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クールジャパン? 
その根っこはどこにある?

鼓徹の伝
平太鼓 埼玉県越谷市

鼓徹(こてつ)

切腹ピストルズ平太鼓隊員 

京都で生まれ幼少期に埼玉県へ。野外のお祭りでもフェスでも、ピシッとした立ち姿で、遠くからでもすぐにわかるのが鼓徹さん。








二〇一一年。東日本大震災が起き、東京電力福島第一発電所の爆発事故の後、都会への送電も止まった。この聞き書き伝の初回で飯田さんは「東京がひいひい騒いでいる」と表現していた。電気がないと何もできない東京の情けない光景を尻目に、初期の切腹ピストルズ(飯田さん・壽ん三さん・太一さん・久坂さん)は、ギターやマイクを電気に頼らない和楽器に持ち替えた。十月には、鉦と三味線、太鼓を鳴らしながら福島原発の手前二十キロの地点まで「放射能バカヤロー!」と叫びながら山道を行脚した。



同じ年、鼓徹さんは被災地に入っていた。



福島県に入ったあと、宮城県へ移動しました。現地からは、電気もなかなか復旧しない状況で火事場泥棒がいるとか、強姦事件が起きているとか、いろんなことが聞こえてくる。地元のヤンキーのあんちゃんたちは、泥にまみれたゴルフクラブとかを持って二十四時間パトロールしていたそうです。そういう話を聞いて怒りに震えました。


ある二人組の若者が、ボランティア作業している様子を写真に撮ってSNSにあげる。でもしばらくすると、その二人組の姿はない。ボランティアって就職活動にも有利になるみたいなので、多分、そのためだけに来ていたんじゃないかとも。そういう目的で被災地に来る奴もいると知って愕然としました。悲惨な状況の中、そういう目的で被災地に来る……。


よくメディアでも言われていましたけど、現地の人たちのパワーやつながり。そこに触れることで、これは周りの方が頑張んなきゃ駄目だよな、現地の人たちに「頑張って下さい」なんていう言葉はもう要らないなと。現地の人たちはもう十分頑張っているから、あとは周りが頑張る。そんな気持ちに変わることができたんで。そこからですね、自分自身も再スタート、というか。



311が起きた年は、鼓徹さん個人も、なかなか大変な年だったと言う。




二十歳からスタジオミュージシャン(ベース)として、C Mなどの仕事もしていた鼓徹さんは、出版社勤務の幼なじみに声をかけられ、雑誌の編集アシスタントを担うようになる。鼓徹さんいわく「今ならすぐパワハラだ!っていわれますけど、まぁ、とにかくけちょんけちょんにやられながら鍛えられた」と。鍛えられながら力をつけ、音楽、出版、広告という、いわゆる“ギョーカイ”で、仲間と会社を立ち上げたりして突っ走り始めていた途上で、311が来た。




自粛ムードの中で仕事が飛び始め、立ち上げた会社を解散したり、不条理な出来事に遭遇したり……。そんな折、以前、関わっていた出版関係の仲間が、被災地支援の取り組みを立ち上げた。現地に入り、ボランティア作業をしながら取材をして書籍を作り、他のニュースではあまり拾われないことを伝え、その収益を被災地に寄付する。鼓徹さんは、そこに参加した。


震災の年から三年後の二〇十四年、鼓徹さんは切腹ピストルズに入隊する。七年のキャリアだが、隊員との繋がりには、とても古くて濃い、必然のような偶然が重なる歴史があった。


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越谷に、パンクスいたー! 

半笑いの裏ピース

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俺はひとつ下の学年になるんですけど、山さん(久坂英樹さん・平太鼓)と純くん(大口ノ純さん・篠笛)は、十六歳の時からの付き合いなんですよ。純くんのインタビューにも出てきたと思うんですけど、当時、彼らは『狂乱』っていうバンドをやっていて、そのギタリストが俺の中学の先輩だったんです。俺自身も高校の友達と、『殺人ドリンク』っていうハードコアのバンドをやっていました。

.

当時、ここ(越谷)の隣の新越谷というところにダイエーというスーパーがあって、通称ダイエースプレーっていう、髪の毛がすげぇ立つ、もう瞬で立つヘアスプレーが売っていて買いに行ったんですね。店内を歩いていたら、前からツンツンヘアに革ジャンを着た奴が歩いてくるんですよ。俺も鋲(びょう)をたくさん打ち込んだ鋲ジャンを着ていて、向こうからパンクスがくる。地元でパンクスなんていねぇもんだと思っていたんで、「うっわ、パンクスいる!」と思って、ずっと目で追いかけたんですよ。それが山さんだった。

.

すれ違いざまに山さんが指を二本立てて、手の甲をこっちに向けた、セックスピストルズのシド・ヴィシャスがやるポーズをやってきたんです。山さん、ちょっと半笑いでした。なんか俺、それだけでうれしくて。当時は携帯なんてありませんし、速攻で公衆電話からバンドのメンバーに電話したんです。「パンクスが越谷にいたー!」「マジで!?」とか盛り上がっちゃって。その電話にお金を使っちゃったから、ダイエースプレーを買うお金が足りなくなっちゃって、買えずに帰ったんですけどね。



のちに浦和の『ナルシス』っていうライブハウスで、狂乱と対バンするようになったんです。読んで字のごとく、今はビジュアル系の聖地のような感じになっているらしいんですけど、当時、天井はボコボコ穴が開いてるし、パンクスの巣窟みたいなライブハウスだったんですよ。



昔、越谷の駅前には噴水があったんです。そこにすごいパンクスがたまっていて。それが狂乱だったり、その界隈のバンドだったりで。俺は狂乱のギターが中学の先輩だし、恐縮しちゃって、「そんなところに俺は行けん!」という感じだったんですけど、うちのメンバーが行くようになって狂乱と仲良くなって……。狂乱って、ドラムのメンバーが固定していなかったのか、俺がヘルプのドラムとして、三回ぐらい一緒にやらせてもらったこともあって、そんなのが始まりですね。


殺人ドリンクは二十歳すぎに解散して、その後は『QUILL』というファストコアのバンドをやってました。昔ってジャンルの畑が違うと、あまり対バンする機会がなかったんです。ハードコアはハードコア、パンクはパンクみたいな感じで、出演するライブハウスもお互い変わっていっちゃって。だから狂乱とは対バンする機会もなく、別れていってしまいましたね。


それから数年したある日、たまたまBSの『BAZOOKA!!!』という番組に『切腹ピストルズ』が出ているのを見たんです(註一)。バンド界隈なんて小さなコミュニティなんで、名前くらいはもちろん知っていたんですけど、その時は四人で、まだエレキのバンドでした。それで、「どこかで見たことある奴がベース弾いているな、山さんじゃね? 今は切腹でやってるんだ、へえ〜」っていう感じで。


.

それからまた数年後の夏。仕事帰り電車に乗ると、どっかで見たことがある奴が目の前に座っているんですよ。絶対にこれ、山さんだよな。でも、それこそ最後に話したのは二十代だったから、もう二十年近く時間が流れているわけじゃないですか。人違いで、「おまえ誰だよ」ってなっても電車の中だし気まずいなぁと思って。




その時、久坂さん(山さん)は野良着だったんですか?


はい。でもその時はまだ、切腹が野良着を着るようになったというのは、俺は知らないわけで。いやでも、そっくりだなと。俺は新越谷で電車を下りるんですけど、もし山さんだったら、越谷で降りるはずだって勝手に思ったんです。その時は、どこに住んでいるかも分からないのに、勝手に越谷で降りたら山さんに違いないって思って。俺はあえてひと駅乗り過ごして、越谷まで行ったら、そこで降りたんです。間違いない、山さんだ!と思い、俺も電車を降りて、「山さんだよね?」って話しかけたら、向こうはキョトンです。俺は昔、山さんからテッくんって呼ばれていたので、「殺人ドリンクだった、テッくんだよ」「おおおっ!」と覚えていてくれて、「どうしたの? 超久々じゃん!」みたいになって、記念に写メ撮りました。


それからまたある時、殺人ドリンクでギターをやっていたマルっていう友達から、「今やってるバンドのライブがあるから見にこない?」って誘われたんです。


そのバンドは、純くんや、むうに(志むらさん・平太鼓)も一緒にやっていたバンドで。それで、純くんたちにも久々に会えるなと思ってライブを見に行って。ファンクみたいな感じのバンドをやってんだ、とか思いながら聴いてました。それで、ライブ会場が東京の外れなので電車の時間を気にしてたら、純くんが「帰りの方向が一緒なんだから、乗せてってあげるよ」と言ってくれて。


帰りの道中、いろいろ話してたら純くんも切腹に入隊していると。「あ、そうなの!? 何のパートやってるの?」って聞いたら、返って来た答えが「笛」。俺の中でエレキのバンドのまま止まっていたので、その体制に笛を入れたんだぐらいに思っていたんですけどね。


で、純くんが「てっちゃんも切腹入ればいいじゃん」っていってくれて。その時は「ああ、そうか。あはははは」みたいな、そんな世間話みたいな感じで会話は終わりました。


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客席の風景が、

ガラリと変わった

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電車で山さんに会った時も、ライブで純くんに会った時も、連絡先の交換とかしないで、「またねー!」みたいな感じで別れたんですよ。


そしたらある日、突然、山さんから連絡があったんですよ。純くんがマルに連絡先を聞いて、純くんが山さんに教えてくれたと思うんですけど。それで当時、山さんが住んでいた綾瀬で飲もうということになって。これは相手のことを知らないと失礼だと思って、YouTubeで切腹の動画を片っ端から見ました。


山さんは山さんで、俺が切腹に入隊してくれたらいいなと思ってくれていたみたいで、ちょっと面談みたいな感じでしたね。日本の伝統や芸能、文化や考え方。俺も太鼓のこととか、いろいろと聞いて。そういう話の流れから、入隊することにしたんですよね。それから注文した太鼓が届くまでの間、イメトレしたいと思って、なんかねぇかとリュックサックに毛布を入れて、体の前に担いでイメトレ稽古しました。


切腹の稽古は見に行っていたんで、合間の時間に叩かせてもらいました。撥の振り方、腰の落とし方、山さんには個人稽古もしていただき。四十歳過ぎてから新しいことを始めるって、なかなかないじゃないですか。これもありがたいことだし、面白いなと。




まぁでも、とにかく全ての勝手が違いすぎて……。エレキのバンドだったら、目の前にモニターがあって、アンプからの音があって、音の返しがあって、全体の音を聞きながらライブをやるけど、太鼓は叩くと諸に音が耳に入ってくるし、且つ、「鉦を聞け!」って言われても分からないんですよ。


ベースとか弦楽器って、リフとかメロディじゃないですか。だけど太鼓って、ドンドンドンドンドンドンドッドッみたいな感じだから最初のころは覚えられなかったんで、YouTubeで動画を見て、リズム譜を起こして覚えるしかなくて。




れで覚えられるというのもすごいですね。皆さん、ぴったり合っているじゃないですか。何回か繰り返して、ぴたりと全員の息があって演奏が終わったり。どうやって分かるんだろうと。




曲はAメロとかBメロ、それを四回繰り返してとか構成はあるんですけど、本当に大将の鉦が頼りなんですよ。多分、大将も公演の状況によって、普段は四回しか繰り返さないところを倍にしたりとかを考えているようで、いつもの感じでやっていると「あれ回数が違う!」みたいなことになる。なので、とにかく鉦を聞けと。あ、俺は隊長のことを大将って呼ぶんですよ。その方がしっくりきて。




大将! なるほど〜。しっくりきますね。ところで、今もたまにはベースを弾いたりしています?


そうですね。昨年だったかな、頼まれてちょっと演奏しました。模範演奏みたいな、要はオケですね。久々にヘッドホンでエレキを聴いたら「耳痛っ!」みたいな。普通のポップロックみたいな楽曲で、今までさんざんそういうのも録ってきたくせに、「耳痛っ!」ってなりましたね。エレキの音が、すごく「ツーン!」とする感じで。この数年間、エレキに慣れてなかったというのもあるかもしれないですけど、耳がびっくりしてました(笑)。




(出版社勤務という)仕事柄、いろいろなバンドの音源を聴きますけど、切腹をやってるからといって海外の音楽を聴いちゃ駄目とか、そんなの別にないし、今でも好きなバンドは好きだし、野良着を着ていてもピザだって食うし。




変わらないことも、変わることもありますよね。殺人ドリンクやQUILL時代と比べて、切腹ピストルズの楽曲やライブでの感触とか、違いって、どのあたりにあるのでしょう?


ハードコアをやっていたときなんて平和からは程遠いですよね。ゴォーー!みたいな爆音で、曲もスタスタスタスタッみたな感じで早いですから。曲とか場の雰囲気は一八〇度違います。

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切腹の場合、特にど田舎にしかた祭りを始め、野外イベントやお祭りとかに呼んでいただいた時。俺が今までやってきたバンドのライブには絶対に見に来ないだろうなと思う方々、極端に言えばお子さんとか、ご年配の方々とか、普通のお父さん、お母さんたちが来てくれて、こんなに笑顔になるんだみたいな。


昔は客席を見れば野郎がこぶしを突き上げて、「ウォー!」みたいな光景が、今は、いろんな年代の人たちが入り混じって笑っていたりする光景に変わったことに、最初は戸惑いましたね。どういうふうに自分は接すればいいのか、逆にこっちが照れちゃったりして。でも回数を重ね、隊員の考え方を聞いたり、お客さんの表情を見ていると「いいじゃんいいじゃん、俺も楽しんじゃおう」って感じになりました。




客席の光景が変わって、鼓徹さんの考え方、感じ方も変わったところがあるんですね。



「なんのためにライブやってんだろう?」という疑問もなくなりましたね。三十過ぎまでバンドをやっていた時、周りのバンドも含めて、なんのためにライブやっているんだろう?ってすごく思ったんです。ライブハウスに行ってずっと酒飲んで、ベロベロになってライブやって、打ち上げして。それが楽しくてやってるのかな?とか、しみったれたくねぇなって気持ちもあったんですよね。


そんな時に切腹と出会って、これはあくまでも俺の解釈ですけど、もし江戸時代に不良と呼ばれる輩のあんちゃんたちがバンドをやるとしたら、多分、当時は太鼓ぐらいしかないじゃないですか。バンドみたいなものがあったかどうかも分からないですけど、大将みたいな人がいて「おめぇらよ。今度、祭りがあるんだけどよ、バンド組まねえか?」「おぉ~! パーッとやろうぜ!」「いいっすね!」みたいな感じで、好き勝手に太鼓を鳴らして「飲めや食えやで騒ごうぜ!」ってことをやってたんじゃないかなって、勝手に想像したんですよね。


なんか、それで納得しちゃったんですよ。じゃあ俺、ベースを太鼓に持ち換えてもいいかなって。そんな感じだったんですけど、公演をやればみんな笑顔で騒いでいるし、こっちも楽しい。「なんのためにライブやっているんだろう?」って考える事もなくなった。そこはすごく変わりましたね。




切腹の場合は、ライブ、イコール、生きていることの祭りみたいなものですかね。


お祭りの話では、これ、俺がまだ入隊したてのころだったかな。太一さん(天誅山太一さん・平太鼓)が、地方のお祭りに切腹が呼ばれた時の話をしてくれたんですよ。昼に演奏していたら、おばあちゃんが話しかけてくれたので、太一さんが「どうして、今日やっている事を知ったんですか?」と聞いたら、「どこかから太鼓の音が聞こえたから、ちょっと来ちゃった」って。「じゃあ、今日は夜もやるので来て下さいよ」って言ったら、そのおばあちゃん、きれいに浴衣を着て口紅さして、ちょっとお化粧なんかもして来てくれたみたいで。


おばあちゃんはそこで生まれ育った方らしいんですけど、もしかしたら若い頃に今のおじいちゃんと出会って、浴衣を着て、お祭りデートをするために、ちょっとかしこまった化粧をしたのを思い出してくれたのかね……なんて話をしました。確かにそうかもなと思いましたね。そういう世代の人たちが若い頃って、お祭りを頻繁にやっていた時代ですよね。俺も子供の頃、途中から演奏じゃなく、カセットテープで曲を流すようになったり変わっていきましたけど、お祭りはやってましたね。




祭りが、みんな集まれる社交場でもあったわけですしね。



俺もよく自治会のお祭りとか行ってましたし、楽しかった記憶はありますね。お盆に祖母の家に行けば、神社でお祭りをやってたし。



京都から関東へ引っ越していらっしゃったのが、何歳ぐらいのときですか?



幼稚園に入るタイミングです。母親の実家がこっちだったんで。だから、こっちに家を建てている間、京都にいた感じなので、ほとんど京都の記憶はないですね。


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宮大工。呉服店。

自分の根っこと、新しい出会い

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父親が京都で、母親はこっちの生まれなんです。父親は呉服屋に勤めていたんですけど、二人の祖父は宮大工だったんですよ。だから、子供の頃から日本文化というものに対して、そんなに遠いものとは感じずに生きてきて。お正月、誕生日、七夕、お祭り、なにかにつけて着物とか浴衣を着せられて過ごしていたのが普通だったし。




宮大工の祖父たちからは、あまり話を聞く機会はなく、片手で数えられるくらいなんですけど、「へぇ~、面白い」と覚えていることがあります。宮大工の仕事って、釘を使わないじゃないですか。組木は世界最強って言われているけど、今は耐震法とかなんとかで、金具を付けなければいけないとかあるらしいんですよね。




小学生の頃だったか、父親の祖父から地鎮祭の話を聞いたことがあって。お供えものを置く三宝には山のもの、海のもの、野のもの、あとはお酒とかお米とかを神様の食事としてお供えをする。三宝と言うのは、三つの宝を土地の神様にお供えするもので、祖父たち大工も地鎮祭を終えてから一週間は、常に新品の三枚こはぜ(註二)の白足袋を必ず履く、と。


一日履いたら捨てて、二日目にはまた新しいまっさらな白足袋を履く。それって多分、家に対する感謝とか、敬意を込めていたと思うんですよ。大人になってから思い出して検索しても出てこないので、祖父や近しい人たちの独特な習慣だったかもしれないです。「へえー、そんなの足袋に金かかってしようがないじゃん」ぐらいなことを当時は言っていたと思うんですけど、大人になって考えると、そういう職人さんの心意気とかが、すごくカッコイイなって思ったりするんですよね。


他にも、京都で有名な西陣織。織るのに「爪掻(つめがき)」という技法があるんですけど、爪の先を鋸(のこ)の歯のようにギザギザにして、その爪で模様になる糸を一本一本、掻くように手繰り寄せて織るそうで。ホント、昔から日本の職人さんって、面白いことするなと思います。ひとつひとつに意味があるし、そういうポイントポイントが俺にはツボで、ハマっていったんです。


母親の祖父は、主に春日部市内の神社とかを建てていたんですけど、そんなに宮大工の仕事があるわけじゃないから、普通の建築もやったり、農業もやったりしてたらしいです。母親を通して、祖父の大工としての美意識話を聞いたんですが、印象深かったのが窓の話ですね。昔の日本家屋って、窓が異常にデカいじゃないですか。あれっていうのは、単なる風通しや日当たりのためのものじゃなくて、額縁を意識していると。例えば、庭にカエデの木があったら、秋に紅葉するのが見えるようにデカい窓を作る。その窓辺には、漆が塗られたピッカピカの座卓を置く。その座卓には見事にカエデが反射して映る。窓を開ければきれいな紅葉が見える。そういう美意識を、すごく大切にしていたそうです。




そういうふうに、お母さんが、おじいちゃんから聞いた話を伝えてくださるって、いいですよね。


そうですね。のちに母親も呉服屋に勤めることになるんですけど、着物の用語とか、色の合わせ方とか、そういう話はよく聞いていたので、さっきもいいましたけど、そんなに特別なものという感じはなかったですね。




切腹ピストルズのメンバーそれぞれも、そういう昔からの手仕事や大衆文化への関心ってあって、それぞれツボが違うんでしょうけど、根っこのところで共通しているところもあるんでしょうね。




祖父たちは、自分の仕事に誇りや洒落っ気をすごく注いでいたんでしょうね。その影響なのか、なんでそんなこと覚えているんだろうと思うことが、記憶の奥にずっとあったんですよ。そういう自分の根っこみたいなところを、たまたまほじくり返している時期に切腹と出会ったわけなんですけど。




鼓徹さんの美意識も、家族との環境の中からとか、切腹メンバーとの出会いとか、そういうなかで育ってきたところがあるんでしょうか。




美意識って言うと、なんかナルシストみたいなイメージもあるじゃないですか(笑)。だけどそういうのも含めて、見られ方とか、何かに対する姿勢だったりだとか、それこそ職人は縦社会。俺も中学時代から「先輩は絶対」みたいな、めちゃめちゃ縦社会で。礼儀とか挨拶とか、父親もすっげえ厳しかったし。でも、そういうのって多分、祖父からの職人ならではの教えだったんだろうな、みたいな感じはするんですよね。


また建築の話を例にじゃないですけど、昔の大工さんの天井の張り方って、細かいところに遊びや工夫がなされているし、今はもうつくられなくなったけど、土壁とかも。日本家屋は、湿気が多い日本の気候に合わせて土壁だったじゃないですか。そういうことからも、大将とか隊員とも話したりするんですけど、やっぱりこういう日本文化って、明治以降、日本人が慌ててここまできちゃってみたいな流れの中で、忘れ去られちゃっていますよね。


俺は学生時代、歴史の授業に全然興味がなかったんですけど、技術とか伝統とかというのがだんだん廃れちゃって、そのくせクールジャパンとかって言うじゃないですか。「なんなの、それ?」みたいな疑問は持ちますね。



今、西陣織を継承しているお嬢さんがいらっしゃるようで、お師匠さんにばっちりついて仕事を覚えましたといっても、もらえる給料が十二〜三万とか、そういうレベルらしいんですよ。それでは生活ができないから、西陣織のトートバッグとかを作って、セレクトショップとかに卸して生活しているようですけど、それっておかしな話だと思うんですよね。国も日本の文化でインバウンドとかいうんだったら、技術を継承している人を守るのも国の仕事のひとつじゃねぇすかねぇ〜、と思ったりします。


おっしゃる通りですねえ。私が住んでいり益子町でも、お隣の笠間市と一緒に焼き物の町ということで、日本遺産の認定を受けて、観光客誘致の取組みとか、代理店なんかが入って進み始めているんですけど、日本遺産の構成文化財の指定を受けた民間の歴史ある窯元や民間の美術館は、日々の経営や建物の維持だけでもとても苦労されている。なんのための制度なんだろう?って、クールジャパンのプロモーション同様にモヤモヤします。他にも、文化とか祭りとかで、おかしな話だなあと感じることってありますか?




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うるさかったら、あっちへ行ってろ!

楽しそうだったら、じゃあ来い来い!

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お祭りの話で言うと、友達が、亡くなったお父さんの後を継いで理事長を務める幼稚園の夕涼み会や運動会の設営を毎年手伝っているんですよ。生前、そのお父さんは太鼓を演っていた人で、埼玉の和太鼓の協会でも要職に就いていた人みたいで。夕涼み会というのは、要は幼稚園でやるお祭りですよね。金魚すくいがあったり、輪投げがあったり、園児が自分たちで作った、お神輿を担いだりする。


そこで年配の方と中学生の五~六人くらいの編成で、お父さんがやっていた太鼓の連の演奏が毎回あるんですが、園児やお父さん、お母さんは椅子に座って見るわけです。ある年、演奏が始まると二人の園児が立ち上がって踊りだしたんですよ。「おおっ!」と思って、ちょっとニヤニヤしながら見ていたら、速攻で先生が近寄って、多分、注意をされて座らせられたんですよね。


それを見た時、俺の中でスイッチが入っちゃった。だけど、俺はそこの教員でも職員でもないので、夕涼み会が終わった後、その先生のところに行って「あれ、やっぱり駄目なんですかね?」みたいな感じで質問をしたんですね。そうしたら、その先生がおっしゃったのは、「せっかくこの日のために、連の皆さんが稽古をしてきて下さったから、しっかりと聞いてほしかったんです」と返答があって。俺は別にそこで「いやさ~」と、説教をたれるつもりは全然なく、「多分、あの子たちは太鼓の音を聞いて自然と体が動いちゃったんですよね。そういうのも楽しませてあげてほしいなって、ちょっと思ったので聞いてみました」みたいなことだけ伝えて、話は終わっちゃったんですけど。


町の小さな幼稚園の小さな出来事ですけど、そういうところから太鼓は静かに座って聞くルールというのが、記憶として植え付けられていくんだろうなと。本来は自由なはずだと思うんですけどね。


例えばバイオリニストの高嶋ちさ子さんは、クラシックだからって小さい子供を入場禁止にするんじゃなく、コンサートをする時に赤ちゃんや小さい子供も来て下さいと、スペースを用意したり、子供が泣こうが全然いいよという感じでコンサートを開催したみたいだし。作曲家の青島広志さんも、やっぱりクラシックは「『シーン』と静かに聴くだけじゃなく、もっと自由なものなんです」と言っていましたね。


歌舞伎で言ったら生前の(中村)勘三郎さんは、「歌舞伎は絶対に庶民のものなんだ!」とメディアで言い続けていましたよね。「そんなに敷居が高いものじゃないんだよ、庶民のものなんだから気楽に楽しんでいいんだよ」と。それから、芝居中に「成田屋!」とか「中村屋!」とか屋号で掛け声を飛ばすのも、「決まりなんかないんだから、初めて見に来た人も言っちゃっていいんだよ」と話していた理由が、切腹であちこち行くようになって、なんか分かった気がするんです。


こうしなきゃいけないんだという思い込みが生まれるのって、きっと小さい時だと思うんですよね。俺の小学校の時の担任が、指揮者として有名な人だったんです。クラスで音楽が好きな生徒に声をかけて、オーケストラの演奏会に連れて行ってくれて。今でも覚えているのが、演奏が始まる前、司会者からの注意事項は「物音を立てないでください。静かにしてください」。そういうのを未だに覚えているってことは、やっぱり小さい時の経験に縛られちゃってうるんですよね。オーケストラは静かに見なきゃいけないんだって。


ど田舎にしかた祭りとか、小さい子たちも自由に本能のおもむくままに楽しめる、そういう機会を増やしたいですよね。


なかなか経験のないことだから、子供たちがキョトンとしちゃうのも分かるんですよ。怖いとか、耳を押さえて「わー!」とか言ってる子供も全然いいんですよ。だけど、イカツイおじちゃんたちが太鼓をドンドンやって、それを騒ぎながら見ていいんだという状況が、普通のことになってほしいという気持ちはありますね。


俺は、ど田舎にしかた祭りとかでやる時の心構えとして、子供たちのそういう固定概念を取り払いたいというか、和楽器は座って見なきゃいけないというものじゃない。うるさかったら「あっちへ行ってろ!」だし、楽しそうだったら「じゃあ、来い来い!」だし。変に作られた型みたいなものは、実は関係ねぇからということなんですよね。(終)


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註一 「BAZOOKA!!! 」

BSスカパー!で放映されていたバラエティ番組。二〇一一年十一月十四日放送の回のライブコーナーに、四人編成の切腹ピストルズが出演。番組アーカイブによると演奏曲は「南京ブギ」「松竹梅島」の二曲。聴きたいですね〜。

https://www.bs-sptv.com/bazooka/archive/20111114/




註二 三枚こはぜ

「こはぜ」は、足袋の足首部分についている薄い爪のような形の留め具。対になった側の掛け糸にひっかけて、足に足袋を固定する。ちょいと手持ちの足袋を見てみましたら、昔々、成人の年に母が用意してくれた足袋には、こはぜは五枚。鼓徹さんのお祖父さまの「三枚」は、職人の粋なこだわりだったのでしょうね。




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聞き書き・バナー写真撮影|簑田理香
記事中写真|鼓徹さん提供
取材・二〇二〇年十月二十七日
埼玉県越谷市某純喫茶にて
公開・二〇二一年十月一日

鼓徹(こてつ)
切腹ピストルズ平太鼓隊員 
京都で生まれ幼少期に埼玉県へ。野外のお祭りでもフェスでも、ピシッとした立ち姿で、遠くからでもすぐにわかるのが鼓徹さん。

二〇一一年。東日本大震災が起き、東京電力福島第一発電所の爆発事故の後、都会への送電も止まった。この聞き書き伝の初回で飯田さんは「東京がひいひい騒いでいる」と表現していた。電気がないと何もできない東京の情けない光景を尻目に、初期の切腹ピストルズ(飯田さん・壽ん三さん・太一さん・久坂さん)は、ギターやマイクを電気に頼らない和楽器に持ち替えた。十月には、鉦と三味線、太鼓を鳴らしながら福島原発の手前二十キロの地点まで「放射能バカヤロー!」と叫びながら山道を行脚した。

同じ年、鼓徹さんは被災地に入っていた。

福島県に入ったあと、宮城県へ移動しました。現地からは、電気もなかなか復旧しない状況で火事場泥棒がいるとか、強姦事件が起きているとか、いろんなことが聞こえてくる。地元のヤンキーのあんちゃんたちは、泥にまみれたゴルフクラブとかを持って二十四時間パトロールしていたそうです。そういう話を聞いて怒りに震えました。

ある二人組の若者が、ボランティア作業している様子を写真に撮ってSNSにあげる。でもしばらくすると、その二人組の姿はない。ボランティアって就職活動にも有利になるみたいなので、多分、そのためだけに来ていたんじゃないかとも。そういう目的で被災地に来る奴もいると知って愕然としました。悲惨な状況の中、そういう目的で被災地に来る……。

よくメディアでも言われていましたけど、現地の人たちのパワーやつながり。そこに触れることで、これは周りの方が頑張んなきゃ駄目だよな、現地の人たちに「頑張って下さい」なんていう言葉はもう要らないなと。現地の人たちはもう十分頑張っているから、あとは周りが頑張る。そんな気持ちに変わることができたんで。そこからですね、自分自身も再スタート、というか。

311が起きた年は、鼓徹さん個人も、なかなか大変な年だったと言う。

二十歳からスタジオミュージシャン(ベース)として、C Mなどの仕事もしていた鼓徹さんは、出版社勤務の幼なじみに声をかけられ、雑誌の編集アシスタントを担うようになる。鼓徹さんいわく「今ならすぐパワハラだ!っていわれますけど、まぁ、とにかくけちょんけちょんにやられながら鍛えられた」と。鍛えられながら力をつけ、音楽、出版、広告という、いわゆる“ギョーカイ”で、仲間と会社を立ち上げたりして突っ走り始めていた途上で、311が来た。

自粛ムードの中で仕事が飛び始め、立ち上げた会社を解散したり、不条理な出来事に遭遇したり……。そんな折、以前、関わっていた出版関係の仲間が、被災地支援の取り組みを立ち上げた。現地に入り、ボランティア作業をしながら取材をして書籍を作り、他のニュースではあまり拾われないことを伝え、その収益を被災地に寄付する。鼓徹さんは、そこに参加した。

震災の年から三年後の二〇十四年、鼓徹さんは切腹ピストルズに入隊する。七年のキャリアだが、隊員との繋がりには、とても古くて濃い、必然のような偶然が重なる歴史があった。

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越谷に、パンクスいたー! 
半笑いの裏ピース
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俺はひとつ下の学年になるんですけど、山さん(久坂英樹さん・平太鼓)と純くん(大口ノ純さん・篠笛)は、十六歳の時からの付き合いなんですよ。純くんのインタビューにも出てきたと思うんですけど、当時、彼らは『狂乱』っていうバンドをやっていて、そのギタリストが俺の中学の先輩だったんです。俺自身も高校の友達と、『殺人ドリンク』っていうハードコアのバンドをやっていました。
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当時、ここ(越谷)の隣の新越谷というところにダイエーというスーパーがあって、通称ダイエースプレーっていう、髪の毛がすげぇ立つ、もう瞬で立つヘアスプレーが売っていて買いに行ったんですね。店内を歩いていたら、前からツンツンヘアに革ジャンを着た奴が歩いてくるんですよ。俺も鋲(びょう)をたくさん打ち込んだ鋲ジャンを着ていて、向こうからパンクスがくる。地元でパンクスなんていねぇもんだと思っていたんで、「うっわ、パンクスいる!」と思って、ずっと目で追いかけたんですよ。それが山さんだった。
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すれ違いざまに山さんが指を二本立てて、手の甲をこっちに向けた、セックスピストルズのシド・ヴィシャスがやるポーズをやってきたんです。山さん、ちょっと半笑いでした。なんか俺、それだけでうれしくて。当時は携帯なんてありませんし、速攻で公衆電話からバンドのメンバーに電話したんです。「パンクスが越谷にいたー!」「マジで!?」とか盛り上がっちゃって。その電話にお金を使っちゃったから、ダイエースプレーを買うお金が足りなくなっちゃって、買えずに帰ったんですけどね。

のちに浦和の『ナルシス』っていうライブハウスで、狂乱と対バンするようになったんです。読んで字のごとく、今はビジュアル系の聖地のような感じになっているらしいんですけど、当時、天井はボコボコ穴が開いてるし、パンクスの巣窟みたいなライブハウスだったんですよ。

昔、越谷の駅前には噴水があったんです。そこにすごいパンクスがたまっていて。それが狂乱だったり、その界隈のバンドだったりで。俺は狂乱のギターが中学の先輩だし、恐縮しちゃって、「そんなところに俺は行けん!」という感じだったんですけど、うちのメンバーが行くようになって狂乱と仲良くなって……。狂乱って、ドラムのメンバーが固定していなかったのか、俺がヘルプのドラムとして、三回ぐらい一緒にやらせてもらったこともあって、そんなのが始まりですね。

殺人ドリンクは二十歳すぎに解散して、その後は『QUILL』というファストコアのバンドをやってました。昔ってジャンルの畑が違うと、あまり対バンする機会がなかったんです。ハードコアはハードコア、パンクはパンクみたいな感じで、出演するライブハウスもお互い変わっていっちゃって。だから狂乱とは対バンする機会もなく、別れていってしまいましたね。

それから数年したある日、たまたまBSの『BAZOOKA!!!』という番組に『切腹ピストルズ』が出ているのを見たんです(註一)。バンド界隈なんて小さなコミュニティなんで、名前くらいはもちろん知っていたんですけど、その時は四人で、まだエレキのバンドでした。それで、「どこかで見たことある奴がベース弾いているな、山さんじゃね? 今は切腹でやってるんだ、へえ〜」っていう感じで。

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それからまた数年後の夏。仕事帰り電車に乗ると、どっかで見たことがある奴が目の前に座っているんですよ。絶対にこれ、山さんだよな。でも、それこそ最後に話したのは二十代だったから、もう二十年近く時間が流れているわけじゃないですか。人違いで、「おまえ誰だよ」ってなっても電車の中だし気まずいなぁと思って。

その時、久坂さん(山さん)は野良着だったんですか?

はい。でもその時はまだ、切腹が野良着を着るようになったというのは、俺は知らないわけで。いやでも、そっくりだなと。俺は新越谷で電車を下りるんですけど、もし山さんだったら、越谷で降りるはずだって勝手に思ったんです。その時は、どこに住んでいるかも分からないのに、勝手に越谷で降りたら山さんに違いないって思って。俺はあえてひと駅乗り過ごして、越谷まで行ったら、そこで降りたんです。間違いない、山さんだ!と思い、俺も電車を降りて、「山さんだよね?」って話しかけたら、向こうはキョトンです。俺は昔、山さんからテッくんって呼ばれていたので、「殺人ドリンクだった、テッくんだよ」「おおおっ!」と覚えていてくれて、「どうしたの? 超久々じゃん!」みたいになって、記念に写メ撮りました。

それからまたある時、殺人ドリンクでギターをやっていたマルっていう友達から、「今やってるバンドのライブがあるから見にこない?」って誘われたんです。

そのバンドは、純くんや、むうに(志むらさん・平太鼓)も一緒にやっていたバンドで。それで、純くんたちにも久々に会えるなと思ってライブを見に行って。ファンクみたいな感じのバンドをやってんだ、とか思いながら聴いてました。それで、ライブ会場が東京の外れなので電車の時間を気にしてたら、純くんが「帰りの方向が一緒なんだから、乗せてってあげるよ」と言ってくれて。

帰りの道中、いろいろ話してたら純くんも切腹に入隊していると。「あ、そうなの!? 何のパートやってるの?」って聞いたら、返って来た答えが「笛」。俺の中でエレキのバンドのまま止まっていたので、その体制に笛を入れたんだぐらいに思っていたんですけどね。

で、純くんが「てっちゃんも切腹入ればいいじゃん」っていってくれて。その時は「ああ、そうか。あはははは」みたいな、そんな世間話みたいな感じで会話は終わりました。

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客席の風景が、
ガラリと変わった
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電車で山さんに会った時も、ライブで純くんに会った時も、連絡先の交換とかしないで、「またねー!」みたいな感じで別れたんですよ。

そしたらある日、突然、山さんから連絡があったんですよ。純くんがマルに連絡先を聞いて、純くんが山さんに教えてくれたと思うんですけど。それで当時、山さんが住んでいた綾瀬で飲もうということになって。これは相手のことを知らないと失礼だと思って、YouTubeで切腹の動画を片っ端から見ました。

山さんは山さんで、俺が切腹に入隊してくれたらいいなと思ってくれていたみたいで、ちょっと面談みたいな感じでしたね。日本の伝統や芸能、文化や考え方。俺も太鼓のこととか、いろいろと聞いて。そういう話の流れから、入隊することにしたんですよね。それから注文した太鼓が届くまでの間、イメトレしたいと思って、なんかねぇかとリュックサックに毛布を入れて、体の前に担いでイメトレ稽古しました。

切腹の稽古は見に行っていたんで、合間の時間に叩かせてもらいました。撥の振り方、腰の落とし方、山さんには個人稽古もしていただき。四十歳過ぎてから新しいことを始めるって、なかなかないじゃないですか。これもありがたいことだし、面白いなと。

まぁでも、とにかく全ての勝手が違いすぎて……。エレキのバンドだったら、目の前にモニターがあって、アンプからの音があって、音の返しがあって、全体の音を聞きながらライブをやるけど、太鼓は叩くと諸に音が耳に入ってくるし、且つ、「鉦を聞け!」って言われても分からないんですよ。

ベースとか弦楽器って、リフとかメロディじゃないですか。だけど太鼓って、ドンドンドンドンドンドンドッドッみたいな感じだから最初のころは覚えられなかったんで、YouTubeで動画を見て、リズム譜を起こして覚えるしかなくて。

れで覚えられるというのもすごいですね。皆さん、ぴったり合っているじゃないですか。何回か繰り返して、ぴたりと全員の息があって演奏が終わったり。どうやって分かるんだろうと。

曲はAメロとかBメロ、それを四回繰り返してとか構成はあるんですけど、本当に大将の鉦が頼りなんですよ。多分、大将も公演の状況によって、普段は四回しか繰り返さないところを倍にしたりとかを考えているようで、いつもの感じでやっていると「あれ回数が違う!」みたいなことになる。なので、とにかく鉦を聞けと。あ、俺は隊長のことを大将って呼ぶんですよ。その方がしっくりきて。

大将! なるほど〜。しっくりきますね。ところで、今もたまにはベースを弾いたりしています?

そうですね。昨年だったかな、頼まれてちょっと演奏しました。模範演奏みたいな、要はオケですね。久々にヘッドホンでエレキを聴いたら「耳痛っ!」みたいな。普通のポップロックみたいな楽曲で、今までさんざんそういうのも録ってきたくせに、「耳痛っ!」ってなりましたね。エレキの音が、すごく「ツーン!」とする感じで。この数年間、エレキに慣れてなかったというのもあるかもしれないですけど、耳がびっくりしてました(笑)。

(出版社勤務という)仕事柄、いろいろなバンドの音源を聴きますけど、切腹をやってるからといって海外の音楽を聴いちゃ駄目とか、そんなの別にないし、今でも好きなバンドは好きだし、野良着を着ていてもピザだって食うし。

変わらないことも、変わることもありますよね。殺人ドリンクやQUILL時代と比べて、切腹ピストルズの楽曲やライブでの感触とか、違いって、どのあたりにあるのでしょう?

ハードコアをやっていたときなんて平和からは程遠いですよね。ゴォーー!みたいな爆音で、曲もスタスタスタスタッみたな感じで早いですから。曲とか場の雰囲気は一八〇度違います。
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切腹の場合、特にど田舎にしかた祭りを始め、野外イベントやお祭りとかに呼んでいただいた時。俺が今までやってきたバンドのライブには絶対に見に来ないだろうなと思う方々、極端に言えばお子さんとか、ご年配の方々とか、普通のお父さん、お母さんたちが来てくれて、こんなに笑顔になるんだみたいな。

昔は客席を見れば野郎がこぶしを突き上げて、「ウォー!」みたいな光景が、今は、いろんな年代の人たちが入り混じって笑っていたりする光景に変わったことに、最初は戸惑いましたね。どういうふうに自分は接すればいいのか、逆にこっちが照れちゃったりして。でも回数を重ね、隊員の考え方を聞いたり、お客さんの表情を見ていると「いいじゃんいいじゃん、俺も楽しんじゃおう」って感じになりました。

客席の光景が変わって、鼓徹さんの考え方、感じ方も変わったところがあるんですね。

「なんのためにライブやってんだろう?」という疑問もなくなりましたね。三十過ぎまでバンドをやっていた時、周りのバンドも含めて、なんのためにライブやっているんだろう?ってすごく思ったんです。ライブハウスに行ってずっと酒飲んで、ベロベロになってライブやって、打ち上げして。それが楽しくてやってるのかな?とか、しみったれたくねぇなって気持ちもあったんですよね。

そんな時に切腹と出会って、これはあくまでも俺の解釈ですけど、もし江戸時代に不良と呼ばれる輩のあんちゃんたちがバンドをやるとしたら、多分、当時は太鼓ぐらいしかないじゃないですか。バンドみたいなものがあったかどうかも分からないですけど、大将みたいな人がいて「おめぇらよ。今度、祭りがあるんだけどよ、バンド組まねえか?」「おぉ~! パーッとやろうぜ!」「いいっすね!」みたいな感じで、好き勝手に太鼓を鳴らして「飲めや食えやで騒ごうぜ!」ってことをやってたんじゃないかなって、勝手に想像したんですよね。

なんか、それで納得しちゃったんですよ。じゃあ俺、ベースを太鼓に持ち換えてもいいかなって。そんな感じだったんですけど、公演をやればみんな笑顔で騒いでいるし、こっちも楽しい。「なんのためにライブやっているんだろう?」って考える事もなくなった。そこはすごく変わりましたね。

切腹の場合は、ライブ、イコール、生きていることの祭りみたいなものですかね。

お祭りの話では、これ、俺がまだ入隊したてのころだったかな。太一さん(天誅山太一さん・平太鼓)が、地方のお祭りに切腹が呼ばれた時の話をしてくれたんですよ。昼に演奏していたら、おばあちゃんが話しかけてくれたので、太一さんが「どうして、今日やっている事を知ったんですか?」と聞いたら、「どこかから太鼓の音が聞こえたから、ちょっと来ちゃった」って。「じゃあ、今日は夜もやるので来て下さいよ」って言ったら、そのおばあちゃん、きれいに浴衣を着て口紅さして、ちょっとお化粧なんかもして来てくれたみたいで。

おばあちゃんはそこで生まれ育った方らしいんですけど、もしかしたら若い頃に今のおじいちゃんと出会って、浴衣を着て、お祭りデートをするために、ちょっとかしこまった化粧をしたのを思い出してくれたのかね……なんて話をしました。確かにそうかもなと思いましたね。そういう世代の人たちが若い頃って、お祭りを頻繁にやっていた時代ですよね。俺も子供の頃、途中から演奏じゃなく、カセットテープで曲を流すようになったり変わっていきましたけど、お祭りはやってましたね。

祭りが、みんな集まれる社交場でもあったわけですしね。

俺もよく自治会のお祭りとか行ってましたし、楽しかった記憶はありますね。お盆に祖母の家に行けば、神社でお祭りをやってたし。

京都から関東へ引っ越していらっしゃったのが、何歳ぐらいのときですか?

幼稚園に入るタイミングです。母親の実家がこっちだったんで。だから、こっちに家を建てている間、京都にいた感じなので、ほとんど京都の記憶はないですね。

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宮大工。呉服店。
自分の根っこと、新しい出会い
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父親が京都で、母親はこっちの生まれなんです。父親は呉服屋に勤めていたんですけど、二人の祖父は宮大工だったんですよ。だから、子供の頃から日本文化というものに対して、そんなに遠いものとは感じずに生きてきて。お正月、誕生日、七夕、お祭り、なにかにつけて着物とか浴衣を着せられて過ごしていたのが普通だったし。

宮大工の祖父たちからは、あまり話を聞く機会はなく、片手で数えられるくらいなんですけど、「へぇ~、面白い」と覚えていることがあります。宮大工の仕事って、釘を使わないじゃないですか。組木は世界最強って言われているけど、今は耐震法とかなんとかで、金具を付けなければいけないとかあるらしいんですよね。

小学生の頃だったか、父親の祖父から地鎮祭の話を聞いたことがあって。お供えものを置く三宝には山のもの、海のもの、野のもの、あとはお酒とかお米とかを神様の食事としてお供えをする。三宝と言うのは、三つの宝を土地の神様にお供えするもので、祖父たち大工も地鎮祭を終えてから一週間は、常に新品の三枚こはぜ(註二)の白足袋を必ず履く、と。

一日履いたら捨てて、二日目にはまた新しいまっさらな白足袋を履く。それって多分、家に対する感謝とか、敬意を込めていたと思うんですよ。大人になってから思い出して検索しても出てこないので、祖父や近しい人たちの独特な習慣だったかもしれないです。「へえー、そんなの足袋に金かかってしようがないじゃん」ぐらいなことを当時は言っていたと思うんですけど、大人になって考えると、そういう職人さんの心意気とかが、すごくカッコイイなって思ったりするんですよね。

他にも、京都で有名な西陣織。織るのに「爪掻(つめがき)」という技法があるんですけど、爪の先を鋸(のこ)の歯のようにギザギザにして、その爪で模様になる糸を一本一本、掻くように手繰り寄せて織るそうで。ホント、昔から日本の職人さんって、面白いことするなと思います。ひとつひとつに意味があるし、そういうポイントポイントが俺にはツボで、ハマっていったんです。

母親の祖父は、主に春日部市内の神社とかを建てていたんですけど、そんなに宮大工の仕事があるわけじゃないから、普通の建築もやったり、農業もやったりしてたらしいです。母親を通して、祖父の大工としての美意識話を聞いたんですが、印象深かったのが窓の話ですね。昔の日本家屋って、窓が異常にデカいじゃないですか。あれっていうのは、単なる風通しや日当たりのためのものじゃなくて、額縁を意識していると。例えば、庭にカエデの木があったら、秋に紅葉するのが見えるようにデカい窓を作る。その窓辺には、漆が塗られたピッカピカの座卓を置く。その座卓には見事にカエデが反射して映る。窓を開ければきれいな紅葉が見える。そういう美意識を、すごく大切にしていたそうです。

そういうふうに、お母さんが、おじいちゃんから聞いた話を伝えてくださるって、いいですよね。

そうですね。のちに母親も呉服屋に勤めることになるんですけど、着物の用語とか、色の合わせ方とか、そういう話はよく聞いていたので、さっきもいいましたけど、そんなに特別なものという感じはなかったですね。

切腹ピストルズのメンバーそれぞれも、そういう昔からの手仕事や大衆文化への関心ってあって、それぞれツボが違うんでしょうけど、根っこのところで共通しているところもあるんでしょうね。

祖父たちは、自分の仕事に誇りや洒落っ気をすごく注いでいたんでしょうね。その影響なのか、なんでそんなこと覚えているんだろうと思うことが、記憶の奥にずっとあったんですよ。そういう自分の根っこみたいなところを、たまたまほじくり返している時期に切腹と出会ったわけなんですけど。

鼓徹さんの美意識も、家族との環境の中からとか、切腹メンバーとの出会いとか、そういうなかで育ってきたところがあるんでしょうか。

美意識って言うと、なんかナルシストみたいなイメージもあるじゃないですか(笑)。だけどそういうのも含めて、見られ方とか、何かに対する姿勢だったりだとか、それこそ職人は縦社会。俺も中学時代から「先輩は絶対」みたいな、めちゃめちゃ縦社会で。礼儀とか挨拶とか、父親もすっげえ厳しかったし。でも、そういうのって多分、祖父からの職人ならではの教えだったんだろうな、みたいな感じはするんですよね。

また建築の話を例にじゃないですけど、昔の大工さんの天井の張り方って、細かいところに遊びや工夫がなされているし、今はもうつくられなくなったけど、土壁とかも。日本家屋は、湿気が多い日本の気候に合わせて土壁だったじゃないですか。そういうことからも、大将とか隊員とも話したりするんですけど、やっぱりこういう日本文化って、明治以降、日本人が慌ててここまできちゃってみたいな流れの中で、忘れ去られちゃっていますよね。

俺は学生時代、歴史の授業に全然興味がなかったんですけど、技術とか伝統とかというのがだんだん廃れちゃって、そのくせクールジャパンとかって言うじゃないですか。「なんなの、それ?」みたいな疑問は持ちますね。

今、西陣織を継承しているお嬢さんがいらっしゃるようで、お師匠さんにばっちりついて仕事を覚えましたといっても、もらえる給料が十二〜三万とか、そういうレベルらしいんですよ。それでは生活ができないから、西陣織のトートバッグとかを作って、セレクトショップとかに卸して生活しているようですけど、それっておかしな話だと思うんですよね。国も日本の文化でインバウンドとかいうんだったら、技術を継承している人を守るのも国の仕事のひとつじゃねぇすかねぇ〜、と思ったりします。

おっしゃる通りですねえ。私が住んでいり益子町でも、お隣の笠間市と一緒に焼き物の町ということで、日本遺産の認定を受けて、観光客誘致の取組みとか、代理店なんかが入って進み始めているんですけど、日本遺産の構成文化財の指定を受けた民間の歴史ある窯元や民間の美術館は、日々の経営や建物の維持だけでもとても苦労されている。なんのための制度なんだろう?って、クールジャパンのプロモーション同様にモヤモヤします。他にも、文化とか祭りとかで、おかしな話だなあと感じることってありますか?


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うるさかったら、あっちへ行ってろ!
楽しそうだったら、じゃあ来い来い!
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お祭りの話で言うと、友達が、亡くなったお父さんの後を継いで理事長を務める幼稚園の夕涼み会や運動会の設営を毎年手伝っているんですよ。生前、そのお父さんは太鼓を演っていた人で、埼玉の和太鼓の協会でも要職に就いていた人みたいで。夕涼み会というのは、要は幼稚園でやるお祭りですよね。金魚すくいがあったり、輪投げがあったり、園児が自分たちで作った、お神輿を担いだりする。

そこで年配の方と中学生の五~六人くらいの編成で、お父さんがやっていた太鼓の連の演奏が毎回あるんですが、園児やお父さん、お母さんは椅子に座って見るわけです。ある年、演奏が始まると二人の園児が立ち上がって踊りだしたんですよ。「おおっ!」と思って、ちょっとニヤニヤしながら見ていたら、速攻で先生が近寄って、多分、注意をされて座らせられたんですよね。

それを見た時、俺の中でスイッチが入っちゃった。だけど、俺はそこの教員でも職員でもないので、夕涼み会が終わった後、その先生のところに行って「あれ、やっぱり駄目なんですかね?」みたいな感じで質問をしたんですね。そうしたら、その先生がおっしゃったのは、「せっかくこの日のために、連の皆さんが稽古をしてきて下さったから、しっかりと聞いてほしかったんです」と返答があって。俺は別にそこで「いやさ~」と、説教をたれるつもりは全然なく、「多分、あの子たちは太鼓の音を聞いて自然と体が動いちゃったんですよね。そういうのも楽しませてあげてほしいなって、ちょっと思ったので聞いてみました」みたいなことだけ伝えて、話は終わっちゃったんですけど。

町の小さな幼稚園の小さな出来事ですけど、そういうところから太鼓は静かに座って聞くルールというのが、記憶として植え付けられていくんだろうなと。本来は自由なはずだと思うんですけどね。

例えばバイオリニストの高嶋ちさ子さんは、クラシックだからって小さい子供を入場禁止にするんじゃなく、コンサートをする時に赤ちゃんや小さい子供も来て下さいと、スペースを用意したり、子供が泣こうが全然いいよという感じでコンサートを開催したみたいだし。作曲家の青島広志さんも、やっぱりクラシックは「『シーン』と静かに聴くだけじゃなく、もっと自由なものなんです」と言っていましたね。

歌舞伎で言ったら生前の(中村)勘三郎さんは、「歌舞伎は絶対に庶民のものなんだ!」とメディアで言い続けていましたよね。「そんなに敷居が高いものじゃないんだよ、庶民のものなんだから気楽に楽しんでいいんだよ」と。それから、芝居中に「成田屋!」とか「中村屋!」とか屋号で掛け声を飛ばすのも、「決まりなんかないんだから、初めて見に来た人も言っちゃっていいんだよ」と話していた理由が、切腹であちこち行くようになって、なんか分かった気がするんです。

こうしなきゃいけないんだという思い込みが生まれるのって、きっと小さい時だと思うんですよね。俺の小学校の時の担任が、指揮者として有名な人だったんです。クラスで音楽が好きな生徒に声をかけて、オーケストラの演奏会に連れて行ってくれて。今でも覚えているのが、演奏が始まる前、司会者からの注意事項は「物音を立てないでください。静かにしてください」。そういうのを未だに覚えているってことは、やっぱり小さい時の経験に縛られちゃってうるんですよね。オーケストラは静かに見なきゃいけないんだって。

ど田舎にしかた祭りとか、小さい子たちも自由に本能のおもむくままに楽しめる、そういう機会を増やしたいですよね。

なかなか経験のないことだから、子供たちがキョトンとしちゃうのも分かるんですよ。怖いとか、耳を押さえて「わー!」とか言ってる子供も全然いいんですよ。だけど、イカツイおじちゃんたちが太鼓をドンドンやって、それを騒ぎながら見ていいんだという状況が、普通のことになってほしいという気持ちはありますね。

俺は、ど田舎にしかた祭りとかでやる時の心構えとして、子供たちのそういう固定概念を取り払いたいというか、和楽器は座って見なきゃいけないというものじゃない。うるさかったら「あっちへ行ってろ!」だし、楽しそうだったら「じゃあ、来い来い!」だし。変に作られた型みたいなものは、実は関係ねぇからということなんですよね。(終)

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註一 「BAZOOKA!!! 」
BSスカパー!で放映されていたバラエティ番組。二〇一一年十一月十四日放送の回のライブコーナーに、四人編成の切腹ピストルズが出演。番組アーカイブによると演奏曲は「南京ブギ」「松竹梅島」の二曲。聴きたいですね〜。
https://www.bs-sptv.com/bazooka/archive/20111114/

註二 三枚こはぜ
「こはぜ」は、足袋の足首部分についている薄い爪のような形の留め具。対になった側の掛け糸にひっかけて、足に足袋を固定する。ちょいと手持ちの足袋を見てみましたら、昔々、成人の年に母が用意してくれた足袋には、こはぜは五枚。鼓徹さんのお祖父さまの「三枚」は、職人の粋なこだわりだったのでしょうね。


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聞き書き・バナー写真撮影|簑田理香
記事中写真|鼓徹さん提供
取材・二〇二〇年十月二十七日
埼玉県越谷市某純喫茶にて
公開・二〇二一年十月一日