篠﨑泰三(しのざきたいぞう)
切腹ピストルズ入隊・二〇二二年一月
笛・締太鼓
鹿沼市塩山町お囃子保存会所属
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やっぱり、魂っすよね。魂に記憶されてるんだと思うんですよ。お囃子のリズムって。
「取材ありがとうございました! 今、まとめてますんで。進むの遅くてごめんなさーい」と泰三さんにペコペコしながら挨拶した私への返事が、いきなり魂の話だった。
一月二十八日。栃木市西方金崎宿の「花いろ」にて。二〇一六年の瀬戸内国際芸術祭での出会いから、切腹ピストルズ出没シーンに梅さんあり!というくらいの張り付きでカメラを回し続けたテレビ東京プロデューサー、梅崎陽さんが監督を努めたドキュメンタリー「切腹ピストルズ参上」の上映会でのこと。
その日から遡って二十日前の八日、泰三さんの地元、鹿沼市の塩山地区を訪ね、彼が所属している塩山町お囃子保存会(註一)の稽古場や拠点の塩山神社、そして市の施設に展示してある彫刻屋台を見て回りながら、お囃子との出会い、切腹ピストルズとの出会い、入隊にまつわる話など、聞き取りしていたわけです。(で、1ヶ月以上かかって本日ようやく記事の公開となっております)
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梅さんのドキュメンタリーは、二〇一八年のニューヨーク「逆黒船」遠征公演がメインともいえる記録映像。「魂に火を灯せ!」というキャッチがついているのだけど、ただの宣伝文句じゃなく、彼らの現場で起きている現象を見事に言い当てているように思う。そしてこの映像には、入隊してまだ一年そこそこの泰三さんは登場しないのだけど、この一年ほどの演奏の場では、「もうずっと昔からそこにいる人」のような感じで、笛を鳴らしているように見えてしまう。ただ、お囃子のキャリアが長いからとか、そういう理由でもないような気がしている、なんとなく。
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切腹ピストルズが、山あいの小さな祭りで、大地の芸術祭で、まちなかのイベントで、瀬戸内国際芸術祭で、豪雪の町で、ニューヨークで、観る人聴く人の魂に火を灯しまくっていた日々に、今や切腹ピストルズの本拠地となってきた栃木市西方町から車で二十分もかからないご近所の鹿沼市塩山町で、泰三さんは泰三さんの魂に刻まれたお囃子の火を、彼なりに模索しながら灯し続けていた。
はてさて、両者が、いかに出会い、いかにお友達になり、いかにして正式入隊とあいなったのか、篠﨑泰三伝のはじまりはじまりでございます。
一人の罪人から始まった、
塩山のお囃子
「もうなんかねえ、俺は赤ちゃんの頃、親父の背中で気持ちよく寝てたみたい。お囃子の練習に行く親父におぶわれて。親父は塩山のお囃子で笛を吹いていたんですよ。太鼓も鉦も一通り全部やってます」
泰三さんのお囃子初体験は、赤子時代。地域で古くからあるお囃子の会に参加しているお父さんに連れられて。自分の意思で稽古に参加し始めたのは小学校に入ってからだと言う。
「自分の家は、親父から始まったけど、会の歴史自体は長いみたいなんですよね」
江戸時代から? 近隣のどこかの町からか、伝わってきたのかなあ。
「牢屋からって聞いてます」
え?
「塩山にあるお寺のひとつが、元々の会の練習場所なんですけど、そのお寺は、江戸時代に牢屋だったらしくて。江戸で悪さをしていた人たちが、ここに連れてこられて、地域の人が番人をしていたんですよ。見張り人というか。それで、ある時、ある人が番人をしていたら、牢屋の中で、なんだか木の棒のようなものでずっと叩いている奴がいる、と。お前は何してるんだ?と聞くと、これは江戸に伝わる小松流のお囃子なんだ、と。やることないから太鼓の代わりに、こうやって叩いているんだと言ったら、それを聞いた地域の人が興味をもって、俺に教えてくれって頼んだらしいんですよ。その罪人は太鼓だけじゃなく笛もできた人だったらしくて、太鼓とか笛とかを持ってきてくれたら全部教えてやるよと言われて話がまとまって、それが塩山のお囃子の始まりみたいです」
文書の記録に残っているわけではないけれど、口伝えで代々伝えられ、お囃子をやる人はみんな知っている話とのこと。
「ちょっと続きがあって、その最初に興味を持って教わった人の家では、のちの代では、お囃子は禁止されたらしいです。ある代になって、そんな罪人から教わったお囃子なんか絶対にやるなって遺言を書かれたみたいで」
遺言かあ、それは効力ありますね。それにしても、江戸からの罪人が伝えたお囃子って、罪人の江戸での暮らしぶりも罪状も、いろいろ妄想を掻き立てられますな。テレビもインターネットもスマホも無い時代だからこそ、文化や知恵や技術を伝える、受け取る、伝わる、継ぐ・・という人間の行いのひとつひとつにくっきりした輪郭があったのだろうなあ。
・・・なんてことを話しながら、塩山町お囃子保存会の拠点、塩山神社の階段を登る。
毎年、夏のお盆と正月には、この境内で演奏を続けているとのこと。コロナ感染拡大の影響で境内での演奏が無理なときは、すぐ近くのプレハブの練習場で笛太鼓を鳴らす。お盆の帰省で神社に立ち寄る人、元旦の初詣に来る人。みんなの耳に届くように。
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子どもの頃って、この神社で遊んだりしていました?
「遊び場でしたねー。肝だめしとか」と話し始める泰三さんは、思い出し笑いを抑えきれない。なになに? 何かやらかしちゃってますね。
「いや、大した話じゃないんすけど、小学校一年の頃、一人ずつ順番に、ここの神社に来て戻ってくるっていう肝試しやってたんですよ。そこの拝殿にろうそくを立てておいて、ちゃんとここまで来たよという証拠に火を着けて。で、そのころ、ちょうど、この手水舎(ちょうずや)を作っている最中で、もう出来上がる寸前! 下にコンクリートぶってあるじゃないですか。あれがコンクリート打ちたてだったんですね。俺、暗いし、全然分かんないじゃないですか。真夏の夜だし暑いし、水で手を洗ってと、上っちゃったんです。それで、うわ、打ちたてだったって気づいた時には遅くて、ぐちゃぐちゃにしちゃってて・・・。ヤバいと思って、しらばっくれてその日は帰って・・・。そうしたら次の日、この塩山町じゅうで誰がやったんだ?と大騒ぎになっていて、すぐにばれて、すげえ怒られたという記憶が・・・(遠い目)」
西方櫓音頭で笛を吹く
真夏の肝だめしから時は流れて、立派な大人になった泰三青年は、二〇二一年、栃木市西方の道の駅、真夏の盆踊りの櫓の上で笛を吹き、太鼓を叩いていた。隊長の飯田さんの肝入りで、途絶えて久しい「西方櫓音頭」を完全復活させ、切腹ピストルズと西方有志で披露するという記念すべき夏祭りだった。
あれが、切腹ピストルズ入隊の初演奏だったのかな?
「いや、そういう訳でもないんですよ。まあ、入隊するきっかけと言えばきっかけなんですけど。いや、きっかけというか、鍵になったのが、西方櫓音頭ですね」
西方櫓音頭が、切腹入隊の鍵になった?
「切腹ピストルズは、六、七年くらい前に知って、すげー人たちがいるってYouTubeで見まくっていたんですけど、検索して調べるうちに、ちょいちょい「西方」ってキーワードが出てくるようになったから『え、西方?』ってなるじゃないですか、隣じゃんって。どうやら隊長や何人かは西方に住んでるらしいっていうことがわかって、もう衝動的にストーカーですよ。仕事帰りに、わざと西方を通ってみたり。暇さえあればちょっと西方ぶらぶらして、うわ、ここが大さんの薪小屋じゃんみたいな。もうすごい自分の中で興奮してて・・・。それで、居ても立ってもいられなくなって、まだ会ってもいないのに、facebookで隊長を見つけてダイレクトメッセージを送っちゃったんです」
おおお、なんか恋愛初期のようなドキドキですな。
「自分、隣町の鹿沼に住む篠﨑泰三って言いますって。それで、簡単に言うとメンバー募集とかしてないんでしょうかと。自分、やりたいんですけど、面接とかあれば、ご検討よろしくお願いしますって。それから一週間ぐらい待っても返事は来なくて、まあ返ってこないよな、そりゃ返ってこないよなって思って。忙しいだろうし、俺みたいなのも今までにもいっぱいいたんだろうし、相手にする時間もないよなって思って、もう諦めかけてた頃に、返事がきたんです。その内容はというと、残念ながら募集はしてない。だけど、鹿沼だったら近いから、これから何か楽しいこと一緒にできたらいいね。だから遊びにおいでよって」
へえ、優しい!
「そうなんですよ。はっきり募集はしてないって言われたけど、ただ、関われたっていうのだけで結構うれしかったんですね。でもやっぱりちょっと、うれしい反面、残念な気持ちもあって」
やっぱり一緒に演奏したいっていう気持ちがありますよね。
「はい、まああったんですけど、けど、だからといって、自分の気持ちは変わらないから、西方の町を探索するのは変わりなくやっていたんですよね。それで、ちょうど、西方町の真名子の山にメガソーラーができるっていう問題が持ち上がって、西方の人たちが動き始めたんですよね。二、三年前、二〇二〇年の秋かな。で、いろいろやっているときに、俺が別に何ができるっていうのもないんだけど、知っていて見ぬふりするのも嫌だし、とりあえず、中に入っちゃおうって、思いきって大輔さん(大工大)の薪小屋行こうって、行ったんです」
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大輔さんとはもう繋がっていたの?
「繋がってなくて、ほんとに突然。しかも夜中。十一時は過ぎていて、寒かったです」
えー(笑)。夜中に行ったら、大輔さん、薪小屋にいたんですね?
「いや、いないです、笑。同じ鹿沼の友人の滝口くんと行ったんですけど、薪小屋は真っ暗で、それで、道を挟んで反対側の自宅らしいところに、狼のお札が貼ってあるから、うわっ、ここだ!って、迷いもなく、こんばんは〜って玄関をガラって開けたら」
開けたら? ていうか、開いたんだ(笑)
「ガラって開けたら、もう目の前に大輔さんが。椅子に座って野良着の繕いしていたんです」
夜なべ! 驚いたよね、大輔さんも。
「はい、大輔さんは、どうしたんですかって相手してくれて。自分たちは鹿沼から来たこういう者なんですけど、ちょっと居ても立ってもいられなくなっちゃって、来ちゃいました。夜中に突然来ちゃってすみませんって・・・自分、口下手なんで、そのくらいしか言えなくて。大輔さんは『いやいやとんでもない。ではちょっと薪小屋で話しますか』って言って。それで火焚いてくれて、いろいろ話していたら、大輔さんが「あれ。もしかして隊長にメッセージ送った人?」って。「えっ、そうです」「話は聞きましたよ。鹿沼の」って。「やっぱりそうかー。わざわざ来てくれたんですね」って、メガソーラーの話や、切腹ピストズルってこういう思いでやってるんだみたいな話もいっぱいしてくれて、3時ぐらいまでしゃべっていたんです」
そこからなんですね、リアルな交流。
「はい。祭りの準備とか片付けの手伝いさせてくださいって言って、十二月のど田舎にしかた祭りで西方の人たちとも仲良くなって。その後、『どうやらこいつは、鹿沼で笛をやっているらしい』って広まって、それからですね、隊長から西方櫓音頭の話があったのは」
隊長から泰三さんへの折り入っての相談は、こんな内容だったと言う。
実は西方町には、こういう櫓音頭があるんだけど、昔のおじいちゃんたちがやっていた録音の音源だけが残っていて、残念ながら、今は、演奏できる人がいない。太鼓はなんとか再現できるものだけども、笛も再現したい。どうにか今の西方で再現したい。そこで、泰三、お前に協力してもらいたい。
「嬉しかったです。ぜひ、自分にやらせてくださいって、自分から頼みこんででもやりたいことですよ。その音源を隊長から送ってもらって、自分なりに聞いて、その音源のように笛を吹いて。そしたらすごいみんな喜んでくれて、もうこの音源のまんまじゃん、すごいって」
さあ、そして二〇二一年の夏、道の駅にしかた「にしかた市」での櫓の上。切腹ピストルズ、関東在住者を中心にメンバーも揃ったところに泰三さんも参加しての演奏! 音頭の笛だけじゃなくて、切腹の曲でも太鼓を叩いていましたよね?
「いやー、全然切腹の曲できないのに、いいよ、いいよ、もうおまえ上がっちゃえ、上がっちゃえみたいなノリで。適当に太鼓たたいちゃえって!」
そこからもうすぐに入隊の話になりそうだけど?
「そのときに、純さん(笛・大口純さん)が『すごいすごい、いやもう一緒にやるべきでしょ』って、すげえ熱く褒めてくれて。『いや、でも今は募集してないからって一回断られているんで』と説明したら、自分の目の前で、純さんと隊長がやりとりしてくれたんですよ」
純さん「え、うそ。ヒロくん、なんで断ったの?」
隊長(ヒロくん)「いやいやいや。結果として確かに断ったっていう形にはなっちゃったけども、ただやっぱり、メッセージ上だけじゃなくてさ、どういう奴かとかさ、実際に会っていろいろ一緒にやってみないと・・・。そういうの大事じゃん!」
純さん「いやいやいや、こいつはあれだよ。泰三は切腹に欲しいじゃん!」
「そんなやりとりがあって、そのにしかた市が終わってから、俺と純さんと隊長がいた時に、隊長から『じゃあ泰三、やるか? 一緒にやるか?』って言葉をもらったんです」
おおお、それで決まり!
「いやあ、すげえうれしかったんですよ、そのとき。すげえうれしかったんですけど、ただそのとき『まじすか、ありがとうございます! はい、やります!』って、俺、言えないなと思って、そう伝えたんですよ」
隊長「え? なんで?」
純さん「は? お前、何言ってるんだよ。どうした。え、なんで?」
「いやー、その時に思ったのが、まだお会いしてないメンバーの方のほうがむしろ多かったし。だからやっぱり、ちゃんと会って、自分から挨拶して、その辺をちゃんと筋通してから始めたいです。俺のこと、まだ知らない人もいるし、そこはちゃんとしたいんすよって言ったんですよね。そう伝えたら、三十秒くらい沈黙があって、いや三十秒は言い過ぎかな」
隊長「気持ちはわかった! でも、そんなこと言ったら今のこの昨今、コロナもあるし、挨拶が終わるの、いつになるか分かんねえぞ。ただでさえ集まれなくなってるから」
泰三さん「はい! でもやっぱりそこはちゃんとしたいんですよね」
隊長「そっか。分かった。おまえは偉えな。じゃあ、何か集まり事とかあるときは、来て。一人ずつ会えるように俺も協力していくから、そういうことでやっていこうぜ」
泰三さん「・・・(感涙)・・・」
なるほどねえ。西方櫓音頭は大きなきっかけだったんですね。
「はい。そこから、会える人は会って、直接挨拶して。とはいえ、二十人くらいなので、なかなか会えないんですけど、自然に正式入隊という感じになって、入隊して一か月も立たないうちに、ちょうど一年前(二〇二二年二月)のドバイです。シカゴも行ったし、いやあ、濃い一年でした」
濃いですよねー濃いですよねー。中東まで行ってドバイ万博の日本館ジャパンデーに出演、四月は瀬戸内国際芸術祭、五月はシカゴでの映画祭ジャパンフィルムコレクティブで、冒頭に書いたドキュメンタリー上映と切腹ピストルズの演奏、秋は秋で橋の下世界音楽祭に隅田川道中に・・・他にもまだまだ・・・濃いですよね!
さて、泰三さんの切腹ピストルズ入隊までの物語が見えてきて、一息ついたところで、お決まりの質問。「切腹ピストルズ入隊前は(お囃子以外にも)バンドとか音楽活動をやっていたんですか?」
「はいはい、やってましたね。中学に入ってバンドやってたんです。学校祭でやろうかというのがきっかけで。その頃、流行っていたのがメロコアで、Hi-STANDARDとかBRAHMANとかそういう路線と、セックス・ピストルズの「Anarchy in the U.K.」とか。そういうコピーバンドで、ベースやってたんです」
ベース? 何か理由あります?
「というのは、うちの親父がベースやっていたんですよ。親父の世代は、グループサウンズとか、ベンチャーズとかビートルズとか。うちが練習場になっていたんで、自然と耳に入ってくるんですけど、なんだこの音楽って感じでした(笑)。だけど、バンドの名前はパクらせてもらっていました。イーストアップサニーズっていうんです。その名前で中学の学園祭に出ましたね」
お父さんたちのバンドの名前で・・・笑。お囃子とバンドの両立も気になります!
「小一でお囃子を始めて、中学でベースとバンドを始めて・・・。中学、高校となってくると、お囃子をやってる同世代って、ほとんどいなくなっちゃうんですよ。だから学校でも、バンドの話をすることはあっても、お囃子の話はしない。で、祭りの時とかお囃子やってる時に同級生とかに会うと、『あ、やってたんだ!』となる」
「お囃子に関してはもう本当に、俺のことをおんぶしながら親父がやっていたぐらいだから、自分も好きでやってるというのもないし、逆に親がやってたから自分もやらされてるっていう感覚もないんですよ。こんなこと言ったらちょっとオーバーな言い方になっちゃうかもしれないですけど、生まれる前から知っていた、みたいな」
本当に自然な感覚で始めて、自然な感覚で続けているんですね。
「そうそうそう。生活の一部でもあるし。だからもっと言っちゃうと、こんなのやっていても誰も見向きもしてくれねえというぐらいに思ってた。俺って何やってるんだろうっていう・・・。笛、太鼓をやることは、当時の若者にとって、カッコイイっていう対象じゃなかったです。まあ、でも、本当にやることが自然という感覚でずっと続けてきたんですよね」
とはいえ、鹿沼市と栃木市は、お囃子盛んで祭りも熱い印象があるし、そんなところでずっと続けているって、やっぱりすごいな、と。それで、塩山町のお囃子は、さっき見せてもらった稽古場で小松流って書いてありましたよね。流派がいろいろあるんですか?
「あります、あります。ただ、すごく似ていて。小松流、平戸流、関白流とか、新小松流とか、たくさんあるんです。ただ、微妙に違うだけで、けっこう似ているんです。どれも大きく分けると五つの曲で構成されている五段囃子で、五つが全部つながっていて、延々と演奏を回せるようになってます」
「五段囃子の五つは、それぞれに名前が付けられていて、まずは四丁目(シチョウメ)。四丁目は、多分みんなが聞いたことあるお祭りのテンポ。タタコトチャンチョン、チャチャチョチョチャンチョンっていう。あとの四つは、神田丸、鎌倉、江戸馬鹿、昇殿っていう名前で、激しくなったり静かになったりしますね」
そんな、お囃子ミニ講座を聴きながら、鹿沼市内の郷土資料展示室へ。彫刻屋台の展示スペースもあって、毎年十月に行われる鹿沼の秋祭り(註二)「今宮神社祭の屋台行事」(註三)に繰り出す屋台の中から交代で、彩色が施された屋台と白木彫刻の屋台が1台ずつ展示されている。
江戸時代後期、日光東照宮建造を任されていた宮大工たちが鹿沼にも影響を与えて彫刻屋台が作られてきたとは、聞いていたけれど、彩色豊かな屋台も、緻密な彫刻の白木の屋台も、いやどれも息をのむ素晴らしさ。二百年前のもの!と聞いてさらに驚く。現代の商業の土俵の上で、「デザイン」だとか「意匠」だとか主張し合ってるモノたちが霞む霞む・・・と口をあんぐり開けながら眺めていると、展示館のスタッフの方に、声をかけられる。
「今日はどちらから?」
私は益子からで・・
「自分、地元です」
(泰三さんの野良着ファッションを見ながら)
「何かやってるの?」
「あ、自分、材木町屋台の上で演奏させてもらってる塩山のお囃子会の・・」
「それはそれは!」とテンションがあがるご様子。
2台の屋台に施された彫刻のことなど、とても詳しく教えていただいた。
それから移動して、屋台のまち中央公園・彫刻屋台展示館へ。こちらには、やっぱり祭りの時には現役で街に繰り出す、いずれも江戸時代につくられた久保町・銀座一丁目・銀座二丁目の屋台が展示されていて、それぞれの屋台の横に設けられた階段を登ると、屋台の上部の様子も間近で見ることができる。屋台制作に携わる大工、彫り師、車師(車輪をつくる)、彩色師などの手仕事の様子や、祭りの様子、他の屋台の姿なども、映像や写真で楽しめる。なんだか、鹿沼市の観光案内記事みたいになってきたけれど、泰三さんの塩山保存会が乗る下材木町の黒漆塗彩色彫刻屋台も写真で確認できて、まだまだこれから!の泰三伝の聞き取りを再開。
鹿沼、祭りの継承に熱が入っていますね。
「今宮神社の祭りが、ユネスコの無形文化遺産だっけな、登録されたんで、それで気合はいっちゃったんですよ、鹿沼市も。ああ、そうだそうだ、隊長から聞いたんすけど、隊長が今日から栃木に住み始めますという日。あとは自分の体一つ行くだけっていう時に、東京から電車で向かってて、途中、駅を降りそびれて、あ、降りるの忘れた、やばいやばいっていったん降りたのが、新鹿沼駅。ちょうどその日が、鹿沼の祭りの日だったんですよ。新鹿沼駅って、祭りになると山車が集まって太鼓をたたくところなんです。隊長も、いつもの服装だから祭りの人に間違えられて、いろいろ聞かれちゃったみたいです」
やっぱり、飯田さんは祭りに呼ばれて栃木に移り住んだんだ。
「隊長も、本当にいろいろ詳しくて・・。刺青を入れる彫り師さんが、龍の刺青とかいろいろな刺青をするじゃないですか。その参考資料として、本当に江戸から伝わってるもので参考になるものって鹿沼にしかないから、そういう人たちからしたら鹿沼ってすごい有名なんだよって、教えてもらったことがありますね。鹿沼の彫刻って、すげえんだぞ、っていうのを隊長から教えてもらって。え、そうなんすかって、嬉しかったですね」
周りの評価なんてものより
自分が「自然」でいられるか
今、お囃子の会には何人ぐらい参加してるんですか? ちびっこたちも?
「三十人くらいで、小学生が六人ぐらいですかね」
それゃあ、お囃子保存会の未来も安心ですね。
「ただやはり、自分らがやりだしたときのことを思い出すと、今の子たちは、なんかちょっと熱量が違うかな。自分は、それこそテスト期間だとか受験だろうが全然関係なしに練習は行ってたじゃないですか。だけど今の子は「テスト期間なんで」って休んじゃう。それは普通なのかな、俺が勉強しなかっただけか」
基本、皆勤賞だったんですね。でもそれが特別なことじゃなくて・・「はい。もうそれが当たり前という感覚で。自分がお囃子やりだしたときは、子どもたちが四十人ぐらい集まったんですよ。太鼓やりますって。そのうち、遊びが忙しくなったり、勉強しなきゃっとか、部活が忙しいとかで、やめていっちゃう。今も残っているのが、四人。うち、兄貴が二人いてみんなお囃子やってるんで、篠﨑三兄弟と幼なじみのクマベエの四人」
それで、バンド活動と並行してお囃子・・・。
「あ、サーフィンもやってたんです。二十八、九歳くらいまでは、お金貯めては海外行って。バリ島とか、スリランカ、ハワイも行ったし、グアムも。バリ島が一番行きましたね。元サーファーっす」
へえ! お囃子とバンドとサーフィン・・・。
「まあ、あと、お囃子やってる奴より、世間は、D Jとかラップとか、レゲエとかロックとか、そんなのやってる方を評価するんですよ。だから自分も、それを求めて、一通りやってみたんですよ。ブレイクダンスとか、ね」
「それでまあ、わかってきたのが、まわりがどう思うかとか、そんな評価を抜きにして、自分が一番心地いいというか、自然でいられて、自分でいられるのって、何なんだと思ったときに、やっぱり太鼓たたいていたり笛を吹いてるときなんですよね」
もしかして、江戸から来た男たち♡(註四)も切腹ピストルズの演奏も、その延長上ですか? そんな自然な心地よさの・・・。
「例えば隊長とか純さんとかって『お囃子すげえ!』とか、『本来、俺たちが目指すべきところというのは、そこにあるんだ』って話してくれたことがあるんですけど。だけど、物心ついたときからいやでもお囃子が耳に入ってきていて、やっていた俺からすると、逆なんですよね」
逆? お囃子が切腹ピストルズを目指す?
「小一で始めて、ずーっと塩山囃子小松流をやってたわけじゃないですか。もう四十近いんで、三十年以上ずっと。もうこれ以上、自分は何をやるべきなんだというところまで到達したときに、何をやるかって、自分……、なんていうんでしょう。塩山囃子小松流の会にいるから、これをやっていればいいんだということで、ずっとそれをやっているんですよ。そうすると、自分の場合は、やっぱり飽きるんでしょうね。新たなものを求めたくなるんですよ。これがずっと継承されてるんだから、これをやるべきなんだろうけど、でも、俺はものたりない。これ以上に何かできることはないのかな。もっとやりたいんだというところまで達したときに、俺って、他の平戸流とか他の流派のお囃子を真似しちゃうようになったんですよ。それで小松流と合体させて、ここの流派のここの笛の音色、かっこいいな、これ塩山のここに合うって、勝手に作り上げて、勝手に構成を作り出して、勝手に吹きだしたんです、自分なりに」
探求しちゃったんですね。
「はい。自分なりに組み合わせて、なんて言うんでしょう、音色というか、独自のあやを作り出して、独自の音色を吹きだしたんです。もうもの足りないから」
高度だなあ。
「要は幅を自分で広げだしたんですよね、勝手にね。それをやりだしたら、いや、おまえが今やってることは、それは塩山囃子小松流ではないんだから、おまえは先祖から受け継いだ小松流の塩山囃子を、おまえはやっていればいいんだよ。勝手にそういう新たなものを取り入れたりするのは、この保存会は求めていない。このままの形をこのまま伝承してけばいいんだよ。勝手なことするな・・・」
って言われたの?
「って言う人もいれば、いや、すごいよと認めてくれた人もいて。泰三の笛は泰三にしか吹けない音色だよね。聴いていてなんか周りと違う。すごいよって言ってくれる人もいるんだけど、それは一般のお客さんたち。だけども、保存会の人たちには、いや、これは塩山囃子じゃない。おまえは伝統を受け継いだものをそのままそれをやるべきだって、クソグソに言われました」
クソグソ?笑
それは、何年くらい前のことですか?
「中学生の頃っすね」
はやっ。本当ですか。つい最近の話かと思ったけど、中学生でそんな境地にまでいってたんだ。
「いや、だけど、俺、本当につまんないんだって思い始めていたんで。塩山の小松流はいやっていうほどやってきたし、別にそれだけやってろっていったらそれだけできるけど、ただ、俺の心がもっとその先を求めちゃってるから、それじゃ俺つまんないんだよって言っても、いや、だけども、保存会としてはやっぱりそれをやるべきなんだというのを言われました」
そんな考えでやってたら、
今、新しく生まれるものは、何もねえよ!
十代の頃に抱いた「その先にいってみたい!」っていう探求心って、大人になって切腹ピストルズと一緒にやるようになって、そのあたりが満たされているところってありますか。
「あります、あります。そうなんです!!」
「中学の時は『人前でやるときは、おまえの独自の吹き方は要らない。伝統で受け継いできたものだけをやれ。練習の時はまあいいとして、人前で演奏するような時、お祭りの時は、そういうおまえの独自の笛は求めてない』ってはっきり言われたんです。だから、すごいつまんなくなっちゃって。それから、ちょっとひねくれたんですよね。この先、俺は、自分の好きなように吹けないってことじゃないですか。そんなんじゃやってる意味がねえっていうのも思ったし」
「そもそも後継者育成とか、伝統を受け継いで行かなきゃいけないとか、それだけを考えていればいいんだ、余計なことはやるなって。それもまあ、わかるにはわかるけど・・・。
そういう考えがある一方で、俺はそれに対抗した考えも持っていて。江戸で罪を犯した罪人が塩山に来て、そこから人伝えに受け継がれて、結果としては今も塩山で継承されているんですけど、いろいろなところにそういう伝統だったり文化だったりってあるじゃないですか。では当時の人、お囃子とか盆踊りとか、最初にやりだした人たちは、果たしてこれがいずれ伝統になる、文化になる、これを継承していかなきゃいけない、継承していくべきだって考えた上で始めたのかっていうと、絶対そうじゃないじゃないと思うんです。
結果として今、俺がやってることは、受け継がれてきたことだけど、そんな昔から受け継がれたことばっかりやっていて、これを守っていかなきゃいけない、俺たちに与えられた使命はこれを受け継いでいくことだけだって、そんな考えでやってたら、今、新しく生まれるものは、何もねえよ!って思ったんです。
でも、そんなこと考えてるのは俺だけなんです。だから、みんなの前では何も変わらない従来どおりの小松流をやってたんすけど、もう自分一人で練習するとかというときはもう自分の好きなように吹いてた」
「中学生のときなんで、ちょっとふてくされて、バンドとかもやりだすじゃないですか。だけどやっぱりなんだかんだ、なんか分かんないけど、一番自分がやってて自然体でいられるのって、やっぱりお囃子とか笛吹いてるときだなと思ってずっと続けてきて。そんな思いを抱いてきた者としては、切腹ピストルズに出会ったときは、もう衝撃すぎて・・・」
出会うべくして出会いましたね。
「はい。その瞬間、もうこれがまさに今生まれて、今の時代に生まれて、いずれこれが伝統になる、これは文化になるって俺、感じたんですよ。本当に感動しましたね。自分が思ってたことを、自分が心の中で思っていたことを、目撃してしまったって、俺、涙出ました。だって、小松流でもないし平戸流でもないし、何流でもないじゃないですか。切腹ピストルズ、またの名を江戸一番隊は、今の時代に生まれて、今の人たちも、のちの人たちも、伝統だ文化だって言うようになりますよ。まさに」
まさに。その「今の時代に生まれた」切腹ピストルズと、二〇二二を駆け抜けた。ドバイ、新宿、シカゴ、瀬戸内、橋の下、隅田川にまだまだたくさん! この一年は皆勤賞でしょうね。
「そうすかね。でも本当になんつうんでしょう。別にね、特別頑張ってるわけでもないっすよ。なんかやっぱり好きなことをやってると、人ってこうなるんだなっていう感覚。とりあえず突っ走る。突っ走れる。それってやっぱり楽しい、本当に心から楽しいと思えてるし」
もうね、みんな、
やったほうがいい、
やり続けた方がいい。
ドバイは、泰三さんが入隊してすぐの二月。ドバイ万博の日本館ジャパンデーでの演奏だった。
「ドバイは、締め太鼓で行ったんです。三澤さんと大地さんが行けなくて、俺と志ん奴さんが締め太鼓。だからドバイまでは締太鼓を徹底的にたたき込んで。とはいえ、全然もう、先輩たちには及ばなかったんでうけど、なんとかなったかな。それで、帰ってきたら、2週間くらいで、新宿駅南口で反戦のライブに切腹も呼ばれていて、その時は純さんがいないから、俺が一人で笛。隊長に、泰三いけんだろ、お前なら大丈夫だって言われて、切腹の曲、動画で見ながら耳コピして。初めて合わせたのが本番だから、もう緊張しましたよ」
配信で見てたけど、落ち着いていたような?
「いやー、その時、太一さんとかすーさんとか先輩方が、俺に言ってくれたのが『ミスってもいいから、堂々としてろ!』だったんです。堂々と、思い切りやれ!って。今でも、その言葉は頭をよぎりますよ、何かって時は。ありがたいっす」
そういえば、お囃子保存会の篠﨑三兄弟、お兄さんたちは、切腹ピストルズで活動し始めたことに、何かおっしゃってます?
「なんでしょうね、変わったことやりだすと、周りの人ってだいたい否定から入りますよね。今まで生きてきて、俺、その辺に関してはもう慣れっこだったんすよ。人に否定されることばっかりやってたんで。お囃子も自分で勝手に吹くようになった時や、サーフィンをしに海外にばんばん行く時もそうだったし、やっぱりなんか、周りって絶対に否定する目線から入ってくる」
悲しいかな、そういう人は少なくはないよね。
「はい。だから正直いうと、最初は否定されましたね。お前、何やってんのって。ドバイ行くっていう時も、時期も時期だったし、否定されたし。だけど、もう俺の中でそれは慣れっこだったんで・・・。誰もが考えたり思いつくこと、誰もが認めることだけをやっててもしようがないじゃないですか。逆に、否定されることを俺は逆張りでやるんだっていう、まあそれも反抗の一つだったのかな、なんかそういう体質だったんです」
「だから、兄貴、親、奥さんには、もう最初に言っちゃいました。何を言われても、俺はやるよ。もう分かってるでしょ、俺を。何を言われても俺はやるんだから、それは最初に言っておくよ。俺はドバイに行くよ。それは最初に言っておくって。だけど、今は、変わりましたね。逆に、応援してくれます。理解してもらえているかはわからないけど、頭から否定されることは無くなりました。もうね、みんな、やったほうがいい、やり続けた方がいい。はい」
やり続けてきた人、篠﨑泰三。
数年前に知人が話していた魂のことを思い出した。スピリチュアルな話は苦手なので、記憶の隅に押しやっていた言葉。それをふと思い出した。
オールドソウル。
その知人は、どうも自分の子供がオールドソウルを持って生まれてきたんじゃないかと思うと話していて、そのオールドソウルは何かというと、輪廻転生を繰り返してきている魂のこと。オールドソウルを宿した人は、実年齢より精神が成熟していているのだと言う。久しぶりに検索したら、宇宙人の魂とかシリウスとか、そんな言葉も紐づいてきたので、やっぱりよくわからない。
とはいえ、泰三さんがいう魂は(冒頭に書いた「やっぱり、魂っすよね。魂に記憶されているんだと思うんですよ。お囃子のリズムって」)、D N Aでも遺伝子でもなく、魂としか言いようがないもので、それは確かに輪廻転生を繰り返しているのだろう。魂に刻み、魂に火を灯し、今の時代だからこそ生まれてくる、新しきもの、切腹ピストルズ。そこには現生のオールドソウルたちが引き寄せられていく、磁場があるように思えてきた。磁場に引き寄せられて、聞き書き伝は続く続く・・・(終)
註一 塩山町お囃子保存会(塩山囃子は鹿沼市の無形文化財指定)
鹿沼市ウェブサイト 保存会紹介のページへ
https://www.city.kanuma.tochigi.jp/0299/info-0000001974-1.html
註二 鹿沼秋祭り公式サイト
https://www.buttsuke.com
塩山囃子保存会の演奏もこちらのページから1分17秒の動画で見れます
https://www.buttsuke.com/hayashi/
註三 今宮神社祭の屋台行事
国の重要無形民俗文化財であり、二〇十六(平成二十八)年には、ユネスコ無形文化遺産に登録。ユネスコ登録が紹介された鹿沼市ウェブサイトのページ
https://www.city.kanuma.tochigi.jp/0281/info-0000003337-1.html
註四 江戸から来た男たち♡
二〇二一年の大晦日に突如現れた六人組。
『古今東西皆様方よ』
https://www.youtube.com/watch?v=9H9oEmYWr98
『南無三』
https://www.youtube.com/watch?v=eMNZWDULC3A
>>前の記事「村門祐太の伝」
http://editorialyabucozy.jp/antimodernism/2996
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聞き書き・文中写真撮影|簑田理香
取材 二〇二三年一月七日・鹿沼市塩山神社ほか
公開 二〇二三年二月二十五日
篠﨑泰三(しのざきたいぞう)
切腹ピストルズ入隊・二〇二二年一月
笛・締太鼓
鹿沼市塩山町お囃子保存会所属
——
やっぱり、魂っすよね。魂に記憶されてるんだと思うんですよ。お囃子のリズムって。
「取材ありがとうございました! 今、まとめてますんで。進むの遅くてごめんなさーい」と泰三さんにペコペコしながら挨拶した私への返事が、いきなり魂の話だった。
一月二十八日。栃木市西方金崎宿の「花いろ」にて。二〇一六年の瀬戸内国際芸術祭での出会いから、切腹ピストルズ出没シーンに梅さんあり!というくらいの張り付きでカメラを回し続けたテレビ東京プロデューサー、梅崎陽さんが監督を努めたドキュメンタリー「切腹ピストルズ参上」の上映会でのこと。
その日から遡って二十日前の八日、泰三さんの地元、鹿沼市の塩山地区を訪ね、彼が所属している塩山町お囃子保存会(註一)の稽古場や拠点の塩山神社、そして市の施設に展示してある彫刻屋台を見て回りながら、お囃子との出会い、切腹ピストルズとの出会い、入隊にまつわる話など、聞き取りしていたわけです。(で、1ヶ月以上かかって本日ようやく記事の公開となっております)
..
梅さんのドキュメンタリーは、二〇一八年のニューヨーク「逆黒船」遠征公演がメインともいえる記録映像。「魂に火を灯せ!」というキャッチがついているのだけど、ただの宣伝文句じゃなく、彼らの現場で起きている現象を見事に言い当てているように思う。そしてこの映像には、入隊してまだ一年そこそこの泰三さんは登場しないのだけど、この一年ほどの演奏の場では、「もうずっと昔からそこにいる人」のような感じで、笛を鳴らしているように見えてしまう。ただ、お囃子のキャリアが長いからとか、そういう理由でもないような気がしている、なんとなく。
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切腹ピストルズが、山あいの小さな祭りで、大地の芸術祭で、まちなかのイベントで、瀬戸内国際芸術祭で、豪雪の町で、ニューヨークで、観る人聴く人の魂に火を灯しまくっていた日々に、今や切腹ピストルズの本拠地となってきた栃木市西方町から車で二十分もかからないご近所の鹿沼市塩山町で、泰三さんは泰三さんの魂に刻まれたお囃子の火を、彼なりに模索しながら灯し続けていた。
はてさて、両者が、いかに出会い、いかにお友達になり、いかにして正式入隊とあいなったのか、篠﨑泰三伝のはじまりはじまりでございます。
一人の罪人から始まった、
塩山のお囃子
「もうなんかねえ、俺は赤ちゃんの頃、親父の背中で気持ちよく寝てたみたい。お囃子の練習に行く親父におぶわれて。親父は塩山のお囃子で笛を吹いていたんですよ。太鼓も鉦も一通り全部やってます」
泰三さんのお囃子初体験は、赤子時代。地域で古くからあるお囃子の会に参加しているお父さんに連れられて。自分の意思で稽古に参加し始めたのは小学校に入ってからだと言う。
「自分の家は、親父から始まったけど、会の歴史自体は長いみたいなんですよね」
江戸時代から? 近隣のどこかの町からか、伝わってきたのかなあ。
「牢屋からって聞いてます」
え?
「塩山にあるお寺のひとつが、元々の会の練習場所なんですけど、そのお寺は、江戸時代に牢屋だったらしくて。江戸で悪さをしていた人たちが、ここに連れてこられて、地域の人が番人をしていたんですよ。見張り人というか。それで、ある時、ある人が番人をしていたら、牢屋の中で、なんだか木の棒のようなものでずっと叩いている奴がいる、と。お前は何してるんだ?と聞くと、これは江戸に伝わる小松流のお囃子なんだ、と。やることないから太鼓の代わりに、こうやって叩いているんだと言ったら、それを聞いた地域の人が興味をもって、俺に教えてくれって頼んだらしいんですよ。その罪人は太鼓だけじゃなく笛もできた人だったらしくて、太鼓とか笛とかを持ってきてくれたら全部教えてやるよと言われて話がまとまって、それが塩山のお囃子の始まりみたいです」
文書の記録に残っているわけではないけれど、口伝えで代々伝えられ、お囃子をやる人はみんな知っている話とのこと。
「ちょっと続きがあって、その最初に興味を持って教わった人の家では、のちの代では、お囃子は禁止されたらしいです。ある代になって、そんな罪人から教わったお囃子なんか絶対にやるなって遺言を書かれたみたいで」
遺言かあ、それは効力ありますね。それにしても、江戸からの罪人が伝えたお囃子って、罪人の江戸での暮らしぶりも罪状も、いろいろ妄想を掻き立てられますな。テレビもインターネットもスマホも無い時代だからこそ、文化や知恵や技術を伝える、受け取る、伝わる、継ぐ・・という人間の行いのひとつひとつにくっきりした輪郭があったのだろうなあ。
・・・なんてことを話しながら、塩山町お囃子保存会の拠点、塩山神社の階段を登る。
毎年、夏のお盆と正月には、この境内で演奏を続けているとのこと。コロナ感染拡大の影響で境内での演奏が無理なときは、すぐ近くのプレハブの練習場で笛太鼓を鳴らす。お盆の帰省で神社に立ち寄る人、元旦の初詣に来る人。みんなの耳に届くように。
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子どもの頃って、この神社で遊んだりしていました?
「遊び場でしたねー。肝だめしとか」と話し始める泰三さんは、思い出し笑いを抑えきれない。なになに? 何かやらかしちゃってますね。
「いや、大した話じゃないんすけど、小学校一年の頃、一人ずつ順番に、ここの神社に来て戻ってくるっていう肝試しやってたんですよ。そこの拝殿にろうそくを立てておいて、ちゃんとここまで来たよという証拠に火を着けて。で、そのころ、ちょうど、この手水舎(ちょうずや)を作っている最中で、もう出来上がる寸前! 下にコンクリートぶってあるじゃないですか。あれがコンクリート打ちたてだったんですね。俺、暗いし、全然分かんないじゃないですか。真夏の夜だし暑いし、水で手を洗ってと、上っちゃったんです。それで、うわ、打ちたてだったって気づいた時には遅くて、ぐちゃぐちゃにしちゃってて・・・。ヤバいと思って、しらばっくれてその日は帰って・・・。そうしたら次の日、この塩山町じゅうで誰がやったんだ?と大騒ぎになっていて、すぐにばれて、すげえ怒られたという記憶が・・・(遠い目)」
西方櫓音頭で笛を吹く
真夏の肝だめしから時は流れて、立派な大人になった泰三青年は、二〇二一年、栃木市西方の道の駅、真夏の盆踊りの櫓の上で笛を吹き、太鼓を叩いていた。隊長の飯田さんの肝入りで、途絶えて久しい「西方櫓音頭」を完全復活させ、切腹ピストルズと西方有志で披露するという記念すべき夏祭りだった。
あれが、切腹ピストルズ入隊の初演奏だったのかな?
「いや、そういう訳でもないんですよ。まあ、入隊するきっかけと言えばきっかけなんですけど。いや、きっかけというか、鍵になったのが、西方櫓音頭ですね」
西方櫓音頭が、切腹入隊の鍵になった?
「切腹ピストルズは、六、七年くらい前に知って、すげー人たちがいるってYouTubeで見まくっていたんですけど、検索して調べるうちに、ちょいちょい「西方」ってキーワードが出てくるようになったから『え、西方?』ってなるじゃないですか、隣じゃんって。どうやら隊長や何人かは西方に住んでるらしいっていうことがわかって、もう衝動的にストーカーですよ。仕事帰りに、わざと西方を通ってみたり。暇さえあればちょっと西方ぶらぶらして、うわ、ここが大さんの薪小屋じゃんみたいな。もうすごい自分の中で興奮してて・・・。それで、居ても立ってもいられなくなって、まだ会ってもいないのに、facebookで隊長を見つけてダイレクトメッセージを送っちゃったんです」
おおお、なんか恋愛初期のようなドキドキですな。
「自分、隣町の鹿沼に住む篠﨑泰三って言いますって。それで、簡単に言うとメンバー募集とかしてないんでしょうかと。自分、やりたいんですけど、面接とかあれば、ご検討よろしくお願いしますって。それから一週間ぐらい待っても返事は来なくて、まあ返ってこないよな、そりゃ返ってこないよなって思って。忙しいだろうし、俺みたいなのも今までにもいっぱいいたんだろうし、相手にする時間もないよなって思って、もう諦めかけてた頃に、返事がきたんです。その内容はというと、残念ながら募集はしてない。だけど、鹿沼だったら近いから、これから何か楽しいこと一緒にできたらいいね。だから遊びにおいでよって」
へえ、優しい!
「そうなんですよ。はっきり募集はしてないって言われたけど、ただ、関われたっていうのだけで結構うれしかったんですね。でもやっぱりちょっと、うれしい反面、残念な気持ちもあって」
やっぱり一緒に演奏したいっていう気持ちがありますよね。
「はい、まああったんですけど、けど、だからといって、自分の気持ちは変わらないから、西方の町を探索するのは変わりなくやっていたんですよね。それで、ちょうど、西方町の真名子の山にメガソーラーができるっていう問題が持ち上がって、西方の人たちが動き始めたんですよね。二、三年前、二〇二〇年の秋かな。で、いろいろやっているときに、俺が別に何ができるっていうのもないんだけど、知っていて見ぬふりするのも嫌だし、とりあえず、中に入っちゃおうって、思いきって大輔さん(大工大)の薪小屋行こうって、行ったんです」
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大輔さんとはもう繋がっていたの?
「繋がってなくて、ほんとに突然。しかも夜中。十一時は過ぎていて、寒かったです」
えー(笑)。夜中に行ったら、大輔さん、薪小屋にいたんですね?
「いや、いないです、笑。同じ鹿沼の友人の滝口くんと行ったんですけど、薪小屋は真っ暗で、それで、道を挟んで反対側の自宅らしいところに、狼のお札が貼ってあるから、うわっ、ここだ!って、迷いもなく、こんばんは〜って玄関をガラって開けたら」
開けたら? ていうか、開いたんだ(笑)
「ガラって開けたら、もう目の前に大輔さんが。椅子に座って野良着の繕いしていたんです」
夜なべ! 驚いたよね、大輔さんも。
「はい、大輔さんは、どうしたんですかって相手してくれて。自分たちは鹿沼から来たこういう者なんですけど、ちょっと居ても立ってもいられなくなっちゃって、来ちゃいました。夜中に突然来ちゃってすみませんって・・・自分、口下手なんで、そのくらいしか言えなくて。大輔さんは『いやいやとんでもない。ではちょっと薪小屋で話しますか』って言って。それで火焚いてくれて、いろいろ話していたら、大輔さんが「あれ。もしかして隊長にメッセージ送った人?」って。「えっ、そうです」「話は聞きましたよ。鹿沼の」って。「やっぱりそうかー。わざわざ来てくれたんですね」って、メガソーラーの話や、切腹ピストズルってこういう思いでやってるんだみたいな話もいっぱいしてくれて、3時ぐらいまでしゃべっていたんです」
そこからなんですね、リアルな交流。
「はい。祭りの準備とか片付けの手伝いさせてくださいって言って、十二月のど田舎にしかた祭りで西方の人たちとも仲良くなって。その後、『どうやらこいつは、鹿沼で笛をやっているらしい』って広まって、それからですね、隊長から西方櫓音頭の話があったのは」
隊長から泰三さんへの折り入っての相談は、こんな内容だったと言う。
実は西方町には、こういう櫓音頭があるんだけど、昔のおじいちゃんたちがやっていた録音の音源だけが残っていて、残念ながら、今は、演奏できる人がいない。太鼓はなんとか再現できるものだけども、笛も再現したい。どうにか今の西方で再現したい。そこで、泰三、お前に協力してもらいたい。
「嬉しかったです。ぜひ、自分にやらせてくださいって、自分から頼みこんででもやりたいことですよ。その音源を隊長から送ってもらって、自分なりに聞いて、その音源のように笛を吹いて。そしたらすごいみんな喜んでくれて、もうこの音源のまんまじゃん、すごいって」
さあ、そして二〇二一年の夏、道の駅にしかた「にしかた市」での櫓の上。切腹ピストルズ、関東在住者を中心にメンバーも揃ったところに泰三さんも参加しての演奏! 音頭の笛だけじゃなくて、切腹の曲でも太鼓を叩いていましたよね?
「いやー、全然切腹の曲できないのに、いいよ、いいよ、もうおまえ上がっちゃえ、上がっちゃえみたいなノリで。適当に太鼓たたいちゃえって!」
そこからもうすぐに入隊の話になりそうだけど?
「そのときに、純さん(笛・大口純さん)が『すごいすごい、いやもう一緒にやるべきでしょ』って、すげえ熱く褒めてくれて。『いや、でも今は募集してないからって一回断られているんで』と説明したら、自分の目の前で、純さんと隊長がやりとりしてくれたんですよ」
純さん「え、うそ。ヒロくん、なんで断ったの?」
隊長(ヒロくん)「いやいやいや。結果として確かに断ったっていう形にはなっちゃったけども、ただやっぱり、メッセージ上だけじゃなくてさ、どういう奴かとかさ、実際に会っていろいろ一緒にやってみないと・・・。そういうの大事じゃん!」
純さん「いやいやいや、こいつはあれだよ。泰三は切腹に欲しいじゃん!」
「そんなやりとりがあって、そのにしかた市が終わってから、俺と純さんと隊長がいた時に、隊長から『じゃあ泰三、やるか? 一緒にやるか?』って言葉をもらったんです」
おおお、それで決まり!
「いやあ、すげえうれしかったんですよ、そのとき。すげえうれしかったんですけど、ただそのとき『まじすか、ありがとうございます! はい、やります!』って、俺、言えないなと思って、そう伝えたんですよ」
隊長「え? なんで?」
純さん「は? お前、何言ってるんだよ。どうした。え、なんで?」
「いやー、その時に思ったのが、まだお会いしてないメンバーの方のほうがむしろ多かったし。だからやっぱり、ちゃんと会って、自分から挨拶して、その辺をちゃんと筋通してから始めたいです。俺のこと、まだ知らない人もいるし、そこはちゃんとしたいんすよって言ったんですよね。そう伝えたら、三十秒くらい沈黙があって、いや三十秒は言い過ぎかな」
隊長「気持ちはわかった! でも、そんなこと言ったら今のこの昨今、コロナもあるし、挨拶が終わるの、いつになるか分かんねえぞ。ただでさえ集まれなくなってるから」
泰三さん「はい! でもやっぱりそこはちゃんとしたいんですよね」
隊長「そっか。分かった。おまえは偉えな。じゃあ、何か集まり事とかあるときは、来て。一人ずつ会えるように俺も協力していくから、そういうことでやっていこうぜ」
泰三さん「・・・(感涙)・・・」
なるほどねえ。西方櫓音頭は大きなきっかけだったんですね。
「はい。そこから、会える人は会って、直接挨拶して。とはいえ、二十人くらいなので、なかなか会えないんですけど、自然に正式入隊という感じになって、入隊して一か月も立たないうちに、ちょうど一年前(二〇二二年二月)のドバイです。シカゴも行ったし、いやあ、濃い一年でした」
濃いですよねー濃いですよねー。中東まで行ってドバイ万博の日本館ジャパンデーに出演、四月は瀬戸内国際芸術祭、五月はシカゴでの映画祭ジャパンフィルムコレクティブで、冒頭に書いたドキュメンタリー上映と切腹ピストルズの演奏、秋は秋で橋の下世界音楽祭に隅田川道中に・・・他にもまだまだ・・・濃いですよね!
さて、泰三さんの切腹ピストルズ入隊までの物語が見えてきて、一息ついたところで、お決まりの質問。「切腹ピストルズ入隊前は(お囃子以外にも)バンドとか音楽活動をやっていたんですか?」
「はいはい、やってましたね。中学に入ってバンドやってたんです。学校祭でやろうかというのがきっかけで。その頃、流行っていたのがメロコアで、Hi-STANDARDとかBRAHMANとかそういう路線と、セックス・ピストルズの「Anarchy in the U.K.」とか。そういうコピーバンドで、ベースやってたんです」
ベース? 何か理由あります?
「というのは、うちの親父がベースやっていたんですよ。親父の世代は、グループサウンズとか、ベンチャーズとかビートルズとか。うちが練習場になっていたんで、自然と耳に入ってくるんですけど、なんだこの音楽って感じでした(笑)。だけど、バンドの名前はパクらせてもらっていました。イーストアップサニーズっていうんです。その名前で中学の学園祭に出ましたね」
お父さんたちのバンドの名前で・・・笑。お囃子とバンドの両立も気になります!
「小一でお囃子を始めて、中学でベースとバンドを始めて・・・。中学、高校となってくると、お囃子をやってる同世代って、ほとんどいなくなっちゃうんですよ。だから学校でも、バンドの話をすることはあっても、お囃子の話はしない。で、祭りの時とかお囃子やってる時に同級生とかに会うと、『あ、やってたんだ!』となる」
「お囃子に関してはもう本当に、俺のことをおんぶしながら親父がやっていたぐらいだから、自分も好きでやってるというのもないし、逆に親がやってたから自分もやらされてるっていう感覚もないんですよ。こんなこと言ったらちょっとオーバーな言い方になっちゃうかもしれないですけど、生まれる前から知っていた、みたいな」
本当に自然な感覚で始めて、自然な感覚で続けているんですね。
「そうそうそう。生活の一部でもあるし。だからもっと言っちゃうと、こんなのやっていても誰も見向きもしてくれねえというぐらいに思ってた。俺って何やってるんだろうっていう・・・。笛、太鼓をやることは、当時の若者にとって、カッコイイっていう対象じゃなかったです。まあ、でも、本当にやることが自然という感覚でずっと続けてきたんですよね」
とはいえ、鹿沼市と栃木市は、お囃子盛んで祭りも熱い印象があるし、そんなところでずっと続けているって、やっぱりすごいな、と。それで、塩山町のお囃子は、さっき見せてもらった稽古場で小松流って書いてありましたよね。流派がいろいろあるんですか?
「あります、あります。ただ、すごく似ていて。小松流、平戸流、関白流とか、新小松流とか、たくさんあるんです。ただ、微妙に違うだけで、けっこう似ているんです。どれも大きく分けると五つの曲で構成されている五段囃子で、五つが全部つながっていて、延々と演奏を回せるようになってます」
「五段囃子の五つは、それぞれに名前が付けられていて、まずは四丁目(シチョウメ)。四丁目は、多分みんなが聞いたことあるお祭りのテンポ。タタコトチャンチョン、チャチャチョチョチャンチョンっていう。あとの四つは、神田丸、鎌倉、江戸馬鹿、昇殿っていう名前で、激しくなったり静かになったりしますね」
そんな、お囃子ミニ講座を聴きながら、鹿沼市内の郷土資料展示室へ。彫刻屋台の展示スペースもあって、毎年十月に行われる鹿沼の秋祭り(註二)「今宮神社祭の屋台行事」(註三)に繰り出す屋台の中から交代で、彩色が施された屋台と白木彫刻の屋台が1台ずつ展示されている。
江戸時代後期、日光東照宮建造を任されていた宮大工たちが鹿沼にも影響を与えて彫刻屋台が作られてきたとは、聞いていたけれど、彩色豊かな屋台も、緻密な彫刻の白木の屋台も、いやどれも息をのむ素晴らしさ。二百年前のもの!と聞いてさらに驚く。現代の商業の土俵の上で、「デザイン」だとか「意匠」だとか主張し合ってるモノたちが霞む霞む・・・と口をあんぐり開けながら眺めていると、展示館のスタッフの方に、声をかけられる。
「今日はどちらから?」
私は益子からで・・
「自分、地元です」
(泰三さんの野良着ファッションを見ながら)
「何かやってるの?」
「あ、自分、材木町屋台の上で演奏させてもらってる塩山のお囃子会の・・」
「それはそれは!」とテンションがあがるご様子。
2台の屋台に施された彫刻のことなど、とても詳しく教えていただいた。
それから移動して、屋台のまち中央公園・彫刻屋台展示館へ。こちらには、やっぱり祭りの時には現役で街に繰り出す、いずれも江戸時代につくられた久保町・銀座一丁目・銀座二丁目の屋台が展示されていて、それぞれの屋台の横に設けられた階段を登ると、屋台の上部の様子も間近で見ることができる。屋台制作に携わる大工、彫り師、車師(車輪をつくる)、彩色師などの手仕事の様子や、祭りの様子、他の屋台の姿なども、映像や写真で楽しめる。なんだか、鹿沼市の観光案内記事みたいになってきたけれど、泰三さんの塩山保存会が乗る下材木町の黒漆塗彩色彫刻屋台も写真で確認できて、まだまだこれから!の泰三伝の聞き取りを再開。
鹿沼、祭りの継承に熱が入っていますね。
「今宮神社の祭りが、ユネスコの無形文化遺産だっけな、登録されたんで、それで気合はいっちゃったんですよ、鹿沼市も。ああ、そうだそうだ、隊長から聞いたんすけど、隊長が今日から栃木に住み始めますという日。あとは自分の体一つ行くだけっていう時に、東京から電車で向かってて、途中、駅を降りそびれて、あ、降りるの忘れた、やばいやばいっていったん降りたのが、新鹿沼駅。ちょうどその日が、鹿沼の祭りの日だったんですよ。新鹿沼駅って、祭りになると山車が集まって太鼓をたたくところなんです。隊長も、いつもの服装だから祭りの人に間違えられて、いろいろ聞かれちゃったみたいです」
やっぱり、飯田さんは祭りに呼ばれて栃木に移り住んだんだ。
「隊長も、本当にいろいろ詳しくて・・。刺青を入れる彫り師さんが、龍の刺青とかいろいろな刺青をするじゃないですか。その参考資料として、本当に江戸から伝わってるもので参考になるものって鹿沼にしかないから、そういう人たちからしたら鹿沼ってすごい有名なんだよって、教えてもらったことがありますね。鹿沼の彫刻って、すげえんだぞ、っていうのを隊長から教えてもらって。え、そうなんすかって、嬉しかったですね」
周りの評価なんてものより
自分が「自然」でいられるか
今、お囃子の会には何人ぐらい参加してるんですか? ちびっこたちも?
「三十人くらいで、小学生が六人ぐらいですかね」
それゃあ、お囃子保存会の未来も安心ですね。
「ただやはり、自分らがやりだしたときのことを思い出すと、今の子たちは、なんかちょっと熱量が違うかな。自分は、それこそテスト期間だとか受験だろうが全然関係なしに練習は行ってたじゃないですか。だけど今の子は「テスト期間なんで」って休んじゃう。それは普通なのかな、俺が勉強しなかっただけか」
基本、皆勤賞だったんですね。でもそれが特別なことじゃなくて・・「はい。もうそれが当たり前という感覚で。自分がお囃子やりだしたときは、子どもたちが四十人ぐらい集まったんですよ。太鼓やりますって。そのうち、遊びが忙しくなったり、勉強しなきゃっとか、部活が忙しいとかで、やめていっちゃう。今も残っているのが、四人。うち、兄貴が二人いてみんなお囃子やってるんで、篠﨑三兄弟と幼なじみのクマベエの四人」
それで、バンド活動と並行してお囃子・・・。
「あ、サーフィンもやってたんです。二十八、九歳くらいまでは、お金貯めては海外行って。バリ島とか、スリランカ、ハワイも行ったし、グアムも。バリ島が一番行きましたね。元サーファーっす」
へえ! お囃子とバンドとサーフィン・・・。
「まあ、あと、お囃子やってる奴より、世間は、D Jとかラップとか、レゲエとかロックとか、そんなのやってる方を評価するんですよ。だから自分も、それを求めて、一通りやってみたんですよ。ブレイクダンスとか、ね」
「それでまあ、わかってきたのが、まわりがどう思うかとか、そんな評価を抜きにして、自分が一番心地いいというか、自然でいられて、自分でいられるのって、何なんだと思ったときに、やっぱり太鼓たたいていたり笛を吹いてるときなんですよね」
もしかして、江戸から来た男たち♡(註四)も切腹ピストルズの演奏も、その延長上ですか? そんな自然な心地よさの・・・。
「例えば隊長とか純さんとかって『お囃子すげえ!』とか、『本来、俺たちが目指すべきところというのは、そこにあるんだ』って話してくれたことがあるんですけど。だけど、物心ついたときからいやでもお囃子が耳に入ってきていて、やっていた俺からすると、逆なんですよね」
逆? お囃子が切腹ピストルズを目指す?
「小一で始めて、ずーっと塩山囃子小松流をやってたわけじゃないですか。もう四十近いんで、三十年以上ずっと。もうこれ以上、自分は何をやるべきなんだというところまで到達したときに、何をやるかって、自分……、なんていうんでしょう。塩山囃子小松流の会にいるから、これをやっていればいいんだということで、ずっとそれをやっているんですよ。そうすると、自分の場合は、やっぱり飽きるんでしょうね。新たなものを求めたくなるんですよ。これがずっと継承されてるんだから、これをやるべきなんだろうけど、でも、俺はものたりない。これ以上に何かできることはないのかな。もっとやりたいんだというところまで達したときに、俺って、他の平戸流とか他の流派のお囃子を真似しちゃうようになったんですよ。それで小松流と合体させて、ここの流派のここの笛の音色、かっこいいな、これ塩山のここに合うって、勝手に作り上げて、勝手に構成を作り出して、勝手に吹きだしたんです、自分なりに」
探求しちゃったんですね。
「はい。自分なりに組み合わせて、なんて言うんでしょう、音色というか、独自のあやを作り出して、独自の音色を吹きだしたんです。もうもの足りないから」
高度だなあ。
「要は幅を自分で広げだしたんですよね、勝手にね。それをやりだしたら、いや、おまえが今やってることは、それは塩山囃子小松流ではないんだから、おまえは先祖から受け継いだ小松流の塩山囃子を、おまえはやっていればいいんだよ。勝手にそういう新たなものを取り入れたりするのは、この保存会は求めていない。このままの形をこのまま伝承してけばいいんだよ。勝手なことするな・・・」
って言われたの?
「って言う人もいれば、いや、すごいよと認めてくれた人もいて。泰三の笛は泰三にしか吹けない音色だよね。聴いていてなんか周りと違う。すごいよって言ってくれる人もいるんだけど、それは一般のお客さんたち。だけども、保存会の人たちには、いや、これは塩山囃子じゃない。おまえは伝統を受け継いだものをそのままそれをやるべきだって、クソグソに言われました」
クソグソ?笑
それは、何年くらい前のことですか?
「中学生の頃っすね」
はやっ。本当ですか。つい最近の話かと思ったけど、中学生でそんな境地にまでいってたんだ。
「いや、だけど、俺、本当につまんないんだって思い始めていたんで。塩山の小松流はいやっていうほどやってきたし、別にそれだけやってろっていったらそれだけできるけど、ただ、俺の心がもっとその先を求めちゃってるから、それじゃ俺つまんないんだよって言っても、いや、だけども、保存会としてはやっぱりそれをやるべきなんだというのを言われました」
そんな考えでやってたら、
今、新しく生まれるものは、何もねえよ!
十代の頃に抱いた「その先にいってみたい!」っていう探求心って、大人になって切腹ピストルズと一緒にやるようになって、そのあたりが満たされているところってありますか。
「あります、あります。そうなんです!!」
「中学の時は『人前でやるときは、おまえの独自の吹き方は要らない。伝統で受け継いできたものだけをやれ。練習の時はまあいいとして、人前で演奏するような時、お祭りの時は、そういうおまえの独自の笛は求めてない』ってはっきり言われたんです。だから、すごいつまんなくなっちゃって。それから、ちょっとひねくれたんですよね。この先、俺は、自分の好きなように吹けないってことじゃないですか。そんなんじゃやってる意味がねえっていうのも思ったし」
「そもそも後継者育成とか、伝統を受け継いで行かなきゃいけないとか、それだけを考えていればいいんだ、余計なことはやるなって。それもまあ、わかるにはわかるけど・・・。
そういう考えがある一方で、俺はそれに対抗した考えも持っていて。江戸で罪を犯した罪人が塩山に来て、そこから人伝えに受け継がれて、結果としては今も塩山で継承されているんですけど、いろいろなところにそういう伝統だったり文化だったりってあるじゃないですか。では当時の人、お囃子とか盆踊りとか、最初にやりだした人たちは、果たしてこれがいずれ伝統になる、文化になる、これを継承していかなきゃいけない、継承していくべきだって考えた上で始めたのかっていうと、絶対そうじゃないじゃないと思うんです。
結果として今、俺がやってることは、受け継がれてきたことだけど、そんな昔から受け継がれたことばっかりやっていて、これを守っていかなきゃいけない、俺たちに与えられた使命はこれを受け継いでいくことだけだって、そんな考えでやってたら、今、新しく生まれるものは、何もねえよ!って思ったんです。
でも、そんなこと考えてるのは俺だけなんです。だから、みんなの前では何も変わらない従来どおりの小松流をやってたんすけど、もう自分一人で練習するとかというときはもう自分の好きなように吹いてた」
「中学生のときなんで、ちょっとふてくされて、バンドとかもやりだすじゃないですか。だけどやっぱりなんだかんだ、なんか分かんないけど、一番自分がやってて自然体でいられるのって、やっぱりお囃子とか笛吹いてるときだなと思ってずっと続けてきて。そんな思いを抱いてきた者としては、切腹ピストルズに出会ったときは、もう衝撃すぎて・・・」
出会うべくして出会いましたね。
「はい。その瞬間、もうこれがまさに今生まれて、今の時代に生まれて、いずれこれが伝統になる、これは文化になるって俺、感じたんですよ。本当に感動しましたね。自分が思ってたことを、自分が心の中で思っていたことを、目撃してしまったって、俺、涙出ました。だって、小松流でもないし平戸流でもないし、何流でもないじゃないですか。切腹ピストルズ、またの名を江戸一番隊は、今の時代に生まれて、今の人たちも、のちの人たちも、伝統だ文化だって言うようになりますよ。まさに」
まさに。その「今の時代に生まれた」切腹ピストルズと、二〇二二を駆け抜けた。ドバイ、新宿、シカゴ、瀬戸内、橋の下、隅田川にまだまだたくさん! この一年は皆勤賞でしょうね。
「そうすかね。でも本当になんつうんでしょう。別にね、特別頑張ってるわけでもないっすよ。なんかやっぱり好きなことをやってると、人ってこうなるんだなっていう感覚。とりあえず突っ走る。突っ走れる。それってやっぱり楽しい、本当に心から楽しいと思えてるし」
もうね、みんな、
やったほうがいい、
やり続けた方がいい。
ドバイは、泰三さんが入隊してすぐの二月。ドバイ万博の日本館ジャパンデーでの演奏だった。
「ドバイは、締め太鼓で行ったんです。三澤さんと大地さんが行けなくて、俺と志ん奴さんが締め太鼓。だからドバイまでは締太鼓を徹底的にたたき込んで。とはいえ、全然もう、先輩たちには及ばなかったんでうけど、なんとかなったかな。それで、帰ってきたら、2週間くらいで、新宿駅南口で反戦のライブに切腹も呼ばれていて、その時は純さんがいないから、俺が一人で笛。隊長に、泰三いけんだろ、お前なら大丈夫だって言われて、切腹の曲、動画で見ながら耳コピして。初めて合わせたのが本番だから、もう緊張しましたよ」
配信で見てたけど、落ち着いていたような?
「いやー、その時、太一さんとかすーさんとか先輩方が、俺に言ってくれたのが『ミスってもいいから、堂々としてろ!』だったんです。堂々と、思い切りやれ!って。今でも、その言葉は頭をよぎりますよ、何かって時は。ありがたいっす」
そういえば、お囃子保存会の篠﨑三兄弟、お兄さんたちは、切腹ピストルズで活動し始めたことに、何かおっしゃってます?
「なんでしょうね、変わったことやりだすと、周りの人ってだいたい否定から入りますよね。今まで生きてきて、俺、その辺に関してはもう慣れっこだったんすよ。人に否定されることばっかりやってたんで。お囃子も自分で勝手に吹くようになった時や、サーフィンをしに海外にばんばん行く時もそうだったし、やっぱりなんか、周りって絶対に否定する目線から入ってくる」
悲しいかな、そういう人は少なくはないよね。
「はい。だから正直いうと、最初は否定されましたね。お前、何やってんのって。ドバイ行くっていう時も、時期も時期だったし、否定されたし。だけど、もう俺の中でそれは慣れっこだったんで・・・。誰もが考えたり思いつくこと、誰もが認めることだけをやっててもしようがないじゃないですか。逆に、否定されることを俺は逆張りでやるんだっていう、まあそれも反抗の一つだったのかな、なんかそういう体質だったんです」
「だから、兄貴、親、奥さんには、もう最初に言っちゃいました。何を言われても、俺はやるよ。もう分かってるでしょ、俺を。何を言われても俺はやるんだから、それは最初に言っておくよ。俺はドバイに行くよ。それは最初に言っておくって。だけど、今は、変わりましたね。逆に、応援してくれます。理解してもらえているかはわからないけど、頭から否定されることは無くなりました。もうね、みんな、やったほうがいい、やり続けた方がいい。はい」
やり続けてきた人、篠﨑泰三。
数年前に知人が話していた魂のことを思い出した。スピリチュアルな話は苦手なので、記憶の隅に押しやっていた言葉。それをふと思い出した。
オールドソウル。
その知人は、どうも自分の子供がオールドソウルを持って生まれてきたんじゃないかと思うと話していて、そのオールドソウルは何かというと、輪廻転生を繰り返してきている魂のこと。オールドソウルを宿した人は、実年齢より精神が成熟していているのだと言う。久しぶりに検索したら、宇宙人の魂とかシリウスとか、そんな言葉も紐づいてきたので、やっぱりよくわからない。
とはいえ、泰三さんがいう魂は(冒頭に書いた「やっぱり、魂っすよね。魂に記憶されているんだと思うんですよ。お囃子のリズムって」)、D N Aでも遺伝子でもなく、魂としか言いようがないもので、それは確かに輪廻転生を繰り返しているのだろう。魂に刻み、魂に火を灯し、今の時代だからこそ生まれてくる、新しきもの、切腹ピストルズ。そこには現生のオールドソウルたちが引き寄せられていく、磁場があるように思えてきた。磁場に引き寄せられて、聞き書き伝は続く続く・・・(終)
註一 塩山町お囃子保存会(塩山囃子は鹿沼市の無形文化財指定)
鹿沼市ウェブサイト 保存会紹介のページへ
https://www.city.kanuma.tochigi.jp/0299/info-0000001974-1.html
註二 鹿沼秋祭り公式サイト
https://www.buttsuke.com
塩山囃子保存会の演奏もこちらのページから1分17秒の動画で見れます
https://www.buttsuke.com/hayashi/
註三 今宮神社祭の屋台行事
国の重要無形民俗文化財であり、二〇十六(平成二十八)年には、ユネスコ無形文化遺産に登録。ユネスコ登録が紹介された鹿沼市ウェブサイトのページ
https://www.city.kanuma.tochigi.jp/0281/info-0000003337-1.html
註四 江戸から来た男たち♡
二〇二一年の大晦日に突如現れた六人組。
『古今東西皆様方よ』
https://www.youtube.com/watch?v=9H9oEmYWr98
『南無三』
https://www.youtube.com/watch?v=eMNZWDULC3A
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聞き書き・文中写真撮影|簑田理香
取材 二〇二三年一月七日・鹿沼市塩山神社ほか
公開 二〇二三年二月二十五日