも位置的にも、なかなか厳しかったんですよね。




二〇二〇年十月 名古屋港

名古屋みたいな都会だと、なんだかんだ、たくさん働かないと駄目なんですよね。そ の働かんといけん時間を減らして、やりたいことをやる時間をつくるには、どうするか、田 舎に移住するかっていうところで・・・、最近は、千彰と相談しながらずっと考えてます。




村門一家、西方へ。


と、ここらあたりまでの話を名古屋で伺ってから、約半年後。二〇二一年の五月三十一日、祐太さん、千彰さん、ハッチの村門一家は、栃木市西方町の住民になった。

古い民家を助太刀仲間の手を借りながら手入れして、敷地の中に畝立てをして茶豆や夏野菜を育て、地域の草刈りや例大祭の準備にも参加し・・・。西方商工会青年部主催の寺子屋や夏祭りでお会いした時の印象や、SNSで発信される近況からは、もうすっかり西方の人!というより、あれ、もうずっとここに住んでいましたよね?というなじみ具合。そういうわけで、年が明けて一月吉日。お二人の拠点、金崎宿を訪ねました。




名古屋で、田舎に移るかな〜という話を聞いてから、半年後の移住ですよね。決めるまでは、わりとスムーズに進んだ?


千彰とは、時間をかけて、お互い納得のいくようになるまで話してきて、徐々 に・・・、それで決めたという感じっすね。


名古屋では、マンションに住んでたんすけど、周りは、どっちを見てもマンション で、窓を開ければ、すぐ隣のマンションで。だんだん閉所恐怖症にもなっていき、日本の 文化を生かしたもの作りをしたいと活動しながら、でも、住んでいるのはマンション?という 違和感もハンパなかったっすね。自分が本来やりたいことが、名古屋のマンション暮らし の中でのルーティンには入っていなかったというか・・・。畑とか、切腹的な活動とか。 古い一軒家に住んでみたかったんすよね。


それで、何年か前から、千彰にも話して、最初に「西方に移住するって、どうかな?」と 話したときは一蹴された感じやったけど、徐々に徐々に、ですね。夜、ハッチの散歩の時 に「これからどうするか」という話をよくしてました。最初は、二拠点という考えもあっ たけど、家賃がダブルでかかるし、それは、裕福な人たちがやることで、うちらには無理 無理って、すぐ消えた。


まあ、正直、千彰を名古屋から動かすのは大変だと思ってたし、そもそも動かしていいも のか、という悩みもあったんすよね。


千彰 ・レペゼン名古屋って、言われていたしね(笑)。コロナもあって、いろんなところ になかなか行けない時期が続いて、そんな中で、なんか吹っ切れた感があったね。もうい いかって。


祐太・千彰も一緒に、西方の人との交流も増えてきたっていうこともあったかな。二〇一 九年か、商工会青年部の全国大会が名古屋であって、針谷さん、大ちゃん(大工大)、森 下さん(松波・ベース)が会いに来てくれたり、年末のど田舎にしかた祭りの時も、後片 付け手伝おうと、もう一日、西方に残ったりして・・・。


自然と西方への風が吹いてきた感じなんですね。引っ越して半年、どうですかー?


祐太・ 最高っすよ。半年しか経っていないけど、お互い、やりたいことがやれるようにな って、知り合いも増えたし。


千彰 ・M U R A K A D O の仕事の他に、名古屋では週二で、英語をメインに中高生向けの 塾の先生をしていて、若い子たちとの情報のやり取りも楽しかったんだよね。こっちでも 続けたいけど、どこかの組織に務めて塾講師で働くという選択肢は、もうないかなって思 っていたら、最近、話があって、近所の中学二年生に、ここで教えるようになって、いい 感じですー。あとは、畑も楽しいよね。


祐太 ・楽しいっすね。教えてもらいながらやっていて、夏は、茄子の支柱を細竹で組ん で、それを眺めながら、この形、よかねーって、刺繍のヒントになったり。畑の石ころ見 てもヒントになる。


千彰 ・桜の並木を散歩したり、川や森の姿を見たり、そんな時間がほんとに気持ちいい、 新商品のイメージ湧くよね。


祐太 ・家賃と生活費が名古屋より格段に安いから、ずっと悩みだったことが解消されて、 働かなくちゃいけない時間が減った分、それで、やりたいことがやれるっていうのが、も う最高っす。


やりたいことも、いろいろ広がっていきそうですね。



祐太 ・俺も千彰も、おじいちゃん、おばあちゃんになるまでは充電期間というか、勉強期間というか、歴史とか伝統文化の勉強しようって話してるんです。まずは、千彰は薩摩琵琶、三味線があって、俺は野良着が あって、落語も小噺もおもしろい話ができるようになりたいなというのは、ずっと思っていて、宴会芸も大好きなんで、そこらへんをうまく表現できるようになりたいなと思ってます。日本の歴史とか文化とか、しっかりやっていれば、将来、食いっぱぐれないんじゃないか、 自分たちに投資しようぜ!みたいな感じっすかね。


湯河原の寄席(二〇二〇年三月・註三)、祐太さんの話、面白かったです。六月の西方での寺子屋(写真)も! 話の展開の予測が全くつかない、唯一無二の面白さというか。


祐太・ 自分は、隊長みたいに話すのは難しいし、でもどこか盗めるとこないか探したり、会話の切り返しとか、そんなこと考えてたら自分の持ち味ってなんやろなとか、んで、こんな感じかなってのが、言葉で言ったら素っ 頓狂というか。「は?」みたいな感じなの、すごい得意だから。そういうことを話で表現で きたらいいなって、ずっとここ最近思ってます。難しいっすけどね。




二〇二一年六月 西方商工会青年部主催「寺子屋」にて、公演のような講演

江戸とか、日本文化とか、もっと学びたいというのは、自然な流れですか?


祐太 ・やっぱり大きな転機はニューヨークかな。二〇一八年に、切腹ピストルズの公演で ニューヨークに行った時、みんなは三泊四日だったけど、俺らは、一週間前から入ってた。がまぐちの生地を向こうでも仕入れたくて。ニューヨークの布屋に向かう時、電車の中かな。白人のおばさんが「あなたたち、狂っていて、いいわね!」と話しかけてきたんですよ。crazy って、最高の褒め言葉だったみたいで。俺は野良着で、千彰は羽織に笠。


千彰・ 私たちがドレッドヘアとかだったら何も起こらなかったと思うし、そう言われて、いろいろと腑に落ちたというか。


祐太 ・それをきっかけにして、日本の文化という自分たちの土俵という意識で物事を考えるようになったよね。なんとなくやってたことを全部日本の土俵にひっくり返してみて頭で意識するようになったし。切腹に入隊したことが一番やられた感というか、切腹ピストルズってすげぇなと毎日感じてますね。


千彰 ・私たちの服装に、そんな風に反応してくれる人と出会えたことで、自分たちが大事にしたい日本の文化の形を誇りに思えた し・・・。帰りの空港で待ち時間に二人で話し合ったんだよね。この体験を忘れないよう に、大切にして、これからいろんなことを調べたり学んだりしていこうって。


祐太 ・そうっす。そのあたりのことから、やっぱり西方への移住にもつながってきたかな。たまに隊長が、隊員にこれ読んでみれば?とおすすめ本があるんすよ。ほとんどが江戸時代のことで、ほぇーってことばかりでまだまだ自分らが知らないことがいっぱいあるやろな、と思います。


なるほどねー。いい流れですねえ。ちなみに、いま持っている服はどんな感じですか? 野良着以外も着る機会ある?



祐太 ・今まで着ていた服は、徐々に捨てたり、人にあげたり。そういえば、二〇一四年の 切腹入隊からずっと、服を一枚も買っていない!  夏は鯉口着て過ごしてますよ。自分でも作ってるんで。冬は寒ければ母親が、送ってくれたヒートテックを下に着ちゃいます。こっそり(笑)。あ、じいちゃんから生前にもらったジャージ は「これは持っとかんばいけんなー」と、今でも捨てないで持ってる。スニーカーは一足 もないっすね、今は。鯉口、野良着、半纏、綿入れ、雪駄、下駄、を普段着として過ごしてます。




じいちゃん、天国で喜んでるー。そういえば、大晦日に公開された、新曲P V「古今東西皆様方よ」(註四)すっごい良かった。千彰さん、琵琶やってましたね!



千彰・そうそう。去年の九月に、通販で薩摩琵琶を買ったんですよ。一度、割れてしまって修理されているものなので、お買い得の値段だから手が出たもので。

三味線は、大先輩の寿ん三がいるし、一九六〇年の日本映画で『切腹』ってあるんですけど、そのオープニングが、琵琶。いいよねーって隊長たちとも話していて、琵琶をやってみた いとなって・・・。

買ったはいいけど、教本もとても高くて、調弦もどうやったらいいか わかんない。検索しながら教えてくれる人を探していたら、錦心流の先生が宇都宮にいる ことがわかって、今は、月二で通ってます。名古屋にいた時も最後の二年くらいは、コロナもあったし、メンバーそれぞれが急がしかったりで、バンドをやれていなかった。 聴くのも好きだけど、やっぱり自分もやりたいタイプだから・・・。だから、今 の状況が、とてもいい感じですね。


祐太 ・西方に来て半年過ぎて、千彰もいろいろとやりたいことが出来ている状況で、元気 づいてきたっすね、よっしゃー!という感じで。「引っ越してきてよかったー」という言 葉を聞いて、俺も嬉しいっす!(終)



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註一

VELOCITYUT

1993年に長崎で結成。ベース、ギター、ドラム、ドラム、シンセサイザーの5人編成。YouTubeにアップされている、金髪・祐太さんのドラムプレイが冴える1本をどうぞ。(2011年 北九州市小倉北区 UN KOKURA)

https://www.youtube.com/watch?v=0W-afx8h3ZQ



註二

がまぐち

二〇一四年に、デザイナー・千彰さん、職人・祐太さんで立ち上げたブランド、最初の屋号は、DIAMOND WHIPPESS(ダイヤモンドホィップス)。千彰さんが見立てて仕入れる、総柄を基本とした生地で、がまぐち、がまぐち形のポーチ、バッグ、ピアスなどなどを祐太さんが仕立てる。ネットショップを基本としながら、時折、国内だけでなく韓国など海外でもポップアップショップを開く。2019年に、ブランド名を「MURAKADO」に。ぜひ、覗いてみて↓↓

https://www.murakado.com




註三

「のろし寄席」

村門祐太 語り唄「日本航空一二三便墜落事故」をどうぞ!

二〇二〇年三月十五日 湯河原「よるのあじと」 豊田利晃監督・映画「狼煙が呼ぶ」上映×のろし寄席より

https://www.youtube.com/watch?v=i7qQgv-OY-4




註四

『古今東西皆様方よ』

二〇二一年大晦日に、突如として公開された謎多きP V。切腹ピストルズ公式YouTubeに上がっているけれど、演者は「江戸から来た男たち」とのこと。手前左が千彰さん(薩摩琵琶)、右は、どう見ても祐太さんでしょ、これ。・・・なのだけれれど、謎多し。映像の編集も演出も歌詞も、兎にも角にも魅力的。「古今東西皆様方よ、その後時代は完成しやしたか? 古今東西皆様方よ、破壊、混沌、秩序のセンス」 一度見たら聴いたら癖になります!!

URLは、こちら→古今東西皆様方よ





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聞き書き・文中写真撮影|簑田理香
バナー写真|針谷伸一
取材
二〇二〇年十月七日・名古屋港にて
二〇二二年一月十二日・栃木市西方町金崎宿にて
公開・二〇二二年二月二十三日

村門 祐太(むらかどゆうた)
切腹ピストルズ平太鼓隊員
がまぐち職人
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長崎県西彼杵郡時津町(にしそのぎぐんとぎつちょう)に生まれ育ち、諫早市や長崎市をホ ームグラウンドに三十歳までを過ごす。結婚を機にパートナーの千彰さんの実家がある名古 屋市へ。二〇二一年秋、愛知県で仕事があった簑田は、名古屋市へ回って、埠頭の公園で祐太さん千彰さんに話を聞いていたけれども、記事をまとめる余裕がないまま、時は流れ、べ べんべん、二〇二一年五月に、祐太さん・千彰さん・ハッチの村門一家は、なんと栃木市西 方町へ移り住んだのでありました。メインビジュアルの写真は、西方町の古い民家に引っ越 して間もない頃の一枚です。にしかた有志の会・名カメラマン針谷伸一さんの撮影。懐かし いような新しいような、独特の空気感が見事おさめられております。


二〇一八年十月栃木県日光市「アースディ日光」にて

そういうわけで、前半には、名古屋で聞いたお話。後半には、今年の一月に西方で聞いたお 話。織り交ぜてお届けします!

祐太さん本人からは、ギュッと短くまとめてくださいとお願いされていたのでございますが、名古屋で聞いた昔話が、何というか、思い出ぽろぽろ、いや、思い出ぼろぼろ、いや、やっぱり、思い出ぽこぽこで、強烈に面白い。
ぽこぽこというのは・・・、まあありがちかもしれないという類の話を聞いていると、突然、本当にいきなり「ぽこっ!」と突出したエピソードが現れて、えー、そっちにいくのー? ありえなーい(爆笑)という話になっていくというわけです。その辺り略さず紹介したいと思います。昨今のめんどくさいことばかり増えてる世の中で、ベタな言葉でいうと、ぽこっと突き抜ける力というものを少しでも取り戻したいじゃないですか、ぽこっと! それでは村門祐太さん、長崎、名古屋、北東の風に乗って現在は、栃木市西方の地に根っこを下ろした祐太さんの伝、はじまりーはじまりー(オチは特にないです)。

バス停、爆竹、精霊流し、チャンポン

ぐーっと遡って、小学生、中学生の頃って、どんな子どもだったんですか?
小学生の頃から落ち着きがなかったっすね。中学校の頃になると、地元にあるバス停の標識 を、動かしたりしてました。バス停の標識の下は、丸いコンクリートで、両手で押して動か せるんです。動かしていって変なところにバス停を置くとか・・・。人が見ていないところ で、そういうことをよくやってたんですよね。小学生の頃は、江頭2:50が大好きで、一 年間くらい、何を言われても受け答えが「やーっ」でした。
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先生にも?
先生にも「やーっ」。転校するときに全校集会で紹介されたら「やーっ」。転入先でも「やーっ」って。まあ、みんなの反応は、なんかハッピーな感じのバカが来たって感じですね。

友達もできやすいタイプですよね
友達は多かったですね、すごい頭の良い子から、なぜか好かれてました。中学 の時に「お前の人生、めっちゃいいな、、、」みたいなこと言われて。バカにされていた のかはわからないですけど・・。

うらやましかったんじゃないかな。
自分が生きたいように生きている感じがして。

長崎って八月十五日に精霊流しってあるんですけど、夕暮れ時に船を流しながら皆んな爆竹やって墓でも爆竹、花火して、そのまま墓で飯食ったり酒飲んだりするんすよね。

船は盆前に自分達で作っちゃうんですけど、タイヤが付いた台車の上に船を乗っける感じです。大きさも大小さまざまあったりして面白いですよ、犬の精霊船もあったり、物凄い長い船もあったりします。

亡くなった方の魂を送る長崎の伝統行事なんで、そこまで騒ぎもせず皆んな黙々と歩きながらひたすら爆竹をならして「どーいどい」って声出して歩くんです。

俺も高校生の頃、初めて精霊流しに参加したんですが、気づいたら全裸で歩いてて(笑)。パトカーがぶわぁーって何台か来て「わぁっ」ってなって、そのまま海に飛び込んで泳いだって思い出の話ですよ。その頃、頭がチャンポンだったんすよ(笑)。

 

笑。そんな祐太さんから見た切腹の先輩たちって、どうですか。訳がわからんでしょう・・的な人が多い印象?

ですです。なんか良く思うのが、世代が違うので頭の思考が違うというか、たぶん幼少期、青春期に流行ったもの見たもの聞いたものが違うんで当たり前なんでしょうけど、やること話すことがめちゃくちゃ面白いんですよね(笑)。
そこでそれやっちゃうんすねみたいな・・・、切腹の隊員で行く遠征が凄い楽しみです。

自分の十年後、十五年後とか「こんな生き方をしてればいいよな」みたいなお手本?
まあ、そうっすけど、俺の世代より上の、四十代、五十代の先輩たちって、多分、どんどん 先に旅立って行くんで(笑)、切腹の先輩たちは、こうだったって、それを俺が語って儲けるっ ていうことをしたいな、と。

笑笑。それ書いていいんですか?
それ書いちゃダメですよ(笑)

裸のヤバイ奴が長崎におる

切腹ピストルズに入隊したのが、三十歳になるちょい前くらいと言ってましたっけ? その前もずっとバンドをやっていたんですよね?
そうです、そうです。長崎で、高三からドラムやり始めて卒業ライブに出て。俺、そのころほん とにバンドとかまったく興味がなかったなかったというか。でもまあ、失恋して、で、友達 が「落ち込んどらんで、何か一緒にやろうぜ」って誘ってくれて。で、バンドやろうぜって なって、ドラムがおらんけん、じゃあ俺やるわ、って。

そのバンドは、次の恋のきっかけに?
いや、まったくないですね。とりあえず青春の一コマ。学園祭で演って終了した感じで、それっきり。

高校卒業してから小学校の同級生でバンドをやり始めて。「BASEBALL tEAM」というバンドで、その時もドラムです。俺、自分に枷(かせ)と言うか重しをつけると言うか、その時期ちょうどそんな感じのこと考えてて、ライブの時にアイマスク付けはじめたんですよ。初めてアイマスクした時なんすけど、瞬間に目の前真っ暗になって(笑)。うわぁ、これぇ、やべぇなって、どうやってドラムまで行こうかってよちよち歩きで彷徨って、やっと座ったらピアノだったんすよ、んで誰かが呆れてドラムのとこまで手を引いてくれたのを覚えてます。

話が前後しちゃうんですが、二十歳の頃って皆んなそうだと思ってるんですが、衝動というか、全部ぶっ壊したいぞ、みたいな(笑)。でも、あんまやることがなくて・・・。 で、露頭に迷ってる時に、諫早(いさはや)ってところに、県外のパンクバンドとかを 呼んでライブやってるところがあって、見にいったんですよね。しかもそこ、ライブハウスじゃなくて、カラオケボックスなんですよ。ハーモニーって名前の。

ハーモニーに初めて行った時、GNAWNOSE(ノーノーズ)という長崎のバンドを見て、初めてっすよ。頭の中に直接針を刺される感じの衝撃を受けたのは。これは直接足を運んで見ないと伝わらないんですけど、ベース、ドラム、ギターで、みんな白装束で破壊的。ギターは雷に打たれたように引きまくるわ、ベースは自分でベースぶっ壊してベースを貸してくれる人を探していて、ドラムは、ずーっとおかしいし、変なリズム叩きまくるわ。とてもふざけた人達なんですけど、長崎のすごかバンドですよ。

ドラムの人を田代ののぶ兄ちゃんって呼んでるんですけど、ライブで見る前に見たことあ って。サッカーボールを蹴りながら歩いている人がいるなあと思って、近づいたら、ボールじゃなくて、ドラムのスネアだったんすよ。物を大切にしなささが凄く衝撃で、なんだこの人やべーと思っていたら、見に行ったライブに、 その人が出てきて、また衝撃!っすよ(笑)

いろんな人やバンドとの出会いがあった時期で、ちょうどその頃に太一さん(天誅山太一さん・平太鼓)と初めて会ったのも、諫早のハーモニー。「犬まがい」っていうバンドのドラムで「なんだかわかんないけど、すげぇ恐ろしい人がいる」って感じでした。ライブが始まったら耳元で物凄いでかい音の蝉の泣き声が聞こえてきて、目を開けたら強烈にタイトなドラムを叩くラメラメのドクターマーチンを履いてた太一さんがいました。自分が二十歳くらいの頃で、今思うと、太一さんが、自分が初めて会った東京の先輩っすね。そこから今のお付き合いがある感じです。

自分の地元に音楽館っていう、おばちゃんがやっていたスタジオというか練習場があったんすよね。公民館みたいな場所で、俺らは、ハーモニーに刺激を受けて、ここでもライブもやれるんじゃない?ってVo.マーボウがいろいろやり始めて、BASEBALL tEAMの拠点っぽくなって、県外から呼びたいバンドを呼んだりしてたんですけど、あっというまに解散しました(笑)。

長崎、よかねえ。私は熊本出身ばってん。長崎、一目おいとっとよ(笑)。それで、祐太さんはバンドは続けたとね?

二〇〇六年かな、長崎の山下さんに誘われて入りました。それが VELOCITYUT(ベロシチュート・註一)。長崎でずっとやってるバンドで、「エレクトローカル」ってイベントを諫早ハーモニーで主催したり、当時は海外や県外からいろんなバンドが来てました。編成はベース、ギター、シンセサイザー、座りドラム、スタンディングドラムの5人、スタンディングドラムが、貞さん(貞方威さん・平太鼓)の時もありましたよ。自分は、二〇一五年に切腹入ったけど、まだ VELOCITYUT にも籍はあります。どんなジャンルかって? 毎回なんて言えばいいか困るんですけど、ライブした時のフライヤーに「瞬間コラージュエレクトロキラーパンク」と呼ばれたりってありました。その山下さん、今はベロシチュートもやってるんですが、長崎で「菫舎」という福祉の介護施設もやってまして、そこでいろんな展示、ゲスト呼んで企画したりと動き続けてます。

VELOCITYUT時代には、名古屋を拠点にバンド活動していた千彰さんとの出会いがあったそうでして、千彰さんにも会話に参加していただきましたー!

千彰 ・対バンで会う前から、祐太のことは、名古屋にも噂が届いていて、知っていたんです。 祐太が十九歳くらいの頃、同年代でめっちゃヤバいバンドが長崎にあるっていう話を最初に聞いて、情報とるのがすっごい早い子は、カセット持ってるんですよ。ライブで録音され た。で、「これ知ってる? ドラムが裸でローラースケート履いて暴れとるバンドだよ」っ て聞いて。それだけでまずヤバいと思ったんですよ。ちょっとやられた感あるんです。同世 代でこんな奴らって、ちょっと目立つのが気になっていたんで。うわっと思って、話だけで も衝撃を受けてたけど、カセット聞いたら、めっちゃかっこよかったんですよ。うそーと思 って、おんなじ年か!と思って。しかも裸だろって思って(笑)。会ったのは、その二年後 くらいかな。

祐太・その時は、VELOCITYUTだった。

千彰 ・対バンしたんです。そのときに、裸のヤバい奴というのが祐太だって分かったよね。

祐太 ・俺だったって話。

そのときも裸だったんですか?

祐太 ・いや、VELOCITYUTでは、裸になるな、暴れるな、 目隠しするなって。言われてました(笑)。ドラムを普通に教えられる感じはまったくなくて、「ドラムをドラムだと思うな」ってずっと言われてましたね。技術も大切なんでしょうけど、バンド内のイメージの共有だったり、見せ方だったり、なんか言葉では言えないふんわりしたものが大切なんだなって感じてました。

千彰 ・そうね。脱がなくなってたね、だいぶね。VELOCITYUTはとにかく演奏もカッコ良 くて、ライブは四分で終わるんですよ。わーっと盛り上がって、あ、もう終わ り?みたいな、それもかなり独特で。

千彰さんのバンドはガールズバンド?

千彰 ・いやー、SIKASIKA っていう名前のバンドで、男の子がボーカル。あと三人の女の 子が楽器隊。ちょっと珍しい感じでしょ。昔の切腹とも対バンしてるんですよ、二、三回。

千彰さんもギタリストなんですよね。祐太さんも、初期の切腹ピストルズとライブで出会ったんでしたっけ?
そうっす、ライブで一緒になって。その後も、二、三回は長崎に来てくれました。長崎は歴 史の町だから、幕末歴史好きな切腹のメンバーも長崎行きたいって言ってくれて、ベロシチュートと長崎で一緒にやりました。二十二、三くらいかな、ヒロさん(飯田団紅さん・総隊長)、すーさん (壽ん三さん・三味線)、ひでろうさん(久坂英樹さん・平太鼓)に会ったのは・・・。最 初、怖かったすね。ゾクっとした感じとか、おっかなそうとか、、、笑。

そのときはもう、すーさんは三味線だった?

いや、すーさん、ギターでした。たまに出会った頃の話になるんすけど、すーさんにから「祐太は、最初に会ったとき、学校の部活の話をしよったよ」って。「ええっっ? そんな感じでした? 俺」って言って。

部活としては、野球部、ラグビー部って入って。そこから長崎伝統のペーロンってあるんで すよ。知ってます?  ペーロンを十年ぐらいずっとやってて。たぶんその話を延々やってい たと思うんです。部活というよりは、地域の活動ですよね。たしか切腹が初めて長崎に来た とき、ペーロンの自分の櫂があって、一番大事な櫂を太一さんに「これ、持って帰ってくだ さい」って(笑)。太一さんがやっぱり後から「祐太か ら。でかいこん棒のようなやつをいきなり渡されてた」って言っていて。これ持って、 飛行機に乗れんやろって(笑)。

突然あげたくなっちゃった?
そうそう。なんかそういう気持ち。自分の気持ちというので渡しました(笑)。

 

バッグに玉ねぎ詰めて
青春十八切符で東京へ!

仕事のことも聞いていいですか? 高校のころ、将来こうしたいとか。「長崎なんか出てっちゃるばい!」とか? どんなふうに考えてました?
あんまり希望とかなかったんすよね。高校卒業して、看護婦をしている母親の勧めで整体の 専門学校に行ったんです。将来を心配されて、勧められた感じですね。バンドやり初めてからは仕事のこととか考えなくなっちゃたし、ライブ映像とかも母親に見せてたんですけど、アイマスクして、裸で、うわーって言 ってドラム叩いてるから、親としては嫌でしょうね。

うんうん。上半身裸のドラマーってけっこう多いよね?
いやいや、だからすっぽんぽんでした、俺。

えええええ(笑)、下も? 風邪ひくでしょ、それ。
でしょ。そんな映像を「裸たーいっ」って親にも見せてましたから、心配かけるんですよ、たぶん。小さい頃からすぐに脱ぎたくなる子だったんす。さっき話したペーロン中とか、閉会式とか、すぐにすっぽんぽんで。あ。仕事の話でしたね。すぐ脱線して。

あ、そうそう(笑)、それで、整体院に就職?
ガソリンスタンドっすね。その前に、釣りの話があるんすよ。専門学校が終わってすぐ仕事 どうしようかなという時期に、整体の仕事はないな、って、釣りばっかりやってたんです。

ウナギを採る仕掛けを家の近所の川に入れて。そのころは、入っていればいいなみたいな感 じのノリで、自分でペットボトルで作ったりして。それで、そこの川の目の前に、ちっちゃ なぼろぼろのスタンドがあって、そこから、身長百九十センチぐらいはある兄ちゃんが急にこっちに来て、「おまえ、いつもここでなんかしよるけど、なにしとっとや」って。それが 店長さんだったんです。

「ウナギの仕掛けしてるんです」
「とれるもんや、こんなところで。 おまえ、働いとらんとや?」
「はい」
「うちで働けや」
「いいですか?」っていう流れで。
なんかたまたまなんですけど導いてくれるというか、よか出会いでしたね。その人もバンド好きで、自分が働くようになって「バンドで遠征するから休みをください」 ってなるときも、いいよいいよって、すごくよくしてくれたんですよね。

スタンドで何年か働いていて、辞めたあとの話なんすけど。ある時、諫早市ってとこにある渓谷でやってたカフェで手伝いすることになって、カレーの作り方を教わったんですよ。インドカレーぽい感じの。それ習った瞬間に「これ、いけるわ!」って思って、すぐにバッグに玉ねぎだけを詰めて、東京に行ったんです。

え。え。え。え〜。ちょっと待って、話に追いつけんとです(笑)
東京のライブハウスに電話して、カレーの出店できますか?って聞いて。

なんでいきなり東京?
東京で出店して、それから、あちこちで出店しながら、旅みたいな感じでぷらっと回りなが ら長崎へ帰ってくる、と言う感じで考えて。まあ、食いっぱぐれないように、遊びながら過 ごそうという計画で。二十三、四の頃じゃないですかね。青春十八切符、めっちゃ使って鈍 行で行きました。その時、貞さんが東京にいたんで、東京の拠点にさせてもらって、お世話 になって・・・。

カレーの評判? 毎回、ライブハウス側には「誰ですか?」って言われていましたけど(笑)。 「でもまあ、面白いから、いいよ」って。カレーは、みんなおいしいって言ってくれて評判 よかったです。カフェで一日修行しただけで、出店するとか、なめるなよって感じだったで す、たぶん(笑)。そういうことばっかりやってきてしまったんですよね(笑)。で、 大阪とか、名古屋とか寄りながら、一か月ちょいくらいで長崎に戻ってきて・・・。

屋号とかはあったんですか。
そのころはまだないです。帰ってきて、長崎で店を構えてカレー屋しようかなって思い始め ていた頃、お世話になっていたお坊さんがいまして、マウンテンラヴでいいっちゃないみたいな話になっ て決めましたね。

今もそうなんですが、長崎って人口減少が止まらなくて、仕事が原因なんでしょうけど、若者が離れちゃうんすよね、、その頃に現状の地域状況をなんとかせんといかん・・・みたいな、新規の事業者に優しい補助金という制度を見つけたんですよね。それ活用させてもらって、諫早市で店をつくった。普通の食堂っぽい感じ なんですけど、店の名前は、カレー食堂マウンテンラヴ。それで一年目に千彰も名古屋から来て、一緒に店をやってました。

がまぐちを作り始めたのも、長崎時代なんですよね?
です! 千彰が、家族旅行でハワイに行って古着屋に行ったときに、古い布屋があって、可愛い生地 がたくさん売っていたのを買い込んでカレー屋に持ち帰ったんです。カレー屋のパートの 主婦の人が、自分でいろいろとつくれる人で、その人が「がまぐち財布をつくったらいいっ ちゃない?」って言ってくれて。それがはじまりっすね。

最初はカレー屋の端にちょこんとがま口を置いてたんですけど、まったく売れなくて、まぁ、カレー屋なんで売れないかって思いながらも千彰はがっくりしてましたね(笑)。たまたま福岡で千彰がやってたsikasikaのライブがあって、せっかくなら物販でがま口並べてみたらってことで持っていったんです。そこで初めて売れたんですよね。

そこから出店やりつつ、ネットショップのスタイ ルを地道にゆっくりつくっていこうってなったんですよ。

がまぐちをつくるのは全部手作業ですよね。最初は誰かに教わって?
そうそう。そのパートさんに教わって。口金(くちがね)に布を差し込むんすけど、そこが 最初は難しかったっすね。あと、がま口って「パチン」って音がなるじゃないっすか、今は当たり前に音の調整、口金の歪み調整、ってやってるんですけど、、最初の頃はわからずに試行錯誤して、まじでわかんなかったら業者に聞いて、町工場の人に工具貰ったりと地道にやってましたね。あとは、なんでもそうですけど、千彰の感覚を優先してやってます。どっ ちかと言うと、俺はやっぱ職人気質なので、千彰の感覚を形にしていくというか。

いいコンビネーションですよね。それにしてもすごいなあ。めっちゃ楽しそうな二十代。

ずぅーっと楽しいっすけどね(笑)。二十代は「あっ!」って感じで終わりますよね。今もあっという間に過ぎちゃうんすけど、二十歳の頃に八百屋をやってるバンドの先輩の家に遊び行った時、酒飲みながら「いろんなことして、いろんな失敗をしろ」って凄いシンプルなことを言われたんすけど、頭に残ってて、難しく考えることやめるみたいな感覚もしたんで。

うんうん。それからマウンテンラヴを閉めて名古屋に?
切腹に入ったのも名古屋に移ってからでしたっけ?

そうですね。やめて一年後に名古屋に来たんです。千彰の実家の会社に入って、昼間は会社 員で働きながら、家に帰ってきてがまぐちをつくる生活なんですけど、がまぐちがネットシ ョップで売れて、ちょこちょこ忙しくなっちゃって。で、会社から帰ってきて つくり始めて、夜中の二時三時までつくって、そのまま寝て朝六時に出勤してたんで、キツ かったっすね。

切腹は名古屋に引っ越して一週間後に、太一さんから連絡があっ たんです。切腹やるか?って感じで。

自分が長崎にいる間の最後のライブで、 VELOCITYUT と切腹で、ライブやったんですよ。そのときはもう和太鼓で人数も増えていて。その日、打ち上げの時に「自分も切腹やりたいっすねー」って伝えてあったんですよ。

で、入っていいとなったんで、最初の二か月くらい、東京での練習に毎週行ってましたけ ど・・・。ドラムと感覚が全く別ものなんで毎回腕がパンパンになって、入隊当初は公演もあんまし参加できてなくて。会社で働いて、がまぐち つくって、それで切腹の遠征とかに参加するのは、時間的にも位置的にも、なかなか厳しかったんですよね。


二〇二〇年十月 名古屋港

名古屋みたいな都会だと、なんだかんだ、たくさん働かないと駄目なんですよね。そ の働かんといけん時間を減らして、やりたいことをやる時間をつくるには、どうするか、田 舎に移住するかっていうところで・・・、最近は、千彰と相談しながらずっと考えてます。

村門一家、西方へ。

と、ここらあたりまでの話を名古屋で伺ってから、約半年後。二〇二一年の五月三十一日、祐太さん、千彰さん、ハッチの村門一家は、栃木市西方町の住民になった。
古い民家を助太刀仲間の手を借りながら手入れして、敷地の中に畝立てをして茶豆や夏野菜を育て、地域の草刈りや例大祭の準備にも参加し・・・。西方商工会青年部主催の寺子屋や夏祭りでお会いした時の印象や、SNSで発信される近況からは、もうすっかり西方の人!というより、あれ、もうずっとここに住んでいましたよね?というなじみ具合。そういうわけで、年が明けて一月吉日。お二人の拠点、金崎宿を訪ねました。

名古屋で、田舎に移るかな〜という話を聞いてから、半年後の移住ですよね。決めるまでは、わりとスムーズに進んだ?

千彰とは、時間をかけて、お互い納得のいくようになるまで話してきて、徐々 に・・・、それで決めたという感じっすね。

名古屋では、マンションに住んでたんすけど、周りは、どっちを見てもマンション で、窓を開ければ、すぐ隣のマンションで。だんだん閉所恐怖症にもなっていき、日本の 文化を生かしたもの作りをしたいと活動しながら、でも、住んでいるのはマンション?という 違和感もハンパなかったっすね。自分が本来やりたいことが、名古屋のマンション暮らし の中でのルーティンには入っていなかったというか・・・。畑とか、切腹的な活動とか。 古い一軒家に住んでみたかったんすよね。

それで、何年か前から、千彰にも話して、最初に「西方に移住するって、どうかな?」と 話したときは一蹴された感じやったけど、徐々に徐々に、ですね。夜、ハッチの散歩の時 に「これからどうするか」という話をよくしてました。最初は、二拠点という考えもあっ たけど、家賃がダブルでかかるし、それは、裕福な人たちがやることで、うちらには無理 無理って、すぐ消えた。

まあ、正直、千彰を名古屋から動かすのは大変だと思ってたし、そもそも動かしていいも のか、という悩みもあったんすよね。

千彰 ・レペゼン名古屋って、言われていたしね(笑)。コロナもあって、いろんなところ になかなか行けない時期が続いて、そんな中で、なんか吹っ切れた感があったね。もうい いかって。

祐太・千彰も一緒に、西方の人との交流も増えてきたっていうこともあったかな。二〇一 九年か、商工会青年部の全国大会が名古屋であって、針谷さん、大ちゃん(大工大)、森 下さん(松波・ベース)が会いに来てくれたり、年末のど田舎にしかた祭りの時も、後片 付け手伝おうと、もう一日、西方に残ったりして・・・。

自然と西方への風が吹いてきた感じなんですね。引っ越して半年、どうですかー?

祐太・ 最高っすよ。半年しか経っていないけど、お互い、やりたいことがやれるようにな って、知り合いも増えたし。

千彰 ・M U R A K A D O の仕事の他に、名古屋では週二で、英語をメインに中高生向けの 塾の先生をしていて、若い子たちとの情報のやり取りも楽しかったんだよね。こっちでも 続けたいけど、どこかの組織に務めて塾講師で働くという選択肢は、もうないかなって思 っていたら、最近、話があって、近所の中学二年生に、ここで教えるようになって、いい 感じですー。あとは、畑も楽しいよね。

祐太 ・楽しいっすね。教えてもらいながらやっていて、夏は、茄子の支柱を細竹で組ん で、それを眺めながら、この形、よかねーって、刺繍のヒントになったり。畑の石ころ見 てもヒントになる。

千彰 ・桜の並木を散歩したり、川や森の姿を見たり、そんな時間がほんとに気持ちいい、 新商品のイメージ湧くよね。

祐太 ・家賃と生活費が名古屋より格段に安いから、ずっと悩みだったことが解消されて、 働かなくちゃいけない時間が減った分、それで、やりたいことがやれるっていうのが、も う最高っす。

やりたいことも、いろいろ広がっていきそうですね。

祐太 ・俺も千彰も、おじいちゃん、おばあちゃんになるまでは充電期間というか、勉強期間というか、歴史とか伝統文化の勉強しようって話してるんです。まずは、千彰は薩摩琵琶、三味線があって、俺は野良着が あって、落語も小噺もおもしろい話ができるようになりたいなというのは、ずっと思っていて、宴会芸も大好きなんで、そこらへんをうまく表現できるようになりたいなと思ってます。日本の歴史とか文化とか、しっかりやっていれば、将来、食いっぱぐれないんじゃないか、 自分たちに投資しようぜ!みたいな感じっすかね。

湯河原の寄席(二〇二〇年三月・註三)、祐太さんの話、面白かったです。六月の西方での寺子屋(写真)も! 話の展開の予測が全くつかない、唯一無二の面白さというか。

祐太・ 自分は、隊長みたいに話すのは難しいし、でもどこか盗めるとこないか探したり、会話の切り返しとか、そんなこと考えてたら自分の持ち味ってなんやろなとか、んで、こんな感じかなってのが、言葉で言ったら素っ 頓狂というか。「は?」みたいな感じなの、すごい得意だから。そういうことを話で表現で きたらいいなって、ずっとここ最近思ってます。難しいっすけどね。


二〇二一年六月 西方商工会青年部主催「寺子屋」にて、公演のような講演

江戸とか、日本文化とか、もっと学びたいというのは、自然な流れですか?

祐太 ・やっぱり大きな転機はニューヨークかな。二〇一八年に、切腹ピストルズの公演で ニューヨークに行った時、みんなは三泊四日だったけど、俺らは、一週間前から入ってた。がまぐちの生地を向こうでも仕入れたくて。ニューヨークの布屋に向かう時、電車の中かな。白人のおばさんが「あなたたち、狂っていて、いいわね!」と話しかけてきたんですよ。crazy って、最高の褒め言葉だったみたいで。俺は野良着で、千彰は羽織に笠。

千彰・ 私たちがドレッドヘアとかだったら何も起こらなかったと思うし、そう言われて、いろいろと腑に落ちたというか。

祐太 ・それをきっかけにして、日本の文化という自分たちの土俵という意識で物事を考えるようになったよね。なんとなくやってたことを全部日本の土俵にひっくり返してみて頭で意識するようになったし。切腹に入隊したことが一番やられた感というか、切腹ピストルズってすげぇなと毎日感じてますね。

千彰 ・私たちの服装に、そんな風に反応してくれる人と出会えたことで、自分たちが大事にしたい日本の文化の形を誇りに思えた し・・・。帰りの空港で待ち時間に二人で話し合ったんだよね。この体験を忘れないよう に、大切にして、これからいろんなことを調べたり学んだりしていこうって。

祐太 ・そうっす。そのあたりのことから、やっぱり西方への移住にもつながってきたかな。たまに隊長が、隊員にこれ読んでみれば?とおすすめ本があるんすよ。ほとんどが江戸時代のことで、ほぇーってことばかりでまだまだ自分らが知らないことがいっぱいあるやろな、と思います。

なるほどねー。いい流れですねえ。ちなみに、いま持っている服はどんな感じですか? 野良着以外も着る機会ある?

祐太 ・今まで着ていた服は、徐々に捨てたり、人にあげたり。そういえば、二〇一四年の 切腹入隊からずっと、服を一枚も買っていない!  夏は鯉口着て過ごしてますよ。自分でも作ってるんで。冬は寒ければ母親が、送ってくれたヒートテックを下に着ちゃいます。こっそり(笑)。あ、じいちゃんから生前にもらったジャージ は「これは持っとかんばいけんなー」と、今でも捨てないで持ってる。スニーカーは一足 もないっすね、今は。鯉口、野良着、半纏、綿入れ、雪駄、下駄、を普段着として過ごしてます。

じいちゃん、天国で喜んでるー。そういえば、大晦日に公開された、新曲P V「古今東西皆様方よ」(註四)すっごい良かった。千彰さん、琵琶やってましたね!

千彰・そうそう。去年の九月に、通販で薩摩琵琶を買ったんですよ。一度、割れてしまって修理されているものなので、お買い得の値段だから手が出たもので。
三味線は、大先輩の寿ん三がいるし、一九六〇年の日本映画で『切腹』ってあるんですけど、そのオープニングが、琵琶。いいよねーって隊長たちとも話していて、琵琶をやってみた いとなって・・・。
買ったはいいけど、教本もとても高くて、調弦もどうやったらいいか わかんない。検索しながら教えてくれる人を探していたら、錦心流の先生が宇都宮にいる ことがわかって、今は、月二で通ってます。名古屋にいた時も最後の二年くらいは、コロナもあったし、メンバーそれぞれが急がしかったりで、バンドをやれていなかった。 聴くのも好きだけど、やっぱり自分もやりたいタイプだから・・・。だから、今 の状況が、とてもいい感じですね。

祐太 ・西方に来て半年過ぎて、千彰もいろいろとやりたいことが出来ている状況で、元気 づいてきたっすね、よっしゃー!という感じで。「引っ越してきてよかったー」という言 葉を聞いて、俺も嬉しいっす!(終)

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註一
VELOCITYUT
1993年に長崎で結成。ベース、ギター、ドラム、ドラム、シンセサイザーの5人編成。YouTubeにアップされている、金髪・祐太さんのドラムプレイが冴える1本をどうぞ。(2011年 北九州市小倉北区 UN KOKURA)
https://www.youtube.com/watch?v=0W-afx8h3ZQ

註二
がまぐち
二〇一四年に、デザイナー・千彰さん、職人・祐太さんで立ち上げたブランド、最初の屋号は、DIAMOND WHIPPESS(ダイヤモンドホィップス)。千彰さんが見立てて仕入れる、総柄を基本とした生地で、がまぐち、がまぐち形のポーチ、バッグ、ピアスなどなどを祐太さんが仕立てる。ネットショップを基本としながら、時折、国内だけでなく韓国など海外でもポップアップショップを開く。2019年に、ブランド名を「MURAKADO」に。ぜひ、覗いてみて↓↓
https://www.murakado.com

註三
「のろし寄席」
村門祐太 語り唄「日本航空一二三便墜落事故」をどうぞ!
二〇二〇年三月十五日 湯河原「よるのあじと」 豊田利晃監督・映画「狼煙が呼ぶ」上映×のろし寄席より
https://www.youtube.com/watch?v=i7qQgv-OY-4

註四
『古今東西皆様方よ』
二〇二一年大晦日に、突如として公開された謎多きP V。切腹ピストルズ公式YouTubeに上がっているけれど、演者は「江戸から来た男たち」とのこと。手前左が千彰さん(薩摩琵琶)、右は、どう見ても祐太さんでしょ、これ。・・・なのだけれれど、謎多し。映像の編集も演出も歌詞も、兎にも角にも魅力的。「古今東西皆様方よ、その後時代は完成しやしたか? 古今東西皆様方よ、破壊、混沌、秩序のセンス」 一度見たら聴いたら癖になります!!
URLは、こちら→古今東西皆様方よ

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聞き書き・文中写真撮影|簑田理香
バナー写真|針谷伸一
取材
二〇二〇年十月七日・名古屋港にて
二〇二二年一月十二日・栃木市西方町金崎宿にて
公開・二〇二二年二月二十三日