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天下御免の旗を持て。

大工大の伝
大工 栃木市西方町

大工大

切腹ピストルズ大工隊員 生まれも育ちも野州西方




二〇一九年七月十九日、東京渋谷のライブハウス。いちばん新しく隊員になった、大工大こと荻原大輔さんが持つ「御免」の幟旗が、今となっては遠い昔の幻のような「密」な観衆の頭の上ではためいていた。切腹ピストルズも音楽や制作(出演も)に全面的に協力をした豊田利晃監督の『狼煙が呼ぶ』のプレミア上映会。今でもまだ皮膚感覚で覚えている会場の熱気の中、スマホで撮影した一枚。左端に笑顔の大さんが映る。







鉦を鳴らす飯田団紅氏のもと、平太鼓、締太鼓、篠笛、三味線の隊員がいて、そこに新しく「大工」の隊員が加わった。もとより楽器を持つ隊員たちも、それぞれの生業や暮らしにおいて、また切腹ピストルズの活動において、飯田隊長の言葉を借りれば、「明治維新からの近代化で途絶えた庶民の生活文化の歴史をつなぎ直す」ことが軸になっている。そこに、楽器の代わりに斧や鋸、鑿(のみ)を持つ大工隊員が加わることは、とても自然な流れのようにも思えるけれど、ご本人にとっては、どういうことなのだろう。そのあたりの経緯や思いを聞きたくて、二〇二〇年七月八日、栃木市西方町(註一)の真名子(まなご)地区に、大工の大さんを訪ねた。



栃木県の南西部に位置する真名子地区は、日光から連なる山々の自然豊かな細い谷筋にある集落。父と営むおぎわら建築の事務所と作業場がある通りの斜向かいに、大さんが「薪小屋」と呼ぶ、手を加えながら進化中の小さな小屋がある薪置き場で、お話を聞いた。まずは、小屋づくりのお話から。



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こっちがすごいの、ゆらゆらガラス。大正か昭和の初めの頃のガラス。拾ってきて仕舞っておいたんですけど、これを機に使おうと思って。大工という職業柄、古い建具とかは、声をかけておけば、どんどん集まってくる。これもすごいの。簾戸って言って、夏の間だけ、これに建具を入れ替えるっていう。よほどお金持ちじゃないと持てなかったんじゃないかな。


あっちの作業場の一角に、集めてきたものを使って、ちょっと憩いの江戸部屋みたいのを作っていたんですけど手狭になって、もうどうしようかなと。基本的にアウトドアで育って、家の中でテレビ見るより表にいたいタイプなんで、次は外に小屋だな、と。

それで、これの前に、もうちょっとこじんまりしたのを建てたの。だけど、何かしっくりきていなくて。ああ、いいや、もう一回やり直そう・・・ってぶっ壊しちゃって、ゴールデンウイークに二日でつくった。だから、大工さんが見ると、嘘だろうっていうつくりなんすよね。




大工さんが見ると? ・・・って、大さん、大工さんですよね?笑



うん、大工さん(笑)。仕事は大工なんすけど、こういうのはもう日曜大工の気分でやる。真面目にやっちゃうと材料費も馬鹿になんないし時間もかかっちゃうから。いちいち測って切ってとかは、嫌なんすよね。普段やっていることだから。


「ど田舎にしかた祭り」(註二)もそうなんすけど、雰囲気で作っていくのが、やっぱ一番楽しいじゃないですか。いちいち図面見て、確認してとかじゃなくて、わいわい話しながら気の向くままに。いや、むしろ準備している時の方が楽しい。いざ当日を迎えちゃうと、ただ忙しいだけなの。





薪もやっとこれだけ作れた。今どきの薪ストーブ用の薪ってのは、こっちの六つ割りぐらいですね。六つ割りをメインに作りつつ、理想は、この八つ割サイズの細めの薪を全面に積むことなんです。江戸時代にかまどや囲炉裏で使っていたのは、八つ割なんすよね。隊長んちの江戸部屋前に積んであるやつ。あれもそう。隊長の奥さんのおじいちゃんが作っていた薪なんすけど。このへんの田舎の蔵とかの脇に積んであるのは、百パーこっち。

薪小屋作ってから、週末は、子どもが三人いるんで、ここで一緒に呑気に過ごしています。ちょうどコロナも相まって出かけらんないし。バーベキューってカタカナ言葉で言いたくないんすけど、だいたい週末はここでバーベキュー的なやつ、罠猟をやっている友達が仕留めた猪や鹿の肉を焼いてます。そして週末の小屋は禁煙になります。レゴブロックとか宿題とか、子どもらがこっちに持ってきてやり始めて、「タバコは外で!」って言われちゃうし。もう完全に乗っ取られています!(笑)



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髪を黒くして

出直して来い!

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家業の建築は、何代目ですか?



親父が初代だから、二代目。おじいちゃんは、もう死んじゃったんですけど、鉄工所に勤めてた・・・。まあ、似たような感じですよ。


進路を決めるとき、迷わず大工に?



いや、お年頃の頃は、あ、今、三十六なんすけど、俺が高校生ぐらいのときに、カリスマ美容師みたいな奴らがちょうどちやほやされている時代で、正直、そういうキラキラした世界に、めっちゃ憧れていた時もありましたね。小学校の頃は、基本的にずっとお勉強できない子で、下から二番目とか。お勉強はとにかく大っ嫌いで、お風呂で掛け算九九を言わされるのが嫌だから、お風呂に入らない(笑)。四つ下の妹がいるんですけど、毎日聞いているから、妹のほうが先に言えるようになっちゃうみたいな。


中学校のときが一番のモテ期でしたね。しゅっとしていて、顔もきりっとしていて、結構モテたんです。よその中学校の女の子からも。あの頃は家の電話しかやり取りできなかったから、会った時に家の電話番号を教えて。うちの両親は、そのへん理解あるほうだったから、電話かかってきたりかけたり、おおっぴらにやっていましたね。


進路を考えたのも中学のときで、冗談半分で、俺は宇工(宇都宮工業高等学校)で建築を勉強するみたいなこと言っていて、でも、全然行ける頭はなくて、先生ともけんかしていたり、まあ、「今工(今市工業高校)なら行けんだろ」って先生に言ったら、「大輔、勉強したいなら私立のほうがいいぞ」って。「白鴎大学足利高等学校ってところで建築のお勉強ができるから行きなさい」と。それで、足利に通ったんすよ。定期に月三万。定期をなくしたって言って母ちゃんから三万追加でもらったりして・・・(笑)。


稲安食道(註三)でバイトもしていました。稲安は、週六で高校生もバイトができて月に八万、九万もらえるんですよ。だから俺、高校生の頃が一番財政が豊か! たぶんその頃がバブル最後の時期だったのかな。「おい、あんちゃん、ビールどんどん持ってこい」みたいなお客さんばっかり。ホールもやって、皿も洗って、お米も研いだ。


稲安って、すげえ厳しいんですよ。夏休みだったかな、金髪にしてバイト行ったら、ぶったたかれて「帰れっ!」って言われて。親は夏休みだからってO Kだったんす。でも、稲安の奥さん、マーちゃんって言うんですけど、稲安のマーちゃんが。そういうところすげえ厳しくて「帰って黒くして出直して来い!」みたいな。ったく、うるさいなと思って(笑)。まあでもね、やっぱりマーちゃんに言われちゃしゃあないみたいな感じでしたね。俺が髪を黒く戻して行ったら、今度は、まーちゃんにすげえ褒められて。同じバイト仲間とかが、「俺なんかずっと黒いのに褒めてもらえないんだよ」みたいな(笑)。


二年ぐらい続けて、稲安のバイトはもういいかなと。ちょっとハードだし、バイク買うのに組んでいたローンも終わったし。で、次にコンビニでバイトして。コンビニでバイトするイコールたばこ代はかからないというのが当時のルール(笑)。バイクの雑誌とかファッション誌とかも、まあ、お金は払わなかった(笑)。でも、絶対バレてますよね。ほんとすみませんでした!でもまた、そのコンビニのおばちゃんもすごいいい人で、かわいがってくれまして。



大さん、どこに行っても周りの年長者に可愛がられるタイプですよ。バイトの収入って、バイク以外に何に使っていたんですか?



洋服とか靴に。ちょうどナイキのスニーカー全盛期。第一次ブームで。エア・ジョーダンシリーズとか。今もそうなんすけど、基本的に履物が好きで。収集癖も人並み以上にあるんで・・・。





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運命の出会いは

クリスマスイブ

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西方に、すっげえ変わった人が東京から引っ越してきてるって、ヒロフミ君から聞いたのは、もう六年前になんのかな。ヒロフミ君と俺は、年は一回り離れてるんすけど、消防団とかですごい気の合う仲間です。で、あるとき、ヒロフミ君ちに行ったら、ちっちゃい赤ちゃんがいるんすよ。どこの子って聞いたら、東京からいとこ家族が引っ越してきて、両親が出かけなきゃなんないから預かっているって。その赤ちゃんが、隊長とめぐみさんの長男の一之助くんだったんすよ。ヒロフミくんの従姉妹というのが、西方出身のめぐみさんで・・・。それでヒロフミくんに「従姉妹の結婚相手がすげえ変わってるんだよ、切腹ピストルズって検索してごらん」って言われて。そのとき検索してきて見た画像が、今も出ると思うんすけど、隊長とすーさんと太一さんと久坂さんの四人の頃の写真。まだ今ほど野良着感がなくて、すーさんなんか、たぶんワイシャツとネクタイみたいな、宣材写真みたいなの。正直言うと、東京にはこういう人いっぱいいるんだろうなぐらいしか思わなくて「へえ、変わった人だね」って言って終わっちゃったんですよ。


それから、一之助くんが、うちの子と同じ保育園に上がった年に、保育園で初めて隊長を目にして、あ、この人だってすぐにわかった。ヒロフミ君からは、「隊長が古い箪笥(たんす)を探しているよ、大輔、解体現場で出ないの?」って言われて、ちょうど何となくキープしておいたものがあって・・・。切腹ピストルズの検索を続けていたら橋の下(橋の下世界音楽祭)の映像が出てきたりして、よくよく知っていくと、いやもう凄いから。すごい人が西方に来たと思っていたんで、箪笥あげなきゃ!ってなるじゃないですか。好きな人にやっぱプレゼントしたくなるじゃないすか(笑)。それで隊長にインスタでDM送って、やり取りが始まったんです。


隊長も忙しくてなかなか会えずに、なぜかお互い時間が合ったのが、二〇十六年のクリスマスイブ。朝八時ぐらいに家に遊びに行ったら、隊長は外でゴミ燃しなんかしていたな。会うまでは、正直、ネットで出てくる映像や写真の姿は衣装だと思ってたんすよ。実際は違うんじゃねえかと思っていたら、もうそのまんまの姿でいて、それがすげえハマっていて。そのままおうちに上げてくれたんですけど、奥さんのおばあちゃんが住んでいた家を、きれいに直しちゃって、変にリフォームされているわけじゃなくて、すげえ居心地が良くて。奥さんがまたマメな人なんですよ。



そんで、いろいろ質問したり、話をしたりする中で、「西方のどんど焼きすごいよね。あそこで演奏できるといいな」と言う話になって、「じゃあ俺、どうにかします」って言って。やっている人たちも地元の人なんで説明して話してみたんですけど、「ネットでいろいろみたら、メンバーに入れ墨の人がいるからダメだ」とか言う話になって、それがちょっと悔しくて。今でこそ、いろんな動画が上がっているけど、その頃は、反原発の集会に呼ばれて演奏してる動画もYouTubeの上のほうにきちゃっていることもあって、年配の人たちは勘違いしちゃってんだよな、仕方ないかなと思いつつ・・・。



隊長も「まあまあ、俺ここに住んでいるんだから、そんな急がなくても大丈夫だよ」みたいなこと言ってくれたんだけど、俺的には「すみません、どんど焼きで演ってもらいますと言ったのに」と言う気持ちでしたね。それからまあ、一年くらいかけて次の「ど田舎にしかた祭り」に出演してもらおうと思っていたんだけど、もうすごい意気投合しちゃって、隊長から野良着について、いろいろ教わったりしながら、ど田舎の前にもう盛り上がっちゃって。


隊長の家の納屋を改装して、江戸部屋を作ったのは、五月だったかな。五月ってだいたい仕事が暇になるんで、俺も好き放題、解体現場行ったり、野良着見つけてきたり江戸部屋を作ったりしながら、隊長にも「ど田舎にしかた祭り」に関わってもらって・・。ど田舎の準備しながら、隊員の野中克哉さんが監督した映画『根っこは何処へ行く』の栃木上映会をやったり、西方の寺子屋だとか言いながら、地元のこといろいろ調べたり・・・。



そして二〇一七年十二月、ど田舎にしかた祭りに、切腹ピストルズが初参加!ですね。



うん。百聞は一見に如かず! 切腹ピストルズの演奏で、年寄りが冗談ぬきに泣いちゃって。うちの父ちゃんとかも、その前からもうだいぶ行き来はあったんで「飯田君、よかったよ」みたいな状態だったんですけど、どんど焼き関係者で、入れ墨を心配してた人たちも「どんど焼きにも出てくれるんだよな、飯田君」みたいな(笑)。来い!来てくれ!みたいな(笑)。いやもう本当に見事にコロッと。



ど田舎直後、SNSで「不思議なぐらい老若男女が盛り上がっているお祭りだ」と言ってくれた人たちが多くて。いや、ほんとありがたいなと思って。町のお祭りごとって、若いのが本気出しちゃうと、年寄りがついてこられなくなっちゃったりするパターンが多いじゃないですか。ど田舎にしかた祭りも、隊長たちを混ぜる前のど田舎フェスなんて言っていたころは、お笑い芸人とバンドとヒップホップのキッズのダンスとかのプログラムで、やっぱ若手がやっているんで、そういうのになりすぎて、じいちゃん、ばあちゃん、よく分かんないけど椅子に座って見ているみたいな。最後の抽選会だけ盛り上がるみたいな・・・。そんなお祭りだったんですよ。



一応、行政からお金をもらっているお祭りなんで、結構縛りがあるんすけど。行政側も地元の人なんで、一緒に祭りを作っている感じありますよ。実は、うちのおかんも役場に勤めていて、祭りの四回目ぐらいまで地域振興課の課長だったんで、会議ではおとなしくしていて、うち帰って「あれどうにか通せよ」みたいな(笑)。



最初にやったのが、ど田舎祭りにスケボー場を作ろうって、予算を申請したの。そうしたら、なぜスケートパークが地域振興のために必要なのか?を、お役所は問い詰めてくるわけ。それをうまく「だからね」って言って。「スケーターっていうのは公園で勝手にやっていて、悪い奴らだというイメージあるかもしれないけど、彼らは感動を呼べるんだよ。それを一回、ちゃんとしたところでやらせてみよう」って。で、あの金魚湯(註四)の晴樹さんにお願いしに行って、初めてのとき晴樹さんが頭でやってくれて、市から降りた予算を託したんですけど、予算以上にいい仕事してくれて。みんな、祭りには結構満足していたんですよ。スケートパークがあることによって、他県からスケーターが来てくれて。ついでに、奥さん、子どもも来てくれて、親子でトラクター試乗や俵投げなんかも楽しんでくれて盛り上がる。SNSの評判もぐんぐん上がっていて、いい雰囲気出てきたって、ちょっと満足していたんですけど。さらに隊長が実行委員に加わってくれて、内容も雰囲気もずっとよくなって、祭りとしては完成したんじゃないかな。





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ブランドのマークやタグはついてない

よくわかんないけど、すごくいい!

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飯田さんと出会って他にどんなことが変わりました?



そうすね。まず身なりが変わりましたからね。前はもう、ナイキとか・・・。高校生のときは、私服はダボダボ。俗に言うBボーイ的な。その後、アメリカンのバイクに乗っていたんで、シャドウっていうデカいの。そういうバイカーみたいな格好。洋服のジャンルで言うと、コロコロコロコロ変わっていましたね。ゲスパン履いていたり、だぼだぼにハマったり、リーバイスにはまったり、ディッキーズ履いたりとか。いろいろ変遷はあるんだけど、ハマると、その時は、とことん。



隊長と出会った頃なんか、そのころはピストバイクっていう、自転車なんすけどブレーキがついてないやつ。俺のインスタとか、すげえ遡るとその写真は出てくるんすけど、それに夢中で、小遣いもほとんどそれに突っ込んで、週末となれば、輪行バッグに自慢の自転車を積んで、東京の友達と憧れの渋滞のすり抜けなんかを・・・。


そして、今は雪駄(せった)と野良着と半纏!



うん! クリスマスイブに初めて会ったとき、まず、野良着の授業を受けたんです。俺が、すげえ質問しまくって。そういうのってどこで売ってんすか?とか。隊長もいろいろ自分のお気に入りを持ってきてくれて、「これがな」つって教えてくれたり、新潟の芸術祭でやった「野良着の逆襲」展の写真をパソコンで全部見せてくれて、実物はないけど、こういうのがこうでと教わって。もともと切れたズボンとかも好きだったんで、うわあ、かっこいいと思って、欲しくなっちゃうんですよね。ヤフオクで買えるって言うから、ずっと検索してたんすけど、本当にかっこいいのだと結構いい値段するんすよ。そういうのをスクショして隊長に、これどうでしょうかねって聞くと、「高いからダメ」つって。こういうのは高い金出して買うもんじゃないんだからって。「このへんでも絶対あるから、大輔、探してごらん」って言われて。で、ほんと真名子じゅうの知り合いの蔵を見せてもらったら、まあ出てくる出てくる。


そうこうしているうちに、真名子村の消防半纏も出てきて。それを調べたら、普通に戦前の手掛かりが残っている。昔のこととか、百年前のこととか、何かもう、すごい近くに感じちゃって。隊長が、江戸は、江戸はって言うもんだから、一気にそこに近づいちゃって。行けば行くほど野良着も見つかるし、またかっこいいんですよ、どれも。



そもそも、昔からユニクロの服とかはもちろん嫌いだし、誰も着てない服が欲しいみたいなのはずっとあって、お気に入りがあれば色違いを買うとか、そういうことを続けていた。靴とかでも、たとえばVANSのスリッポンだったら、白、黒、チェック柄、パンチングレザーとか、黒スウェードとか、シリーズで集めていたんですよ。そういう収集癖のある人は、野良着なんか格好の畑なんですよ。


別にタグが付いているわけでもないし、もちろんブランドのロゴがあるわけでもないから、よく分かんないまま、よく分かんないけど、これすごくいい!とか、これかっこいい!とか。それ大事だと思う。



これも(当日着ている野良着)すごく気に入っていて。麻の一重なんです。あと一枚欲しくても、無いんですよ。このへんって、麻畑だったんです。俺が小学校ぐらいまでは、そこらじゅうで麻を育てていた。だから麻のこういう野良着も残っていると思うんだけど、生産地だからあるというわけでも無いらしくて。麻は、ぱっと見は分かんないけど、隊長は「お、大輔、今日は麻だな」みたいに目が利くんですよ。



それから商工会の青年部では、隊長に図案作ってもらって、新潟の紺仁(註五)さんを紹介してもらって半纏を揃えた。安いもんじゃないけど、十五、十六着かな。半纏着て、みんなで超盛り上がって、隊長もそんな数を一気に注文できる青年部は本当にすごいよって言ってくれて。たぶんその時、自分で言うのもなんだけど、隊長をびっくりさせられたんじゃないかなと。「ちょっと、どうよ」みたいな(笑)。



五月の、仕事がわりと暇な時期に、隊長を連れて蔵がある家を訪ねて回っていたんですけど、その流れで、移住して来て一年くらいの志むらさんの家が床もぼこぼこで、もうどうしようもなくて「大輔、直してあげて」って話になって、隊長と二人で直して・・・。それでまた、その余力で、隊長んちの納屋の改修に取りかかったんすよ。母屋と同じ敷地に納屋があって、その脇の下屋、庇がぐっと降りているところに古い箪笥とか囲炉裏とかを置いて、隊長はそこでタバコ吸ったりして、江戸の風に吹かれていたんすよね。「納屋の中には、何が入ってるんすか」って聞いたら、おじいちゃんの道具なんかがいっぱい入ってるんだと。


俺が、あんまり民俗資料を見つけてくるんで、あ、昔の道具とか野良着とか道具のことを、俺ら、民俗資料って呼ぶんですけど、それで、置き場をどうしようかっていう話も出ていたし、それじゃあ、納屋の中を片付けて・・・ということになって、畳屋のしんちゃん(針谷伸一さん 註六)も一緒に小上がりを作って古い箪笥を並べたりして・・。その小上がりを作る時、やっぱり新しい材料で作ってもカッコ悪いから、近所に古くて傾いている小屋があって、そこも壊したいって家主さんから言われていたんで、じゃあ、あの小屋を壊して材料にしよう、って。よくできているんですよ、昔の木造は壊れそうで壊れなくて。それを、隊長や志むらさんも一緒に手作業で丁寧に解体して、その材料である程度、中を作ったんすよ。



そんな感じで「江戸部屋」を作っている時に、隊長から「大輔も切腹ピストルズ入っちゃいなよ」みたいな話があって、いやいや、俺、無理ですよって。だって、行動範囲も半端じゃないし、中途半端になっちゃうのも嫌なんで、一回断ったんですけど。


しばらくしたら、「白地に一番っていう半纏がいっぱいあるから、今、切腹ピストルズに入ったらこれをあげるよ」って言ってきて(笑)。超欲しい! だけど、いや、いけないと思って。安易に入ったところで中途半端だし。楽器できないし・・・。そういうことを伝えたら、隊長が言うんですよ。「別にね、切腹ピストルズっていうのはバンドじゃないから。バンドって思われるのも嫌だし。隊員に大工とかがいたほうが絶対いいんだよ」って。何となく、バンドじゃないなっていうのは分かっていたんですけど、あらためて隊長からそうやって聞くとね、いや、バンドでも十分かっこいいのに、何でバンドじゃないって言いだしたんだ、この人はって。


それで結局、「隊長、やっぱ俺、入りたいです。白い半纏、欲しいです」って言って(笑)。LINEのグループとかに招待されて、いや、でも俺、どうしようと思って。いまだにどうしようと思うことはいっぱいあるんすけど。やっぱね、こうやって、今日の取材みたいに切腹ピストルズなにがしで来てくれている人に、「これ切腹の大工だから」とか紹介されても困るじゃないですか。基本的には、主として演奏をしている人たちっていう印象があるのに、いきなり大工が来たところで、何か困っちゃうだろうなと思いながら、まあ俺も困っちゃうなと思いながら・・・(笑)。


好きな楽器やればいいって言われているんすけど、いまだにやらずに、何となく自分の中では楽器はやらずにいようかなと。子どもが三人でしょ、それで奥さんが美容系のサロンで働いているんで、週末にいないことが多くて、そうなると、なかなか遠征もいけないんですよね。県内とか渋谷のイベントとか、行けるときは、基本的に旗を持つんです。練り歩きだったらいいんですけど、渋谷のライブハウスのときも、「大輔、じゃあ旗持って」って言われて、そもそも「ステージに上がれ」って言われた時点で、お断りしようと思ったんです。それで野暮だけど、隊長に「俺、旗持って何をしたらいいですか」って聞いたら、何してもいいって言われて。何してもいいって、それ一番難しいだろって(笑)。最初はおとなしくしていたんですけど、いや、おとなしくしているのも退屈だなと、ステージから降りて観客の方に入っていっちゃいました!


その後かな、四国で「切腹ピストルズ村」とか、バンドじゃない動きをするときが結構あって、絶対今回は俺の出番だな、今回は大工の出番だな!と思うところもあって、一応、奥さんに「行きたい」って言うんだけど、もちろんダメって。やっぱ今は子どもちっちゃいから我慢しようということになります。でも、もうちょっとしたら、俺もみんなと一緒にあっちこっち行って、お役に立てればなって思います。


あとは、切腹では、ヤフオクとかでの民俗資料収集係ですね。基本的に物欲と収集癖が人より勝っていて、ヤフーオークションやメルカリは一日二十回ぐらい開くんで。結構、出るんすよ、民俗資料的なものがポコンと。俺がすぐ発見して、自分のお小遣いで調達できるものは調達して、これはちょっと切腹ピストルズ的教育資料だってものは、LINEのグループに上げて、経費でこれを落札して財産にしましょうって提案したりしてます。


この八割(やつわり)下駄。これ三足目。切腹ピストルズの物販で出てるんすけど、おもしれえだろって隊長に教えてもらって。昔、ぺにゃぺにゃの草履で職人が仕事してて、だんだん釘を使うようになると、みんな釘を踏んづけて、底がダメになっちゃうんで、頭のいい奴が草履を改造して作ったんじゃ無いかと。初代の安全靴っすよ。


これを隊長に教えてもらった時に、ナイキフリーっていうナイキのスニーカー思い出したんすよ。底に、こういうスリットが入っているスニーカー。でも日本は、江戸時代からこういうのを生み出して使っていたんだよって、なんか嬉しいすよね。


昔は、四つに割れていたんです。だから八割って言う。でも、もうちょっと改良されて、今は五つに割れて、でも呼び方としては、今も八割。地方によっていろいろあって、板裏草履っていう表記もあるし、八割下駄っていう表記もある。あ、俺のコレクション、持ってきちゃいますね!




切腹ピストルズが集まると、履き物だけでも、一瞬にしてこういう光景になりますから。しかも、俺を含めみんな、こういう一流品を履きつぶす。やっぱ、なんか結構いろんな人が言っているけど、博物館に飾っておいたんじゃ意味がない。何でもそうだけど、使ってなんぼって言うじゃないですか。まさに切腹ピストルズは、履物にしろ野良着にしろ、使い倒す。


隊長なんて、壊れちゃったら、すーさんに直してもらって、どうにもなんないのは、ほんとに履きつぶして捨てますからね。俺とかちょっとビビりなんで、履きつぶせないんすよ。


保育園のお迎えに本雪駄を履いていったら、その保育園で一番年配の先生に「タイチ君のお父さん、そんなの履いているの?」って言われます。今は、その筋の人も本雪駄を履かないですからね。ビニル製でゴム底のものが出回っていますよ。


紺仁の松井さんも、コロナのせいでお祭りがないんで、半纏の注文もガタ落ちだって言ってますけど、そもそも半纏というのは、お祭り衣装じゃないっていうのを隊長とかもよく言っているんですよね。職人の仕事着、普段着ですよね。俺は、義理人情とやせ我慢の名の下に夏は暑いのに半纏着て、冬は寒いのに草履を履くっていうことでやっています。もちろん、建築の現場は、状況とか仕事内容によって、普通に上履き履いたりもしますけど。



ご家族の反応は、どうですか?

親は、遡るとミニ四駆、そしてガンダムぐらいから、人並外れた蒐集癖があるって感じていたらしくて、驚きはないですよね、今度はそうなったのね、みたいな。ただ、全部は見せてないです。もちろん。奥さんにも(笑)。



記事になっても大丈夫?

大丈夫でしょう。ひとつ百円だったってことで(笑)。


あとは、まわりの人たちに「昔のものが好きなんだよね」みたいな話をしておくと、近所のおじさんが、「何か分かんないけど取っておいたから、大輔、集めてんじゃん、あげるよ」って持ってきてくれる。鋸とか斧とかも。薪割りを始めて、斧の世界にも興味が広がりますよ。



隊長の江戸部屋の持ち主のおじいちゃんが山の仕事をしていたんです。その斧に、これがついていました。刃靴(はぐつ)って言うんです。いまどき、なんでもネット検索でだいたい分かるじゃないですか。これだって見つけて、自分でも作ろうってコメリで買った麻ひもで作っているんですけど、それももう嫌で。うちにあった麻で、まず撚るところから始めて作ってやろうと思って。


他にもいろいろね、そこらじゅうの蔵に眠っているものとか、壊れかけた小屋に置いてあるものとか、救出していますよ。米袋、山ぞり、山仕事で使った袋とか。木の箱も集めて、車の中で仕事道具を入れるのに使っていますから。


切腹ピストルズに、お年寄りのファンも多いのは、さっきも言いましたけど、昔のものをみんな普通に使い倒しているからってのもあると思うんですよね。そういうところに、そうそう、そうだよねとか、思ってくれるんじゃないかと。西方のおじやんおばやんも、もうすぐに隊長のファンになって、飯田くん、飯田くんって、一瞬にしてファンです。




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家業と、地域と、

これから先の未来のこと

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薪割りは、斧で?


斧で。出回っている斧って、日本かスウェーデン製なんですって。ものは試しでスウェーデンのハスクバーナっていう斧の大と小を買ってみたんですけど。やっぱね、向こうのは、道具として見ると全然ちゃちなんすよね。分厚いのも出てるんすけど、たかがしれてますよね。外人はパワー系らしいんです。力で解決する。日本人は基本的にパワー不足じゃないですか。だから、道具を工夫して生き抜いてきたんじゃないかと。だから、遅れて一周回ってきても、最終的には、それがかっこいいんじゃないかなって思いますね。



俺、薪ストーブも持ってないし、囲炉裏もまだ掘ってないんで、今のところは、薪は、完全に飾りなんすよ。ビジュアル。塀にもなって、いい景色じゃないですか。薪越しの緑とか。


この赤っぽいのは全部サクラなんすけど、薪の中では神様的存在なんです。サクラの木って燃やすといい匂いするんです。それから、中で捻れているのが多いんですよ。やっぱ大工だから木を見るんですけど、スギ、ヒノキはだいたい、幹もすーっと伸びて、枝もちっちゃいい。でも、サクラって結構、立派な太い枝でも下に垂れないで真横に伸びていくじゃないですか。重力に逆らっているからなのか、中で捻れながら重力に逆らっているのか・・・。だから強い木なんだ、と思って。そういうことも薪割りを始めてやっとわかってくる。


こっちは広葉樹ですね。クヌギ、ナラ、カシ。あのでっかいのはケヤキ。ケヤキってのは薪にはしない木なんだけど、近所で伐採したんで、使わないともったいない。ここにあるのは、大体近所で伐採された木で、錆びたトタンも、解体現場やリフォームの現場から救出したもの。


大工の仕事は天職だと思いますか?



天職なのかもしれないですね。足利の高校を卒業したあと、宇都宮の建築設計の専門学校行ったんですよ。



高校から通算七年、建築一筋の勉強? すごい!

うん! すごい(笑)。 まあ、勉強していた風なんですけど。実は、遊んでいたんで。ここいらの田舎と違って宇都宮の学校なんで誘惑多いし、やっぱり授業には集中できず、日焼けサロンなんかに行っちゃったり。もともと黒いから行く必要ねえだろって思われるんですけど、当時は流行ってたんすよね。三時間目になったら日サロ予約して、四時間目に行って焼いて、シャワー浴びて、飯食って、五、六時間目は教室で寝るみたいな。クズですね。自分のせがれが、そんなんだったら、もう俺はブチ切れるな(笑)。


笑。今の仕事は、新築が多い?



そうですね。基本は下請けをやっているので、一棟いくらで工事一式を引き受けて、一か月半ぐらいで建てる。



下請けの苦労ってありますよね?



まあ、なんの仕事でもそうだと思うけど、現場のことをよく分かってない人が監督だったりするから、普段は指示ばっかり偉そうにしていても、すげえ難しい困難なことに突き当たると、「大工さんにお任せします」って言いだして。こっちも、はいはいってやるしかない。


これからの抱負? 商工会とかでも、経営セミナーとか勉強会をやるんすけど、同業の話とかも聞くと、二つに分かれるじゃないですか。法人にして職人を増やしたいという、そういう将来設計がある人と、そうでない人と。俺なんかは、一生一人でのんきにやっていたいなと思って。どっちがいいかは分かんないじゃないですか。こればっかりは。でもたぶんコロナとかで受注が減ってきたら、従業員を抱えていると、やっぱりきついだろうなと思って。うちなんか親子でやっているから、正直、一か月ゼロでもどうにかなっちゃう。だから、のんきにしてられんのかも。


志むらさんとか隊長とかみたいな、好きな人で、自分じゃできないけどDIYしたい人とかのサポートしつつ、家業をやってけたら。あんまり儲けることばかり考えるんじゃなくて、材料代とかでね。損して得取るじゃないけど、そういうことをやってれば、世の中が厳しくなっても食いっぱぐれることもないかなと思う。あのベンチも、俺がぱっと簡単に作ったんすけど、ホームセンターには売ってない形っていうか、長椅子みたいな。こういうのを作ってみたりして、あわよくば、欲しい人がいれば。そんなにびっくりする値段じゃなくて販売して・・・。


この前もここで、男八人ぐらいで延々十一時間ですからね、バーベキューしてました。西方で桜並木を植樹したんですよ。第一回の活動として草刈りをして、午前の十時ごろには終わって、店もどこも開いてないじゃないですか。コロナ対策でテイクアウトだけのところが多かったし。じゃあ、とりあえずうちへ行くかって言って。多少買い込んで、ここ来て。みんなで暑いなか、ここで火も絶やさず、気づいたらもう夜の十一時になっていて。それでも一人二千円とかでしたからね。そんなにお金もかかんないし。


今、条例でタバコも吸えない店が増えてきていることもあって、江戸部屋だったり、ここだったり、あとは畳屋の工場の中とか・・・。飲食店で集合するんじゃなくて、もうほんと、そういうふうになるんじゃねえかなと思って。ひと昔前は、だいたい、誰かんちの茶の間とか客間とかで集まっていたのが普通だったからね。これがコロナで、ちょっと江戸に戻れるんじゃないかとか、そんな風にも考えちゃいますよね。



そうやって、西方の面々が集まることが増えてきていて・・・。自分もそうなんすけど、平日、仕事休んでまで、祭りの準備。それにこの前も豊田利晃監督の映画の撮影も、こっちで五日間やったんすけど、その時もね。



商工会青年部の枠を超えて、今、「にしかた有志の会」っていう意味の分かんない団体を作って、LINEのグループなんかも作って。隊長が先頭で日程を打ち込んでくれて。サラリーマンとかもいるんすけど、「地域の大事な仕事があるから」って有給取っちゃって準備や手伝いに参加してくる。豊田監督の『破壊の日』は、西方でも撮影したんですけどね、花いろ(註七)とかが拠点になって相当お世話になりました。


撮影現場のひとつにヤオリンってスーパーがあるんですけど、稲安あたりにある昔ながらのスーパーです。あのヤオリンは、お年寄りのこと考えて、野菜でもなんでも小分けで売っているんです。五人家族用で設定しているスーパーが多いんですけど、ヤオリンはお年寄り二人用が基本。だから、つぶれない。お年寄りを大事にしてくれるから、みんな行くんです。俺らもバーベキューっていうと、オオ○○に行かないでヤオリンに行く。義理みたいなもんですかね。


側から見ていても、西方は地元を大事にする人が多いし、結束も強いと感じるますよ、どうしてなんでしょ?


西方は村から町になって市になった。青年部なんかは、栃木市に合併してから、必要以上に西方町というのを出すようになってきたと思うんですよね。意識して、ですね。


あとは何なんだろうね。まず中学校が一つというのがいいのかな。西方中しかないんで。中学校二つとかになってくると、若干の小競り合いが出てくるじゃないですか。「おまえ、どこ中だ」みたいな。それがまず無いっすよね。みんな中学で一緒、みんな知り合い。


「にしかた有志の会」っていう謎の団体は、最初は青年部みたいな感じで動いていたんですけど、草刈りやるからって集合すると、いまだにキャバクラだのそういうところに行っているような、地域に貢献なんかしなさそうな奴も、なんか分かんないけどとりあえず集合するみたいな流れになってきてる。やっぱそこは、切腹ピストルズの隊長がいるっていう旗があって、そこはもう断固としてみんなの憧れだから、そこに集まる。ましてや俺らが楽しそうに草刈りやったりしているので。


結局、日曜の昼間なんか暇じゃないですか、独身男は。お店もやってないし。だったら、草刈りして、みんなで乾杯してみたいなのが楽しいって気づいたらしくて、ど田舎の準備とかも、そういう人が増えてきて。ぼちぼち届くと思うんすけど、青年部の半纏を青年部じゃない奴も欲しいって言ってきて、追加で四着を頼んでます。なんかほんと面白くなってきた。松波(註八)っていう地元のバンドも「俺らは半纏着ないよ」みたいな感じだったのに、徐々に「松波は藍染めでそろえようか」みたいな(笑)。


 


地元を大事にすることは、先人から引き継いできた歴史を大事にすることでもあると思うんですけど、青年部で「寺子屋」という名前で地元の歴史の勉強会をやっていますよね。その第一回が、大さんの家の奥の山にある八百比丘尼堂(おびくにどう)についてでしたよね?



そうそう。そのお堂の鍵は、先祖代々、市からうちが預かっているんです。



八百比丘尼公園について(栃木市観光協会ウェブサイトより転載)

https://www.tochigi-kankou.or.jp/spot/obikuni-kouen

真名子に伝わる八百比丘尼伝説ゆかりの地に設けられた公園です。18歳の美しい姿のまま不老不死となった伝説の主人公・八重姫が、尼となって各地の困っている人を助けながら旅を行い、八百年以上生きたという長寿伝説が残っています。園内には、八重姫が尼になった自分の姿を彫ったとされる八百比丘尼尊像が安置されている八百比丘尼堂や、八百年が過ぎてなお変わることのない自分の姿を映したといわれる真名子八水の一つ姿見の池があり、季節感豊かな景色を楽しむことができる。お堂の天井には色彩豊かな動植物の絵が描かれており、荘厳な雰囲気が漂います。




俺、ものすごく後悔していることがあるんすけど、同居してたおじいちゃんから、八百比丘尼様のことを何ひとつきいてないんですよ。隊長と出会ったのも、おじいちゃんが死んじゃった頃だったし。それまで、年寄りを大事にしてなかったし、古いものにも民俗風習みたいなことにも、正直言って全然興味なかったんで、質問すらもしたことがなくて。それだけは後悔している。気づいたら、昔のことに詳しい人は、ほとんど亡くなっている。だから、西方の生き字引、中村良一先生からは全部聞き出そうってことで、いろいろ教わっているんです。元役場の職員で、取り壊しが決まった蔵から古い民具や半纏や文献資料なんかを救出して、ひとりでコツコツ保存活動している人なんすよ。寺子屋の一回目は、その良ちゃんに、あ、俺らは良ちゃんって呼んでいます、大先輩なんすけど。良ちゃんにお願いして、市民ホールで八百比丘尼伝説の話をしてもらいました。



あ、そうそう、八百比丘尼伝説は、やっぱり伝説が残っている福井の小浜市から保存会みたいな人たちが、西方にも視察に来たんです。大学の先生らも交えて、結構熱心に、全国の八百比丘尼伝説を調べているみたいで。全国百二十一箇所に、少しずつ話は違うんだけど不老不死の八百比丘尼様の伝説があるらしく。全国津々浦々を歩いて、最後は、小浜市の洞窟で死んだらしいんです。


小浜の伝説では、化け物みたいな扱いされているんですよね。人魚の肉を食って永遠の命を手に入れて、最後は耐えられなくて自殺した。こっちの話だと、みんなが羨む美人で毎日のように男が訪れて、結婚してくれって言われ続けるのが嫌で、髪を剃って出家して、全国津々浦々を困っている人を助けながら歩いてまわって、最後は小浜の洞窟で死んだってことになっているんすけど。



地域色がある話がいろいろあってこそ、伝説って面白いと思うんですけどね。



うん。あっちの人たちから言うと、いろんな話がありすぎると、日本の文化の歴史に残せないんですって、学問的に。それに、全国の伝説を同じものに統一した上で全国に知らしめたい、と。でも、やっぱりそんなことできないじゃないですか。大筋は同じでも、地域地域で話が全然違う。どこの地域がどこで折れるかっていうのは、たぶん無理な話で。




視察の人たちは「ど田舎にしかた祭りの前後で来てくれたんすよ。それで、西方に入って、俺らと一緒に準備とかも手伝ってくれる中で、こっちの八百比丘尼様の話とか聞いたら、なんだか熱量というか次元が違うって言ってくれて。向こうは大まじめに大学の研究室とかも入って、あそこがこうだ、あそこがああだってやっているのに、西方だけはTシャツ作ったり学校で八百比丘尼様を知る授業があったり、八百比丘尼だけじゃなくって、狼信仰とかもやっていて・・・。拍子抜けして帰りましたね。極めつけに、ど田舎にしかたまつりに参加して、西方をすべて分かりましたみたいな感じで帰って行ったんで、西方は西方で頑張ってくださいって(笑)。

後日談:小浜市の方たちは、二〇二〇の「ど田舎にしかた祭り」にも来てくれたそうで、伝説が繋ぐ地域と地域の交流、良いですねえ。


 


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山の木を殺すか、活かすか

未来に何を残すか

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悲しいことに、いまここで見えている山のほとんど全部が、八百比丘尼堂を取り囲むみたいに、太陽光パネルのメガソーラー発電所(註九)になる計画があります。東京ドーム三十個分の面積です。

ひそかに狼煙を上げているんすけど、ただやっぱり、田舎もんってそういうのに弱くて。こっち側のゴルフ場もつぶれて、そこにソーラーパネルがズラリと並んでいるんです。そのときも反対の署名を集めたり業者との話し合いをしたり。こっちが何としても開発をやめさせたくてけんか腰で行ったとしても、向こうも交渉人みたいのがいるわけじゃないですか。話がうまいから、このへんの年寄りなんか、相手にだんだん情が湧いちゃって、じゃあ、いいよ、いいよ、しょうがねえみたいな。ほとんどが息子や娘も家を出ちゃっているし、そんな先のことは考えられないから、って。


まあ百歩譲って、お堂の周りだけはどうにかならないかなって、有志で動いて業者とやりとりを始めるところなんですけど。コロナで気を抜いてたら、いきなり学校始まったときに、事業者からの文書を学校で配られたって子どもが持ち帰ってきて、それがまた「このたび工事をすることになりました」みたいな文章なんです。興味ないお母さんは、「ああ、そうなんだ、決まったんだ」ってなっちゃうじゃないですか。でも、実は全然決まってない話で、まず、この伝え方からおかしいだろうってことで、今度、学校に集まって話す機会をつくるんですけど。


ここの山の向こうに真上(まがみ)っていう地区があるんですけど、そこも山が太陽光パネルだらけになっているんです。台風十九号の時に倒木でえらいことになって、発電もできない状態で道路も封鎖。業者は早く直したいわけじゃないですか。だけど、栃木市が道路を直さないと、業者は現地へたどり着けない。だから、栃木市に早く直せと要請するし、道路工事の業者は、ありえない工期で道路を直すように依頼される。結局、税金もそこに使うわけじゃないですか。事業者の利益のために。


あのへん、一時間ぐらいあれば尾根を歩けるんですけど、すごいいい景色ですよ。鹿沼市になるんだけど、大倉山があって、ここからはちょっと見えないですけど。ここ真名子から大倉山あたりは、日光と並んで家康公の埋葬の候補地にもなっていたらしいです。


八百比丘尼堂もそうだし、この下にある大宮神社っていうのもそうなんですけど、その柱が田舎にあるお堂にしては上出来なんですよ。というのは、よく言われることなんすけど、東照宮で仕事する宮大工が、冬の間は仕事にならないから下りてきて、鹿沼やこの辺りで木工事の仕事をしていたって。まあそういうことなんだろうと思います。




そんな歴史がある山々で、東京ドーム三十個分の面積も木が伐採されて、八百比丘尼様の背後にソーラーパネルがズラリと並ぶ。想像しただけでもおぞましいですね。



まあ、そういうことになってパネルに囲まれたとしても、俺はここで一生楽しく暮らしていける自信はあるんすけどね。ここ、薪小屋だって、薪ストーブも持ってないし、囲炉裏もまだ作ってないのに、こんだけ薪わりして、道沿いに垣根みたいにズラリと並べているのは、当てつけの意味もあるんすよ。いろいろなエネルギーがあるんだぞ!薪の方が楽しいぞ!っていう、ね。(終)




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註〇・タイトル「天下御免」

公然と許されること。はばかることなく堂々とふるまえること。(goo辞書より)。

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一九七十年代にN H Kで放送されていた痛快時代劇のタイトルも『天下御免』だった。江戸の享保/安政の時代に生きた稀代の天才・平賀源内を山口崇が演じていて、親のお気に入りドラマだったこともあり、意味がわからないながらも一緒に楽しんで見ていた記憶が残る。数年前、ふと思い出し、ネット上でアーカイブが観られるかも!と検索するも、たったこれだけだよ(涙)。

https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/

index.cgi?das_id=D0009010167_00000


註一・西方町

栃木市のウェブサイトやウィキによると、西方町が栃木市に編入合併されたのは、二〇一一年と比較的最近のこと。遡ると、一八八九年(明治二十二年)の町村制の施行によって、思川(おもいがわ)が流れる東部が西方村、山間部の西部が真名子村となり、一九五五年(昭和三十年)に西方村として合併。一九九四年の町制施行で西方町となっている。



註二・ど田舎にしかた祭り

第十回目という記念すべき二〇二〇年の祭りは、感染症対策についても慎重に対策が取られ、規模としては縮小され密を回避する工夫もなされながら、千人近い老若男女が町内外から集い、例年以上に密な時間を楽しんでいた。私も「関所」で検温係としてスタッフ参加していましたが、大さんがいう「祭りとしての完成度」をじんわり感じながら新年に向けての充電完了でございました。毎度楽しみな飯田隊長によるチラシの文章もじんわりくる。「ここ栃木市西方町に根付く景色や傳統、新しい文化や人・時間を繋げていく。無病息災・五穀豊穣・家内安全・商売繁盛。来年がどうか良い年でありますよう、今こそ親交と結束、励まし合いを。」 

https://www.tochigi-kankou.or.jp/news/8118


註三・稲安食道

東武鉄道金崎駅近くの和食のお店。昭和八年創業。ネットで検索すると、居酒屋・大衆食堂・ファミリーレストラン・大小宴会・・・と、いろんなキーワードで語られていて地元でも大人気のお店ですね。ぜひYouTubeで「西方寺子屋 ふるさとを学ぶ(一)稲安食道」をご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=QXqB7BXYMK4


註四・金魚湯

文中の「春樹」さんが家族と営む、栃木市の街なかにある銭湯「玉川の湯(通称・金魚湯)」。井戸水を使い薪で焚く。2階の宴会場に隣接して、試行錯誤しながら春樹さんが手作りしたスケートパーク「金魚湯ランプ」も併設されている。

http://www.cc9.ne.jp/~harukin411/99_blank001.html



二〇一九年の台風十九号で被災した際には、切腹ピストルズと、ロケの際の拠点のひとつとしていた映画監督・豊田利晃監督と『狼煙が呼ぶ』関係者から、すぐさま「救援の狼煙」が上がった。

https://www.imaginationtoyoda.com/post/「台風十九号被害の栃木市「金魚湯」救援のろし」


註五・紺仁

新潟県小千谷市の紺仁(こんに)染織工房。創業は一七五一年(江戸の宝暦元年)という老舗。二〇二〇年の「ど田舎にしかた祭り」には、紺仁代表の松井佑介さんがゲストとして招かれ、櫓の上で、とってもわかりやすい「半纏談義」をご披露いただきました。職人さんも会社経営の皆さんも、地域の顔役の皆さんも、いかがでしょう、揃いの半纏オーダーメイド! 生業、事業、活動、生き方・・・、仲間と志を共有しながら、一本の軸を通してくれるのが、日常の日々にまとう半纏!です。

http://www.konni-aizome.com


註六・針谷伸一さん

大さんとは幼なじみの針谷さんが語る「みんなで好きな地域をつくる」インタビュー記事とムービーは、こちらです!言葉に説得力がありますねえ。大さんも登場する映像は、八百比丘尼公園で収録。

全国商工会連合会「IMPULSE 地域を魅せるプロジェクトvol.9」

https://21impulse.jp/special/tochigi/


註七・ダイニング花いろ

東武鉄道金崎駅近くの韓国家庭料理を中心としたダイニングカフェ。店主あきさんの人柄もあって、なんとも居心地がよく、切腹ピストルズや豊田組の活動拠点ともなっている。二〇一九年十二月七日には、ど田舎にしかた祭り番外編として、豊田監督も参加しての『狼煙が呼ぶ』上映会も花いろで開催されています。メイキングムービー『狼煙に呼ばれて』も、この時点でまだ完全に出来上がっていないものの、まずは西方の皆さんに見て欲しいと、上映されたとのことで、SNSに上がっていた会場の写真は、皆さん、とにかく笑顔、笑顔、笑顔、お一人おひとりの表情がとても印象的でした。

https://www.facebook.com/aki8716



註八・松波(まつなみ)

メンバー全員が西方町出身、生まれも育ちも西方バンド。藤田兄弟の2トップM Cは軽妙で、あったかく、「ど田舎にしかた祭り」では、ちびっこもお年寄りも体を揺らして盛り上がる。私は特に『あたりまえ』が好きですねえ。こちらでどうぞ。

https://www.youtube.com/watch?v=8abSKQpMIBs

Instagram  https://www.instagram.com/matsunami_nskt/

Twitter   https://twitter.com/matsunami_nskt

藤田兄弟のご実家が営む寿司割烹「松波」は、稲安食堂さんやダイニング花いろのご近所です!  あの界隈、幸福密度高そう!



註九・真名子地区メガソーラー発電所建設計画

この問題については、その後、地域の里山の保全に取組む会として「にしかたふるさと保存会」が立ち上がり、建設の中止を求める署名活動や事業者や市との話合いなどを行っていましたが、計画の白紙撤回には至らず。

chng.it/ppz5PQfH



しかし、子どもや孫や、将来世代に豊かな地域を引き渡していくための活動は、さまざまな形で続く続く続く。お天道様にも世間にも、何にもはばかることなく臆することなく、堂々と「天下御免」の旗を持ちて。



>>前の記事「大口ノ純の伝」へ
http://editorialyabucozy.jp/antimodernism/2506

挿絵|黒田太郎
写真・聞き書き|簑田理香
取材・二〇二〇年七月十九日、
西方町真名子「薪小屋」にて
公開・二〇二一年一月六日

大工大
切腹ピストルズ大工隊員 生まれも育ちも野州西方

二〇一九年七月十九日、東京渋谷のライブハウス。いちばん新しく隊員になった、大工大こと荻原大輔さんが持つ「御免」の幟旗が、今となっては遠い昔の幻のような「密」な観衆の頭の上ではためいていた。切腹ピストルズも音楽や制作(出演も)に全面的に協力をした豊田利晃監督の『狼煙が呼ぶ』のプレミア上映会。今でもまだ皮膚感覚で覚えている会場の熱気の中、スマホで撮影した一枚。左端に笑顔の大さんが映る。

鉦を鳴らす飯田団紅氏のもと、平太鼓、締太鼓、篠笛、三味線の隊員がいて、そこに新しく「大工」の隊員が加わった。もとより楽器を持つ隊員たちも、それぞれの生業や暮らしにおいて、また切腹ピストルズの活動において、飯田隊長の言葉を借りれば、「明治維新からの近代化で途絶えた庶民の生活文化の歴史をつなぎ直す」ことが軸になっている。そこに、楽器の代わりに斧や鋸、鑿(のみ)を持つ大工隊員が加わることは、とても自然な流れのようにも思えるけれど、ご本人にとっては、どういうことなのだろう。そのあたりの経緯や思いを聞きたくて、二〇二〇年七月八日、栃木市西方町(註一)の真名子(まなご)地区に、大工の大さんを訪ねた。

栃木県の南西部に位置する真名子地区は、日光から連なる山々の自然豊かな細い谷筋にある集落。父と営むおぎわら建築の事務所と作業場がある通りの斜向かいに、大さんが「薪小屋」と呼ぶ、手を加えながら進化中の小さな小屋がある薪置き場で、お話を聞いた。まずは、小屋づくりのお話から。

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こっちがすごいの、ゆらゆらガラス。大正か昭和の初めの頃のガラス。拾ってきて仕舞っておいたんですけど、これを機に使おうと思って。大工という職業柄、古い建具とかは、声をかけておけば、どんどん集まってくる。これもすごいの。簾戸って言って、夏の間だけ、これに建具を入れ替えるっていう。よほどお金持ちじゃないと持てなかったんじゃないかな。

あっちの作業場の一角に、集めてきたものを使って、ちょっと憩いの江戸部屋みたいのを作っていたんですけど手狭になって、もうどうしようかなと。基本的にアウトドアで育って、家の中でテレビ見るより表にいたいタイプなんで、次は外に小屋だな、と。
それで、これの前に、もうちょっとこじんまりしたのを建てたの。だけど、何かしっくりきていなくて。ああ、いいや、もう一回やり直そう・・・ってぶっ壊しちゃって、ゴールデンウイークに二日でつくった。だから、大工さんが見ると、嘘だろうっていうつくりなんすよね。

大工さんが見ると? ・・・って、大さん、大工さんですよね?笑

うん、大工さん(笑)。仕事は大工なんすけど、こういうのはもう日曜大工の気分でやる。真面目にやっちゃうと材料費も馬鹿になんないし時間もかかっちゃうから。いちいち測って切ってとかは、嫌なんすよね。普段やっていることだから。

「ど田舎にしかた祭り」(註二)もそうなんすけど、雰囲気で作っていくのが、やっぱ一番楽しいじゃないですか。いちいち図面見て、確認してとかじゃなくて、わいわい話しながら気の向くままに。いや、むしろ準備している時の方が楽しい。いざ当日を迎えちゃうと、ただ忙しいだけなの。


薪もやっとこれだけ作れた。今どきの薪ストーブ用の薪ってのは、こっちの六つ割りぐらいですね。六つ割りをメインに作りつつ、理想は、この八つ割サイズの細めの薪を全面に積むことなんです。江戸時代にかまどや囲炉裏で使っていたのは、八つ割なんすよね。隊長んちの江戸部屋前に積んであるやつ。あれもそう。隊長の奥さんのおじいちゃんが作っていた薪なんすけど。このへんの田舎の蔵とかの脇に積んであるのは、百パーこっち。
薪小屋作ってから、週末は、子どもが三人いるんで、ここで一緒に呑気に過ごしています。ちょうどコロナも相まって出かけらんないし。バーベキューってカタカナ言葉で言いたくないんすけど、だいたい週末はここでバーベキュー的なやつ、罠猟をやっている友達が仕留めた猪や鹿の肉を焼いてます。そして週末の小屋は禁煙になります。レゴブロックとか宿題とか、子どもらがこっちに持ってきてやり始めて、「タバコは外で!」って言われちゃうし。もう完全に乗っ取られています!(笑)

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髪を黒くして
出直して来い!
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家業の建築は、何代目ですか?

親父が初代だから、二代目。おじいちゃんは、もう死んじゃったんですけど、鉄工所に勤めてた・・・。まあ、似たような感じですよ。

進路を決めるとき、迷わず大工に?

いや、お年頃の頃は、あ、今、三十六なんすけど、俺が高校生ぐらいのときに、カリスマ美容師みたいな奴らがちょうどちやほやされている時代で、正直、そういうキラキラした世界に、めっちゃ憧れていた時もありましたね。小学校の頃は、基本的にずっとお勉強できない子で、下から二番目とか。お勉強はとにかく大っ嫌いで、お風呂で掛け算九九を言わされるのが嫌だから、お風呂に入らない(笑)。四つ下の妹がいるんですけど、毎日聞いているから、妹のほうが先に言えるようになっちゃうみたいな。

中学校のときが一番のモテ期でしたね。しゅっとしていて、顔もきりっとしていて、結構モテたんです。よその中学校の女の子からも。あの頃は家の電話しかやり取りできなかったから、会った時に家の電話番号を教えて。うちの両親は、そのへん理解あるほうだったから、電話かかってきたりかけたり、おおっぴらにやっていましたね。

進路を考えたのも中学のときで、冗談半分で、俺は宇工(宇都宮工業高等学校)で建築を勉強するみたいなこと言っていて、でも、全然行ける頭はなくて、先生ともけんかしていたり、まあ、「今工(今市工業高校)なら行けんだろ」って先生に言ったら、「大輔、勉強したいなら私立のほうがいいぞ」って。「白鴎大学足利高等学校ってところで建築のお勉強ができるから行きなさい」と。それで、足利に通ったんすよ。定期に月三万。定期をなくしたって言って母ちゃんから三万追加でもらったりして・・・(笑)。

稲安食道(註三)でバイトもしていました。稲安は、週六で高校生もバイトができて月に八万、九万もらえるんですよ。だから俺、高校生の頃が一番財政が豊か! たぶんその頃がバブル最後の時期だったのかな。「おい、あんちゃん、ビールどんどん持ってこい」みたいなお客さんばっかり。ホールもやって、皿も洗って、お米も研いだ。

稲安って、すげえ厳しいんですよ。夏休みだったかな、金髪にしてバイト行ったら、ぶったたかれて「帰れっ!」って言われて。親は夏休みだからってO Kだったんす。でも、稲安の奥さん、マーちゃんって言うんですけど、稲安のマーちゃんが。そういうところすげえ厳しくて「帰って黒くして出直して来い!」みたいな。ったく、うるさいなと思って(笑)。まあでもね、やっぱりマーちゃんに言われちゃしゃあないみたいな感じでしたね。俺が髪を黒く戻して行ったら、今度は、まーちゃんにすげえ褒められて。同じバイト仲間とかが、「俺なんかずっと黒いのに褒めてもらえないんだよ」みたいな(笑)。

二年ぐらい続けて、稲安のバイトはもういいかなと。ちょっとハードだし、バイク買うのに組んでいたローンも終わったし。で、次にコンビニでバイトして。コンビニでバイトするイコールたばこ代はかからないというのが当時のルール(笑)。バイクの雑誌とかファッション誌とかも、まあ、お金は払わなかった(笑)。でも、絶対バレてますよね。ほんとすみませんでした!でもまた、そのコンビニのおばちゃんもすごいいい人で、かわいがってくれまして。

大さん、どこに行っても周りの年長者に可愛がられるタイプですよ。バイトの収入って、バイク以外に何に使っていたんですか?

洋服とか靴に。ちょうどナイキのスニーカー全盛期。第一次ブームで。エア・ジョーダンシリーズとか。今もそうなんすけど、基本的に履物が好きで。収集癖も人並み以上にあるんで・・・。

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運命の出会いは
クリスマスイブ
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西方に、すっげえ変わった人が東京から引っ越してきてるって、ヒロフミ君から聞いたのは、もう六年前になんのかな。ヒロフミ君と俺は、年は一回り離れてるんすけど、消防団とかですごい気の合う仲間です。で、あるとき、ヒロフミ君ちに行ったら、ちっちゃい赤ちゃんがいるんすよ。どこの子って聞いたら、東京からいとこ家族が引っ越してきて、両親が出かけなきゃなんないから預かっているって。その赤ちゃんが、隊長とめぐみさんの長男の一之助くんだったんすよ。ヒロフミくんの従姉妹というのが、西方出身のめぐみさんで・・・。それでヒロフミくんに「従姉妹の結婚相手がすげえ変わってるんだよ、切腹ピストルズって検索してごらん」って言われて。そのとき検索してきて見た画像が、今も出ると思うんすけど、隊長とすーさんと太一さんと久坂さんの四人の頃の写真。まだ今ほど野良着感がなくて、すーさんなんか、たぶんワイシャツとネクタイみたいな、宣材写真みたいなの。正直言うと、東京にはこういう人いっぱいいるんだろうなぐらいしか思わなくて「へえ、変わった人だね」って言って終わっちゃったんですよ。

それから、一之助くんが、うちの子と同じ保育園に上がった年に、保育園で初めて隊長を目にして、あ、この人だってすぐにわかった。ヒロフミ君からは、「隊長が古い箪笥(たんす)を探しているよ、大輔、解体現場で出ないの?」って言われて、ちょうど何となくキープしておいたものがあって・・・。切腹ピストルズの検索を続けていたら橋の下(橋の下世界音楽祭)の映像が出てきたりして、よくよく知っていくと、いやもう凄いから。すごい人が西方に来たと思っていたんで、箪笥あげなきゃ!ってなるじゃないですか。好きな人にやっぱプレゼントしたくなるじゃないすか(笑)。それで隊長にインスタでDM送って、やり取りが始まったんです。

隊長も忙しくてなかなか会えずに、なぜかお互い時間が合ったのが、二〇十六年のクリスマスイブ。朝八時ぐらいに家に遊びに行ったら、隊長は外でゴミ燃しなんかしていたな。会うまでは、正直、ネットで出てくる映像や写真の姿は衣装だと思ってたんすよ。実際は違うんじゃねえかと思っていたら、もうそのまんまの姿でいて、それがすげえハマっていて。そのままおうちに上げてくれたんですけど、奥さんのおばあちゃんが住んでいた家を、きれいに直しちゃって、変にリフォームされているわけじゃなくて、すげえ居心地が良くて。奥さんがまたマメな人なんですよ。

そんで、いろいろ質問したり、話をしたりする中で、「西方のどんど焼きすごいよね。あそこで演奏できるといいな」と言う話になって、「じゃあ俺、どうにかします」って言って。やっている人たちも地元の人なんで説明して話してみたんですけど、「ネットでいろいろみたら、メンバーに入れ墨の人がいるからダメだ」とか言う話になって、それがちょっと悔しくて。今でこそ、いろんな動画が上がっているけど、その頃は、反原発の集会に呼ばれて演奏してる動画もYouTubeの上のほうにきちゃっていることもあって、年配の人たちは勘違いしちゃってんだよな、仕方ないかなと思いつつ・・・。

隊長も「まあまあ、俺ここに住んでいるんだから、そんな急がなくても大丈夫だよ」みたいなこと言ってくれたんだけど、俺的には「すみません、どんど焼きで演ってもらいますと言ったのに」と言う気持ちでしたね。それからまあ、一年くらいかけて次の「ど田舎にしかた祭り」に出演してもらおうと思っていたんだけど、もうすごい意気投合しちゃって、隊長から野良着について、いろいろ教わったりしながら、ど田舎の前にもう盛り上がっちゃって。

隊長の家の納屋を改装して、江戸部屋を作ったのは、五月だったかな。五月ってだいたい仕事が暇になるんで、俺も好き放題、解体現場行ったり、野良着見つけてきたり江戸部屋を作ったりしながら、隊長にも「ど田舎にしかた祭り」に関わってもらって・・。ど田舎の準備しながら、隊員の野中克哉さんが監督した映画『根っこは何処へ行く』の栃木上映会をやったり、西方の寺子屋だとか言いながら、地元のこといろいろ調べたり・・・。

そして二〇一七年十二月、ど田舎にしかた祭りに、切腹ピストルズが初参加!ですね。

うん。百聞は一見に如かず! 切腹ピストルズの演奏で、年寄りが冗談ぬきに泣いちゃって。うちの父ちゃんとかも、その前からもうだいぶ行き来はあったんで「飯田君、よかったよ」みたいな状態だったんですけど、どんど焼き関係者で、入れ墨を心配してた人たちも「どんど焼きにも出てくれるんだよな、飯田君」みたいな(笑)。来い!来てくれ!みたいな(笑)。いやもう本当に見事にコロッと。

ど田舎直後、SNSで「不思議なぐらい老若男女が盛り上がっているお祭りだ」と言ってくれた人たちが多くて。いや、ほんとありがたいなと思って。町のお祭りごとって、若いのが本気出しちゃうと、年寄りがついてこられなくなっちゃったりするパターンが多いじゃないですか。ど田舎にしかた祭りも、隊長たちを混ぜる前のど田舎フェスなんて言っていたころは、お笑い芸人とバンドとヒップホップのキッズのダンスとかのプログラムで、やっぱ若手がやっているんで、そういうのになりすぎて、じいちゃん、ばあちゃん、よく分かんないけど椅子に座って見ているみたいな。最後の抽選会だけ盛り上がるみたいな・・・。そんなお祭りだったんですよ。

一応、行政からお金をもらっているお祭りなんで、結構縛りがあるんすけど。行政側も地元の人なんで、一緒に祭りを作っている感じありますよ。実は、うちのおかんも役場に勤めていて、祭りの四回目ぐらいまで地域振興課の課長だったんで、会議ではおとなしくしていて、うち帰って「あれどうにか通せよ」みたいな(笑)。

最初にやったのが、ど田舎祭りにスケボー場を作ろうって、予算を申請したの。そうしたら、なぜスケートパークが地域振興のために必要なのか?を、お役所は問い詰めてくるわけ。それをうまく「だからね」って言って。「スケーターっていうのは公園で勝手にやっていて、悪い奴らだというイメージあるかもしれないけど、彼らは感動を呼べるんだよ。それを一回、ちゃんとしたところでやらせてみよう」って。で、あの金魚湯(註四)の晴樹さんにお願いしに行って、初めてのとき晴樹さんが頭でやってくれて、市から降りた予算を託したんですけど、予算以上にいい仕事してくれて。みんな、祭りには結構満足していたんですよ。スケートパークがあることによって、他県からスケーターが来てくれて。ついでに、奥さん、子どもも来てくれて、親子でトラクター試乗や俵投げなんかも楽しんでくれて盛り上がる。SNSの評判もぐんぐん上がっていて、いい雰囲気出てきたって、ちょっと満足していたんですけど。さらに隊長が実行委員に加わってくれて、内容も雰囲気もずっとよくなって、祭りとしては完成したんじゃないかな。

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ブランドのマークやタグはついてない
よくわかんないけど、すごくいい!
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飯田さんと出会って他にどんなことが変わりました?

そうすね。まず身なりが変わりましたからね。前はもう、ナイキとか・・・。高校生のときは、私服はダボダボ。俗に言うBボーイ的な。その後、アメリカンのバイクに乗っていたんで、シャドウっていうデカいの。そういうバイカーみたいな格好。洋服のジャンルで言うと、コロコロコロコロ変わっていましたね。ゲスパン履いていたり、だぼだぼにハマったり、リーバイスにはまったり、ディッキーズ履いたりとか。いろいろ変遷はあるんだけど、ハマると、その時は、とことん。

隊長と出会った頃なんか、そのころはピストバイクっていう、自転車なんすけどブレーキがついてないやつ。俺のインスタとか、すげえ遡るとその写真は出てくるんすけど、それに夢中で、小遣いもほとんどそれに突っ込んで、週末となれば、輪行バッグに自慢の自転車を積んで、東京の友達と憧れの渋滞のすり抜けなんかを・・・。

そして、今は雪駄(せった)と野良着と半纏!

うん! クリスマスイブに初めて会ったとき、まず、野良着の授業を受けたんです。俺が、すげえ質問しまくって。そういうのってどこで売ってんすか?とか。隊長もいろいろ自分のお気に入りを持ってきてくれて、「これがな」つって教えてくれたり、新潟の芸術祭でやった「野良着の逆襲」展の写真をパソコンで全部見せてくれて、実物はないけど、こういうのがこうでと教わって。もともと切れたズボンとかも好きだったんで、うわあ、かっこいいと思って、欲しくなっちゃうんですよね。ヤフオクで買えるって言うから、ずっと検索してたんすけど、本当にかっこいいのだと結構いい値段するんすよ。そういうのをスクショして隊長に、これどうでしょうかねって聞くと、「高いからダメ」つって。こういうのは高い金出して買うもんじゃないんだからって。「このへんでも絶対あるから、大輔、探してごらん」って言われて。で、ほんと真名子じゅうの知り合いの蔵を見せてもらったら、まあ出てくる出てくる。

そうこうしているうちに、真名子村の消防半纏も出てきて。それを調べたら、普通に戦前の手掛かりが残っている。昔のこととか、百年前のこととか、何かもう、すごい近くに感じちゃって。隊長が、江戸は、江戸はって言うもんだから、一気にそこに近づいちゃって。行けば行くほど野良着も見つかるし、またかっこいいんですよ、どれも。

そもそも、昔からユニクロの服とかはもちろん嫌いだし、誰も着てない服が欲しいみたいなのはずっとあって、お気に入りがあれば色違いを買うとか、そういうことを続けていた。靴とかでも、たとえばVANSのスリッポンだったら、白、黒、チェック柄、パンチングレザーとか、黒スウェードとか、シリーズで集めていたんですよ。そういう収集癖のある人は、野良着なんか格好の畑なんですよ。

別にタグが付いているわけでもないし、もちろんブランドのロゴがあるわけでもないから、よく分かんないまま、よく分かんないけど、これすごくいい!とか、これかっこいい!とか。それ大事だと思う。

これも(当日着ている野良着)すごく気に入っていて。麻の一重なんです。あと一枚欲しくても、無いんですよ。このへんって、麻畑だったんです。俺が小学校ぐらいまでは、そこらじゅうで麻を育てていた。だから麻のこういう野良着も残っていると思うんだけど、生産地だからあるというわけでも無いらしくて。麻は、ぱっと見は分かんないけど、隊長は「お、大輔、今日は麻だな」みたいに目が利くんですよ。

それから商工会の青年部では、隊長に図案作ってもらって、新潟の紺仁(註五)さんを紹介してもらって半纏を揃えた。安いもんじゃないけど、十五、十六着かな。半纏着て、みんなで超盛り上がって、隊長もそんな数を一気に注文できる青年部は本当にすごいよって言ってくれて。たぶんその時、自分で言うのもなんだけど、隊長をびっくりさせられたんじゃないかなと。「ちょっと、どうよ」みたいな(笑)。

五月の、仕事がわりと暇な時期に、隊長を連れて蔵がある家を訪ねて回っていたんですけど、その流れで、移住して来て一年くらいの志むらさんの家が床もぼこぼこで、もうどうしようもなくて「大輔、直してあげて」って話になって、隊長と二人で直して・・・。それでまた、その余力で、隊長んちの納屋の改修に取りかかったんすよ。母屋と同じ敷地に納屋があって、その脇の下屋、庇がぐっと降りているところに古い箪笥とか囲炉裏とかを置いて、隊長はそこでタバコ吸ったりして、江戸の風に吹かれていたんすよね。「納屋の中には、何が入ってるんすか」って聞いたら、おじいちゃんの道具なんかがいっぱい入ってるんだと。

俺が、あんまり民俗資料を見つけてくるんで、あ、昔の道具とか野良着とか道具のことを、俺ら、民俗資料って呼ぶんですけど、それで、置き場をどうしようかっていう話も出ていたし、それじゃあ、納屋の中を片付けて・・・ということになって、畳屋のしんちゃん(針谷伸一さん 註六)も一緒に小上がりを作って古い箪笥を並べたりして・・。その小上がりを作る時、やっぱり新しい材料で作ってもカッコ悪いから、近所に古くて傾いている小屋があって、そこも壊したいって家主さんから言われていたんで、じゃあ、あの小屋を壊して材料にしよう、って。よくできているんですよ、昔の木造は壊れそうで壊れなくて。それを、隊長や志むらさんも一緒に手作業で丁寧に解体して、その材料である程度、中を作ったんすよ。

そんな感じで「江戸部屋」を作っている時に、隊長から「大輔も切腹ピストルズ入っちゃいなよ」みたいな話があって、いやいや、俺、無理ですよって。だって、行動範囲も半端じゃないし、中途半端になっちゃうのも嫌なんで、一回断ったんですけど。

しばらくしたら、「白地に一番っていう半纏がいっぱいあるから、今、切腹ピストルズに入ったらこれをあげるよ」って言ってきて(笑)。超欲しい! だけど、いや、いけないと思って。安易に入ったところで中途半端だし。楽器できないし・・・。そういうことを伝えたら、隊長が言うんですよ。「別にね、切腹ピストルズっていうのはバンドじゃないから。バンドって思われるのも嫌だし。隊員に大工とかがいたほうが絶対いいんだよ」って。何となく、バンドじゃないなっていうのは分かっていたんですけど、あらためて隊長からそうやって聞くとね、いや、バンドでも十分かっこいいのに、何でバンドじゃないって言いだしたんだ、この人はって。

それで結局、「隊長、やっぱ俺、入りたいです。白い半纏、欲しいです」って言って(笑)。LINEのグループとかに招待されて、いや、でも俺、どうしようと思って。いまだにどうしようと思うことはいっぱいあるんすけど。やっぱね、こうやって、今日の取材みたいに切腹ピストルズなにがしで来てくれている人に、「これ切腹の大工だから」とか紹介されても困るじゃないですか。基本的には、主として演奏をしている人たちっていう印象があるのに、いきなり大工が来たところで、何か困っちゃうだろうなと思いながら、まあ俺も困っちゃうなと思いながら・・・(笑)。

好きな楽器やればいいって言われているんすけど、いまだにやらずに、何となく自分の中では楽器はやらずにいようかなと。子どもが三人でしょ、それで奥さんが美容系のサロンで働いているんで、週末にいないことが多くて、そうなると、なかなか遠征もいけないんですよね。県内とか渋谷のイベントとか、行けるときは、基本的に旗を持つんです。練り歩きだったらいいんですけど、渋谷のライブハウスのときも、「大輔、じゃあ旗持って」って言われて、そもそも「ステージに上がれ」って言われた時点で、お断りしようと思ったんです。それで野暮だけど、隊長に「俺、旗持って何をしたらいいですか」って聞いたら、何してもいいって言われて。何してもいいって、それ一番難しいだろって(笑)。最初はおとなしくしていたんですけど、いや、おとなしくしているのも退屈だなと、ステージから降りて観客の方に入っていっちゃいました!

その後かな、四国で「切腹ピストルズ村」とか、バンドじゃない動きをするときが結構あって、絶対今回は俺の出番だな、今回は大工の出番だな!と思うところもあって、一応、奥さんに「行きたい」って言うんだけど、もちろんダメって。やっぱ今は子どもちっちゃいから我慢しようということになります。でも、もうちょっとしたら、俺もみんなと一緒にあっちこっち行って、お役に立てればなって思います。

あとは、切腹では、ヤフオクとかでの民俗資料収集係ですね。基本的に物欲と収集癖が人より勝っていて、ヤフーオークションやメルカリは一日二十回ぐらい開くんで。結構、出るんすよ、民俗資料的なものがポコンと。俺がすぐ発見して、自分のお小遣いで調達できるものは調達して、これはちょっと切腹ピストルズ的教育資料だってものは、LINEのグループに上げて、経費でこれを落札して財産にしましょうって提案したりしてます。

この八割(やつわり)下駄。これ三足目。切腹ピストルズの物販で出てるんすけど、おもしれえだろって隊長に教えてもらって。昔、ぺにゃぺにゃの草履で職人が仕事してて、だんだん釘を使うようになると、みんな釘を踏んづけて、底がダメになっちゃうんで、頭のいい奴が草履を改造して作ったんじゃ無いかと。初代の安全靴っすよ。

これを隊長に教えてもらった時に、ナイキフリーっていうナイキのスニーカー思い出したんすよ。底に、こういうスリットが入っているスニーカー。でも日本は、江戸時代からこういうのを生み出して使っていたんだよって、なんか嬉しいすよね。

昔は、四つに割れていたんです。だから八割って言う。でも、もうちょっと改良されて、今は五つに割れて、でも呼び方としては、今も八割。地方によっていろいろあって、板裏草履っていう表記もあるし、八割下駄っていう表記もある。あ、俺のコレクション、持ってきちゃいますね!


切腹ピストルズが集まると、履き物だけでも、一瞬にしてこういう光景になりますから。しかも、俺を含めみんな、こういう一流品を履きつぶす。やっぱ、なんか結構いろんな人が言っているけど、博物館に飾っておいたんじゃ意味がない。何でもそうだけど、使ってなんぼって言うじゃないですか。まさに切腹ピストルズは、履物にしろ野良着にしろ、使い倒す。

隊長なんて、壊れちゃったら、すーさんに直してもらって、どうにもなんないのは、ほんとに履きつぶして捨てますからね。俺とかちょっとビビりなんで、履きつぶせないんすよ。

保育園のお迎えに本雪駄を履いていったら、その保育園で一番年配の先生に「タイチ君のお父さん、そんなの履いているの?」って言われます。今は、その筋の人も本雪駄を履かないですからね。ビニル製でゴム底のものが出回っていますよ。

紺仁の松井さんも、コロナのせいでお祭りがないんで、半纏の注文もガタ落ちだって言ってますけど、そもそも半纏というのは、お祭り衣装じゃないっていうのを隊長とかもよく言っているんですよね。職人の仕事着、普段着ですよね。俺は、義理人情とやせ我慢の名の下に夏は暑いのに半纏着て、冬は寒いのに草履を履くっていうことでやっています。もちろん、建築の現場は、状況とか仕事内容によって、普通に上履き履いたりもしますけど。

ご家族の反応は、どうですか?
親は、遡るとミニ四駆、そしてガンダムぐらいから、人並外れた蒐集癖があるって感じていたらしくて、驚きはないですよね、今度はそうなったのね、みたいな。ただ、全部は見せてないです。もちろん。奥さんにも(笑)。

記事になっても大丈夫?
大丈夫でしょう。ひとつ百円だったってことで(笑)。

あとは、まわりの人たちに「昔のものが好きなんだよね」みたいな話をしておくと、近所のおじさんが、「何か分かんないけど取っておいたから、大輔、集めてんじゃん、あげるよ」って持ってきてくれる。鋸とか斧とかも。薪割りを始めて、斧の世界にも興味が広がりますよ。

隊長の江戸部屋の持ち主のおじいちゃんが山の仕事をしていたんです。その斧に、これがついていました。刃靴(はぐつ)って言うんです。いまどき、なんでもネット検索でだいたい分かるじゃないですか。これだって見つけて、自分でも作ろうってコメリで買った麻ひもで作っているんですけど、それももう嫌で。うちにあった麻で、まず撚るところから始めて作ってやろうと思って。

他にもいろいろね、そこらじゅうの蔵に眠っているものとか、壊れかけた小屋に置いてあるものとか、救出していますよ。米袋、山ぞり、山仕事で使った袋とか。木の箱も集めて、車の中で仕事道具を入れるのに使っていますから。

切腹ピストルズに、お年寄りのファンも多いのは、さっきも言いましたけど、昔のものをみんな普通に使い倒しているからってのもあると思うんですよね。そういうところに、そうそう、そうだよねとか、思ってくれるんじゃないかと。西方のおじやんおばやんも、もうすぐに隊長のファンになって、飯田くん、飯田くんって、一瞬にしてファンです。

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家業と、地域と、
これから先の未来のこと
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薪割りは、斧で?

斧で。出回っている斧って、日本かスウェーデン製なんですって。ものは試しでスウェーデンのハスクバーナっていう斧の大と小を買ってみたんですけど。やっぱね、向こうのは、道具として見ると全然ちゃちなんすよね。分厚いのも出てるんすけど、たかがしれてますよね。外人はパワー系らしいんです。力で解決する。日本人は基本的にパワー不足じゃないですか。だから、道具を工夫して生き抜いてきたんじゃないかと。だから、遅れて一周回ってきても、最終的には、それがかっこいいんじゃないかなって思いますね。

俺、薪ストーブも持ってないし、囲炉裏もまだ掘ってないんで、今のところは、薪は、完全に飾りなんすよ。ビジュアル。塀にもなって、いい景色じゃないですか。薪越しの緑とか。

この赤っぽいのは全部サクラなんすけど、薪の中では神様的存在なんです。サクラの木って燃やすといい匂いするんです。それから、中で捻れているのが多いんですよ。やっぱ大工だから木を見るんですけど、スギ、ヒノキはだいたい、幹もすーっと伸びて、枝もちっちゃいい。でも、サクラって結構、立派な太い枝でも下に垂れないで真横に伸びていくじゃないですか。重力に逆らっているからなのか、中で捻れながら重力に逆らっているのか・・・。だから強い木なんだ、と思って。そういうことも薪割りを始めてやっとわかってくる。

こっちは広葉樹ですね。クヌギ、ナラ、カシ。あのでっかいのはケヤキ。ケヤキってのは薪にはしない木なんだけど、近所で伐採したんで、使わないともったいない。ここにあるのは、大体近所で伐採された木で、錆びたトタンも、解体現場やリフォームの現場から救出したもの。

大工の仕事は天職だと思いますか?

天職なのかもしれないですね。足利の高校を卒業したあと、宇都宮の建築設計の専門学校行ったんですよ。

高校から通算七年、建築一筋の勉強? すごい!
うん! すごい(笑)。 まあ、勉強していた風なんですけど。実は、遊んでいたんで。ここいらの田舎と違って宇都宮の学校なんで誘惑多いし、やっぱり授業には集中できず、日焼けサロンなんかに行っちゃったり。もともと黒いから行く必要ねえだろって思われるんですけど、当時は流行ってたんすよね。三時間目になったら日サロ予約して、四時間目に行って焼いて、シャワー浴びて、飯食って、五、六時間目は教室で寝るみたいな。クズですね。自分のせがれが、そんなんだったら、もう俺はブチ切れるな(笑)。

笑。今の仕事は、新築が多い?

そうですね。基本は下請けをやっているので、一棟いくらで工事一式を引き受けて、一か月半ぐらいで建てる。

下請けの苦労ってありますよね?

まあ、なんの仕事でもそうだと思うけど、現場のことをよく分かってない人が監督だったりするから、普段は指示ばっかり偉そうにしていても、すげえ難しい困難なことに突き当たると、「大工さんにお任せします」って言いだして。こっちも、はいはいってやるしかない。

これからの抱負? 商工会とかでも、経営セミナーとか勉強会をやるんすけど、同業の話とかも聞くと、二つに分かれるじゃないですか。法人にして職人を増やしたいという、そういう将来設計がある人と、そうでない人と。俺なんかは、一生一人でのんきにやっていたいなと思って。どっちがいいかは分かんないじゃないですか。こればっかりは。でもたぶんコロナとかで受注が減ってきたら、従業員を抱えていると、やっぱりきついだろうなと思って。うちなんか親子でやっているから、正直、一か月ゼロでもどうにかなっちゃう。だから、のんきにしてられんのかも。

志むらさんとか隊長とかみたいな、好きな人で、自分じゃできないけどDIYしたい人とかのサポートしつつ、家業をやってけたら。あんまり儲けることばかり考えるんじゃなくて、材料代とかでね。損して得取るじゃないけど、そういうことをやってれば、世の中が厳しくなっても食いっぱぐれることもないかなと思う。あのベンチも、俺がぱっと簡単に作ったんすけど、ホームセンターには売ってない形っていうか、長椅子みたいな。こういうのを作ってみたりして、あわよくば、欲しい人がいれば。そんなにびっくりする値段じゃなくて販売して・・・。

この前もここで、男八人ぐらいで延々十一時間ですからね、バーベキューしてました。西方で桜並木を植樹したんですよ。第一回の活動として草刈りをして、午前の十時ごろには終わって、店もどこも開いてないじゃないですか。コロナ対策でテイクアウトだけのところが多かったし。じゃあ、とりあえずうちへ行くかって言って。多少買い込んで、ここ来て。みんなで暑いなか、ここで火も絶やさず、気づいたらもう夜の十一時になっていて。それでも一人二千円とかでしたからね。そんなにお金もかかんないし。

今、条例でタバコも吸えない店が増えてきていることもあって、江戸部屋だったり、ここだったり、あとは畳屋の工場の中とか・・・。飲食店で集合するんじゃなくて、もうほんと、そういうふうになるんじゃねえかなと思って。ひと昔前は、だいたい、誰かんちの茶の間とか客間とかで集まっていたのが普通だったからね。これがコロナで、ちょっと江戸に戻れるんじゃないかとか、そんな風にも考えちゃいますよね。

そうやって、西方の面々が集まることが増えてきていて・・・。自分もそうなんすけど、平日、仕事休んでまで、祭りの準備。それにこの前も豊田利晃監督の映画の撮影も、こっちで五日間やったんすけど、その時もね。

商工会青年部の枠を超えて、今、「にしかた有志の会」っていう意味の分かんない団体を作って、LINEのグループなんかも作って。隊長が先頭で日程を打ち込んでくれて。サラリーマンとかもいるんすけど、「地域の大事な仕事があるから」って有給取っちゃって準備や手伝いに参加してくる。豊田監督の『破壊の日』は、西方でも撮影したんですけどね、花いろ(註七)とかが拠点になって相当お世話になりました。

撮影現場のひとつにヤオリンってスーパーがあるんですけど、稲安あたりにある昔ながらのスーパーです。あのヤオリンは、お年寄りのこと考えて、野菜でもなんでも小分けで売っているんです。五人家族用で設定しているスーパーが多いんですけど、ヤオリンはお年寄り二人用が基本。だから、つぶれない。お年寄りを大事にしてくれるから、みんな行くんです。俺らもバーベキューっていうと、オオ○○に行かないでヤオリンに行く。義理みたいなもんですかね。

側から見ていても、西方は地元を大事にする人が多いし、結束も強いと感じるますよ、どうしてなんでしょ?

西方は村から町になって市になった。青年部なんかは、栃木市に合併してから、必要以上に西方町というのを出すようになってきたと思うんですよね。意識して、ですね。

あとは何なんだろうね。まず中学校が一つというのがいいのかな。西方中しかないんで。中学校二つとかになってくると、若干の小競り合いが出てくるじゃないですか。「おまえ、どこ中だ」みたいな。それがまず無いっすよね。みんな中学で一緒、みんな知り合い。

「にしかた有志の会」っていう謎の団体は、最初は青年部みたいな感じで動いていたんですけど、草刈りやるからって集合すると、いまだにキャバクラだのそういうところに行っているような、地域に貢献なんかしなさそうな奴も、なんか分かんないけどとりあえず集合するみたいな流れになってきてる。やっぱそこは、切腹ピストルズの隊長がいるっていう旗があって、そこはもう断固としてみんなの憧れだから、そこに集まる。ましてや俺らが楽しそうに草刈りやったりしているので。

結局、日曜の昼間なんか暇じゃないですか、独身男は。お店もやってないし。だったら、草刈りして、みんなで乾杯してみたいなのが楽しいって気づいたらしくて、ど田舎の準備とかも、そういう人が増えてきて。ぼちぼち届くと思うんすけど、青年部の半纏を青年部じゃない奴も欲しいって言ってきて、追加で四着を頼んでます。なんかほんと面白くなってきた。松波(註八)っていう地元のバンドも「俺らは半纏着ないよ」みたいな感じだったのに、徐々に「松波は藍染めでそろえようか」みたいな(笑)。

 

地元を大事にすることは、先人から引き継いできた歴史を大事にすることでもあると思うんですけど、青年部で「寺子屋」という名前で地元の歴史の勉強会をやっていますよね。その第一回が、大さんの家の奥の山にある八百比丘尼堂(おびくにどう)についてでしたよね?

そうそう。そのお堂の鍵は、先祖代々、市からうちが預かっているんです。

八百比丘尼公園について(栃木市観光協会ウェブサイトより転載)
https://www.tochigi-kankou.or.jp/spot/obikuni-kouen
真名子に伝わる八百比丘尼伝説ゆかりの地に設けられた公園です。18歳の美しい姿のまま不老不死となった伝説の主人公・八重姫が、尼となって各地の困っている人を助けながら旅を行い、八百年以上生きたという長寿伝説が残っています。園内には、八重姫が尼になった自分の姿を彫ったとされる八百比丘尼尊像が安置されている八百比丘尼堂や、八百年が過ぎてなお変わることのない自分の姿を映したといわれる真名子八水の一つ姿見の池があり、季節感豊かな景色を楽しむことができる。お堂の天井には色彩豊かな動植物の絵が描かれており、荘厳な雰囲気が漂います。

俺、ものすごく後悔していることがあるんすけど、同居してたおじいちゃんから、八百比丘尼様のことを何ひとつきいてないんですよ。隊長と出会ったのも、おじいちゃんが死んじゃった頃だったし。それまで、年寄りを大事にしてなかったし、古いものにも民俗風習みたいなことにも、正直言って全然興味なかったんで、質問すらもしたことがなくて。それだけは後悔している。気づいたら、昔のことに詳しい人は、ほとんど亡くなっている。だから、西方の生き字引、中村良一先生からは全部聞き出そうってことで、いろいろ教わっているんです。元役場の職員で、取り壊しが決まった蔵から古い民具や半纏や文献資料なんかを救出して、ひとりでコツコツ保存活動している人なんすよ。寺子屋の一回目は、その良ちゃんに、あ、俺らは良ちゃんって呼んでいます、大先輩なんすけど。良ちゃんにお願いして、市民ホールで八百比丘尼伝説の話をしてもらいました。

あ、そうそう、八百比丘尼伝説は、やっぱり伝説が残っている福井の小浜市から保存会みたいな人たちが、西方にも視察に来たんです。大学の先生らも交えて、結構熱心に、全国の八百比丘尼伝説を調べているみたいで。全国百二十一箇所に、少しずつ話は違うんだけど不老不死の八百比丘尼様の伝説があるらしく。全国津々浦々を歩いて、最後は、小浜市の洞窟で死んだらしいんです。

小浜の伝説では、化け物みたいな扱いされているんですよね。人魚の肉を食って永遠の命を手に入れて、最後は耐えられなくて自殺した。こっちの話だと、みんなが羨む美人で毎日のように男が訪れて、結婚してくれって言われ続けるのが嫌で、髪を剃って出家して、全国津々浦々を困っている人を助けながら歩いてまわって、最後は小浜の洞窟で死んだってことになっているんすけど。

地域色がある話がいろいろあってこそ、伝説って面白いと思うんですけどね。

うん。あっちの人たちから言うと、いろんな話がありすぎると、日本の文化の歴史に残せないんですって、学問的に。それに、全国の伝説を同じものに統一した上で全国に知らしめたい、と。でも、やっぱりそんなことできないじゃないですか。大筋は同じでも、地域地域で話が全然違う。どこの地域がどこで折れるかっていうのは、たぶん無理な話で。

視察の人たちは「ど田舎にしかた祭りの前後で来てくれたんすよ。それで、西方に入って、俺らと一緒に準備とかも手伝ってくれる中で、こっちの八百比丘尼様の話とか聞いたら、なんだか熱量というか次元が違うって言ってくれて。向こうは大まじめに大学の研究室とかも入って、あそこがこうだ、あそこがああだってやっているのに、西方だけはTシャツ作ったり学校で八百比丘尼様を知る授業があったり、八百比丘尼だけじゃなくって、狼信仰とかもやっていて・・・。拍子抜けして帰りましたね。極めつけに、ど田舎にしかたまつりに参加して、西方をすべて分かりましたみたいな感じで帰って行ったんで、西方は西方で頑張ってくださいって(笑)。
後日談:小浜市の方たちは、二〇二〇の「ど田舎にしかた祭り」にも来てくれたそうで、伝説が繋ぐ地域と地域の交流、良いですねえ。

 

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山の木を殺すか、活かすか
未来に何を残すか
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悲しいことに、いまここで見えている山のほとんど全部が、八百比丘尼堂を取り囲むみたいに、太陽光パネルのメガソーラー発電所(註九)になる計画があります。東京ドーム三十個分の面積です。
ひそかに狼煙を上げているんすけど、ただやっぱり、田舎もんってそういうのに弱くて。こっち側のゴルフ場もつぶれて、そこにソーラーパネルがズラリと並んでいるんです。そのときも反対の署名を集めたり業者との話し合いをしたり。こっちが何としても開発をやめさせたくてけんか腰で行ったとしても、向こうも交渉人みたいのがいるわけじゃないですか。話がうまいから、このへんの年寄りなんか、相手にだんだん情が湧いちゃって、じゃあ、いいよ、いいよ、しょうがねえみたいな。ほとんどが息子や娘も家を出ちゃっているし、そんな先のことは考えられないから、って。

まあ百歩譲って、お堂の周りだけはどうにかならないかなって、有志で動いて業者とやりとりを始めるところなんですけど。コロナで気を抜いてたら、いきなり学校始まったときに、事業者からの文書を学校で配られたって子どもが持ち帰ってきて、それがまた「このたび工事をすることになりました」みたいな文章なんです。興味ないお母さんは、「ああ、そうなんだ、決まったんだ」ってなっちゃうじゃないですか。でも、実は全然決まってない話で、まず、この伝え方からおかしいだろうってことで、今度、学校に集まって話す機会をつくるんですけど。

ここの山の向こうに真上(まがみ)っていう地区があるんですけど、そこも山が太陽光パネルだらけになっているんです。台風十九号の時に倒木でえらいことになって、発電もできない状態で道路も封鎖。業者は早く直したいわけじゃないですか。だけど、栃木市が道路を直さないと、業者は現地へたどり着けない。だから、栃木市に早く直せと要請するし、道路工事の業者は、ありえない工期で道路を直すように依頼される。結局、税金もそこに使うわけじゃないですか。事業者の利益のために。

あのへん、一時間ぐらいあれば尾根を歩けるんですけど、すごいいい景色ですよ。鹿沼市になるんだけど、大倉山があって、ここからはちょっと見えないですけど。ここ真名子から大倉山あたりは、日光と並んで家康公の埋葬の候補地にもなっていたらしいです。

八百比丘尼堂もそうだし、この下にある大宮神社っていうのもそうなんですけど、その柱が田舎にあるお堂にしては上出来なんですよ。というのは、よく言われることなんすけど、東照宮で仕事する宮大工が、冬の間は仕事にならないから下りてきて、鹿沼やこの辺りで木工事の仕事をしていたって。まあそういうことなんだろうと思います。

そんな歴史がある山々で、東京ドーム三十個分の面積も木が伐採されて、八百比丘尼様の背後にソーラーパネルがズラリと並ぶ。想像しただけでもおぞましいですね。

まあ、そういうことになってパネルに囲まれたとしても、俺はここで一生楽しく暮らしていける自信はあるんすけどね。ここ、薪小屋だって、薪ストーブも持ってないし、囲炉裏もまだ作ってないのに、こんだけ薪わりして、道沿いに垣根みたいにズラリと並べているのは、当てつけの意味もあるんすよ。いろいろなエネルギーがあるんだぞ!薪の方が楽しいぞ!っていう、ね。(終)

………….

註〇・タイトル「天下御免」
公然と許されること。はばかることなく堂々とふるまえること。(goo辞書より)。
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一九七十年代にN H Kで放送されていた痛快時代劇のタイトルも『天下御免』だった。江戸の享保/安政の時代に生きた稀代の天才・平賀源内を山口崇が演じていて、親のお気に入りドラマだったこともあり、意味がわからないながらも一緒に楽しんで見ていた記憶が残る。数年前、ふと思い出し、ネット上でアーカイブが観られるかも!と検索するも、たったこれだけだよ(涙)。
https://www2.nhk.or.jp/archives/tv60bin/detail/
index.cgi?das_id=D0009010167_00000

註一・西方町
栃木市のウェブサイトやウィキによると、西方町が栃木市に編入合併されたのは、二〇一一年と比較的最近のこと。遡ると、一八八九年(明治二十二年)の町村制の施行によって、思川(おもいがわ)が流れる東部が西方村、山間部の西部が真名子村となり、一九五五年(昭和三十年)に西方村として合併。一九九四年の町制施行で西方町となっている。

註二・ど田舎にしかた祭り
第十回目という記念すべき二〇二〇年の祭りは、感染症対策についても慎重に対策が取られ、規模としては縮小され密を回避する工夫もなされながら、千人近い老若男女が町内外から集い、例年以上に密な時間を楽しんでいた。私も「関所」で検温係としてスタッフ参加していましたが、大さんがいう「祭りとしての完成度」をじんわり感じながら新年に向けての充電完了でございました。毎度楽しみな飯田隊長によるチラシの文章もじんわりくる。「ここ栃木市西方町に根付く景色や傳統、新しい文化や人・時間を繋げていく。無病息災・五穀豊穣・家内安全・商売繁盛。来年がどうか良い年でありますよう、今こそ親交と結束、励まし合いを。」 
https://www.tochigi-kankou.or.jp/news/8118

註三・稲安食道
東武鉄道金崎駅近くの和食のお店。昭和八年創業。ネットで検索すると、居酒屋・大衆食堂・ファミリーレストラン・大小宴会・・・と、いろんなキーワードで語られていて地元でも大人気のお店ですね。ぜひYouTubeで「西方寺子屋 ふるさとを学ぶ(一)稲安食道」をご覧ください。
https://www.youtube.com/watch?v=QXqB7BXYMK4

註四・金魚湯
文中の「春樹」さんが家族と営む、栃木市の街なかにある銭湯「玉川の湯(通称・金魚湯)」。井戸水を使い薪で焚く。2階の宴会場に隣接して、試行錯誤しながら春樹さんが手作りしたスケートパーク「金魚湯ランプ」も併設されている。
http://www.cc9.ne.jp/~harukin411/99_blank001.html

二〇一九年の台風十九号で被災した際には、切腹ピストルズと、ロケの際の拠点のひとつとしていた映画監督・豊田利晃監督と『狼煙が呼ぶ』関係者から、すぐさま「救援の狼煙」が上がった。
https://www.imaginationtoyoda.com/post/「台風十九号被害の栃木市「金魚湯」救援のろし」

註五・紺仁
新潟県小千谷市の紺仁(こんに)染織工房。創業は一七五一年(江戸の宝暦元年)という老舗。二〇二〇年の「ど田舎にしかた祭り」には、紺仁代表の松井佑介さんがゲストとして招かれ、櫓の上で、とってもわかりやすい「半纏談義」をご披露いただきました。職人さんも会社経営の皆さんも、地域の顔役の皆さんも、いかがでしょう、揃いの半纏オーダーメイド! 生業、事業、活動、生き方・・・、仲間と志を共有しながら、一本の軸を通してくれるのが、日常の日々にまとう半纏!です。
http://www.konni-aizome.com

註六・針谷伸一さん
大さんとは幼なじみの針谷さんが語る「みんなで好きな地域をつくる」インタビュー記事とムービーは、こちらです!言葉に説得力がありますねえ。大さんも登場する映像は、八百比丘尼公園で収録。
全国商工会連合会「IMPULSE 地域を魅せるプロジェクトvol.9」
https://21impulse.jp/special/tochigi/

註七・ダイニング花いろ
東武鉄道金崎駅近くの韓国家庭料理を中心としたダイニングカフェ。店主あきさんの人柄もあって、なんとも居心地がよく、切腹ピストルズや豊田組の活動拠点ともなっている。二〇一九年十二月七日には、ど田舎にしかた祭り番外編として、豊田監督も参加しての『狼煙が呼ぶ』上映会も花いろで開催されています。メイキングムービー『狼煙に呼ばれて』も、この時点でまだ完全に出来上がっていないものの、まずは西方の皆さんに見て欲しいと、上映されたとのことで、SNSに上がっていた会場の写真は、皆さん、とにかく笑顔、笑顔、笑顔、お一人おひとりの表情がとても印象的でした。
https://www.facebook.com/aki8716

註八・松波(まつなみ)
メンバー全員が西方町出身、生まれも育ちも西方バンド。藤田兄弟の2トップM Cは軽妙で、あったかく、「ど田舎にしかた祭り」では、ちびっこもお年寄りも体を揺らして盛り上がる。私は特に『あたりまえ』が好きですねえ。こちらでどうぞ。
https://www.youtube.com/watch?v=8abSKQpMIBs
Instagram  https://www.instagram.com/matsunami_nskt/
Twitter   https://twitter.com/matsunami_nskt
藤田兄弟のご実家が営む寿司割烹「松波」は、稲安食堂さんやダイニング花いろのご近所です!  あの界隈、幸福密度高そう!

註九・真名子地区メガソーラー発電所建設計画
この問題については、その後、地域の里山の保全に取組む会として「にしかたふるさと保存会」が立ち上がり、建設の中止を求める署名活動や事業者や市との話合いなどを行っていましたが、計画の白紙撤回には至らず。
chng.it/ppz5PQfH

しかし、子どもや孫や、将来世代に豊かな地域を引き渡していくための活動は、さまざまな形で続く続く続く。お天道様にも世間にも、何にもはばかることなく臆することなく、堂々と「天下御免」の旗を持ちて。

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http://editorialyabucozy.jp/antimodernism/2506

挿絵|黒田太郎
写真・聞き書き|簑田理香
取材・二〇二〇年七月十九日、
西方町真名子「薪小屋」にて
公開・二〇二一年一月六日