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風景を変えていく、
それって革命じゃないですか

志むらの伝
平太鼓。栃木県栃木市

志むら 切腹ピストルズ平太鼓隊員。

埼玉生まれ栃木市在住。二児の父。

落語では切腹の初代師匠。

イベントなどでお見かけすると、いつも会場のお客さんに柔らかい態度で気を配っている志むらさん。そんな時の表情とは一転して、演奏に入ると時として気迫みなぎる空気を発します。江戸の時代に生まれていたら、普段は村の和ませ役で、一揆となるといざ!竹槍持って「赤ふん」はためかせて突進する。そんな農民の姿が目に浮かびます。





タイトルイラストは志むらファミリー合作ラクガキ。

写真は、昨年の「ど田舎にしかた祭り」にて。



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新型コロナウィルスの感染拡大を受けて、さまざまなイベントが中止に追い込まれる中、三月十五日、豊田組との湯河原練り歩きと「よるのあじと」での「のろし寄席」、二十五日の原宿ファッションウィークに渋谷の地下空間にて無観客開催・配信された「KIDILL」のショーでの演奏を最後に、出演が予定されていたさまざまなイベントも中止や延期になっている。


そして四月末。私も車で行ける範囲で(住まいは栃木県益子町)、天気のいい日に野外で聞き書きを再開しようと、栃木市の志むらさんにメールで連絡を取りましたところ、「どちらさま?」とハテナが浮かぶお名前で速攻返信があり「志むらはいつでも準備万端でございます!」と。

「志村は本名ではなかった!」という発見を胸に、某公園へ向かいます。介護施設で働いていると聞いていた志むらさん。久しぶりにお会いしてみると、転職したばかりだという。ヒゲもさっぱり無くなっていて。まずは、そんなお話から。








コロナの春と家族の転機


ヒゲ? そうなんですよ。仕事を変えたので、自分の判断でさっぱり剃りました。今ねえ、コロナの影響で切腹ピストルズの演奏の活動がないんだけど、個人的には仕事が変わったりとか、二人目が生まれて、お産で里帰りしていた家族が帰ってきたりとか、そういうタイミングなので、僕は助かっているところです。仕事を変えたっていうのは、介護施設の仕事を辞めて四月十日から宅配の仕事です。まだ慣れてないっすねー。


勤めていた介護施設は重度の方の入所施設で、夜勤もやっていたんですけど、二人目の子供が産まれたので夜勤のない仕事を探そうと。子どもが一人の時は奥さんが一人で面倒見ることもできていたんだけど、やっぱりね、二人になって夜に一人で面倒みる自信がない、と。じゃ違う仕事を探そうとなって、いい感じで宅配の仕事が見つかったという流れです。介護施設には丸三年務めました。慣れてきたところで辞めることになったんだけどね。一言でいうと、まあ、とにかくもう大変だな、認知症のレベルが重い人の入所施設だから。僕は、そこしか知らないけど、先輩たちは「よその施設に移ったら、もっと楽できるよー」と話していましたね。


でも実は、介護の仕事やっている時は、特に「きつい仕事だ」って思ってなかったんですよね。こんなもんだろう、って。宅配の仕事に変わってから初めて気づいたところがあって。宅配の仕事やっていると、まだ始めて一か月も経ってないけど、普通によく「ありがとう」とか「ご苦労様です」とか言われるんすよ。介護の仕事って、相手の人が重度の認知症とかの場合、そんな言葉はまったく無いので。夜中や夜明けに、こんだけやっているんだけど文句言われてる俺、みたいな。ダブルできつかったんだなあ、ということが、今になってわかってきたという感じです。




栃木に移住してきたのは、三、四年前でしたっけ?


二〇一六年の九月に引っ越してきました。僕は埼玉出身で、奥さんが新潟なんですよ。結婚することになって、一緒に暮らせる家を探そうとなって、最初は新潟も考えながら隊長にも相談したんです。「隊長の家の近くに空き家なんかありますかねー」って。それで、「ひとつ見つかったけど、見にくる?」って連絡きたんで行ってみたら、前に住んでいた人の家具もゴミもそのままで、四年間空き家になっていたゴミ屋敷みたいな一軒家。ゴミも家具も自分達で全部片付けるんなら安く貸すよ、と。そん時はまだ勢いがあったから、やってみよう!となって、けっこう大変だったけど、隊長たちもいろいろ手伝ってくれて、なんとか引越しができました。そんで、次は仕事探しですよね。仕事も隊長に紹介してもらって、九月から翌年の二月までは山の草刈りの仕事をしていました。里山を守る会。ただ、半年間の仕事なので、二月に終わって職安に行きました。そして介護の仕事がすぐに見つかったという、そんな流れです。


 


メロンの気持ちとサムライナウ


隊長とのおつきあいは、長いんですか? 



長いですよね、隊長と、もともと知り合いで。いや、知り合いというか、四人時代の切腹ピストルズの、サムライナウというバンド名だったんですけど、すごいファンだったんですよ。どうしてサムライナウを知ったかというと、僕は、ジュンくん(大口ノ純・篠笛)とバンドをやってたんです。僕はベースで。中学二年生の時に初めて手にした楽器はエレキギターで、それからずっとギターを弾いていて、高校の時に気の合った友達とバンドやろうってメンバーを探していたんですけど、なかなか見つからなくて。やっと自分たちのバンドを作れたのが二十五歳の頃、ジュンくんも参加したバンドです。名前?「海賊チャンネル」っていうバンドです。


中学の頃は、どんな音楽を聴いてました?


そこはなー(小笑)、そこはなー(中笑)、そこはー(爆笑)! えー、そこ言っちゃうんですか!「パンク!」って言いたいんだけど、そうではなくて、もっとふつうのロック。いちばん好きだったのは、ブラインドメロンというバンドだったんですけど。わははは。そのへんあまり触れてほしくないんだよな、笑。当時はとにかくギターの音が好きな少年でした。


それでそのうちに、いろんな人と知り合う中で、パンク的なものとかと、その頃の自分の感覚とかが合ってきて、音楽の好みも変わっていくんですけど。切腹ピストルズのメンバーは、隊長と昔からの繋がりがあったりする僕より年上世代の隊員はパンク育ちが多くて、僕の場合はパンク育ちというよりも、パンクはパンクだけど「切腹ピストルズ育ち」というか。だから切腹ピストルズの上の世代とは、微妙に違う感じです。逆に下の世代だと、篠笛のかっちゃん(野中克哉・尺八、篠笛)とかもパンク育ちなんだけど、年代が違うからまたちょっと違う感じなのかな。


サムライナウの話に戻すと、ジュンくんが昔から隊長と仲良くて、それで僕も知り合って、サムライナウが、とにかくめちゃくちゃカッコ良くて好きになって、ライブもしょっちゅう行ってましたねえ。サムライナウが「切腹ピストルズ」に変わる一発目のライブは、僕たちと一緒だったんですよ。「海賊チャンネル」で企画したライブをやるのにサムライナウを呼んでいて、手書きで作るチラシにサムライナウって書いてたんだけど、「名前、切腹ピストルズに変えたから」って連絡があって、途中でチラシを修正したんです。切腹ピストルズ記念すべき1発目のライブです。会場は、うちらが拠点にしてたライブハウスでした。


で、切腹ピストルズは、当時かなり過激だったので、そのライブハウスのアンプをぐわーって蹴飛ばして、上に乗って、アンプ壊して演奏中止になって、出禁になっちゃったんですよ、切腹ピストルズが。自分らの企画で自分らが呼んだバンドだったからヤバかったけど、うちらは大丈夫だった、笑。


まあ、そんなノリも含めて、すごく好きでファンだったんです。もうめちゃめちゃにするのが好きでたまらない、という時期だったんでハマっちゃって、行けるライブには出来るだけ行って、一緒にめちゃくちゃになるというファンでした。


アンプに乗ってぶち壊したギターの人は、もしや?


あ、それ、もちろん三味線のすーさん(壽ん三・三味線)です、笑。


なので、切腹ピストルズに入隊したのは、二〇一五年の後半で割と遅い方なんだけど、付き合いは古いんです。一時期、隊長がもう一人の仲間と西荻窪でアパートを借りて住んでた時代があって、僕はそこに居候させてもらっていたこともあって。隊長の話(壱の伝)にも出てきましたよね、「鶴屋」って呼ばれていたアジトだったんですけど、その頃からの関係です。


鶴屋時代は、青春っぽいちゃ青春ですよね。ようは溜まり場というかアジトというか。当時の四人の切腹ピストルズのメンバーはもちろん出入りしてたし、隊長はとにかく、人に慕われる人なので、しょっちゅう色んな人が出入りしていました。それで、ここの呼び名をつけよういうことになって「鶴屋」になって、そこに出入りしている連中が「鶴屋一門」という感じになって。で、今もそうなんですけど、鶴屋の居候時代から僕は隊長によく怒られるタイプなんですよね、笑。年齢的には、僕が小一の時に隊長が六年生という関係です。


どういうことで怒られるんですか?


隊長はなんというか、悪い言い方すると、細かい。すごく細かい。僕は、そういう意味で言うと、細かくない。だから「お前、もっとちゃんとやれよ」と隊長のカンにさわりやすい。


なるほどー。この前(三月十五日)の湯河原の寄席で、出囃子の皆さんがいた小上がりから出てくるジュンさんやスーさんが、「あれ、俺の雪駄がない」って、キョロキョロしてたら、すかさず隊長が「下駄箱に入れておきましたよ」って。出口横の棚に綺麗に収まってました。さすがですよね。


隊長すごいんすよ、目配り、気配りが素晴らしい! つまり、悪く言うと、細かい!笑。僕は居候させてもらったり近くにいることもあったから、まあ、愛のある説教を受けてました、笑。なんちゅうか、気分で怒るとかじゃなくて、じっくり考えて言ってくれるから、ありがたいですよね。僕の場合はそんな感じですね。


いちばん強烈だった愛ある説教って覚えてます?


鶴屋時代に一度、破門になったことがありまして・・・。「おまえ出て行け!事件」笑。あるとき突然、隊長が梅干し作りたいって言い出して、僕が生意気に「梅干しっつうのは、一回つくると、毎年作り続けないと縁起が悪いって、昔から言われてんですよ」って言ったんですよ。そしたら「おめえに言われなくても知ってるよ!」とブチ切れて・・・笑。まあ、何度もいいますけど、愛ある説教です。




近いところでバンドやっていたり、熱烈なファンだったり、そして二〇一一年の原発事故をきっかけに今の切腹ピストルズが生まれた時も近くにいて・・・、一緒に「海賊チャンネル」をやっていたジュンさんも切腹ピストルズに入隊して・・・。志むらさんは、ファンではあったけど入隊は希望してなかったんですか?


そこがねー。震災の後、和楽器に持ち変えたときも、そう方向転換するって聞いてたし、一緒にやりたいっていう気持ちはあったんですけど。でもなあ、そこがなあ、僕のちょっとなあ、まあ、ひねくれたところがありまして・・・。


震災の年は、パソコンのセキュリティ関連の仕事をしていて、都内のビルの九階にいた時に、あの揺れが来て・・・。机の下に潜り込んで机の足を握りながら、ここで死ぬのかと思いました。それで、その年の八月、都内から地元に戻って、実家の豆腐屋の修行を始めたんですよ。震災と原発事故を機に、日本も自分も変わるというか、なんかこう、漠然と時代が変わっていくと感じたし、これを機に人生を変えようと思ったんですよね。僕は、都内から離れたんだけど、切腹ピストルズは、和楽器になってメンバーを増やしながら続いていて、一緒にやりたい気持ちはあったんだけど、本当にすごいファンだったから、ちょっと、うーん・・・というためらいもあって。素直じゃなかったんですかね。僕が悔しいというか羨ましかったのは、たとえば、キ介くん(新谷キ介・平太鼓)のあの素直さ。 「一緒にやりたいから入隊させて!」って言える素直さ! キ介くんも、鶴屋にちょこちょこ顔だしていて、僕のように長いこと切腹ピストルズのファンだったんですよね。でもまあ、自分は鶴屋の本部にしっかりいる立場だぞ!と、居候だけどね、まあそういう気持ちがあったから。なんでキ介くんが入ってるのに俺は?というジレンマもあって。ジュンくんも早々、やりたいって手をあげて参加したし。それから、すごくダサいんだけど、和楽器に変える時に、隊長が何人かに「一緒にやらない?」って声かけてるのを知ってるから、俺には声がかかんないって、ひねくれてもいて。あー、やりてえけどなあ。でも、誘ってくんないってことは、俺は、ちょっと違うんだろうなあ、と、もうジレンマやら葛藤やらがあって。実は、和楽器の切腹ピストルズになってから、長い事、ライブを観に行ってなかったんですよ。行ったら一緒にやりたくなるだろうし、なんとなくちょっと逃げてた、目をそらしてた。


ファンと隊員


それでまあ、豆腐屋を三年やったんですけど、売上もあがんなかったし、別の仕事やろうってなって、実家に居ながら外で働くようになって。そんな自分自身の変化の流れで、ジュンくんに「そろそろやろうよ」って言われて、僕も「そろそろかなあ」という気持ちで稽古を見に行きました。


隊長とジュンくんと越谷の駅で待ち合わせして、三人で一緒に行ったんですけど、隊長に「稽古を見学するってことは、お前、もうやりてえんだろう」って言われて「お願いします!」って即答しました。そっからっすね。そっから、平太鼓をやりたかったので教えてもらって。とりあえず、どんくらいかな、二か月くらいかな。二〇一五年十月の終わりに入隊させてもらったから三か月くらいかな、稽古して、一発目が長野県白馬のトラックスバーが初のライブでした。とにかくめちゃくちゃ楽しくて、もうそれだけ!


稽古は、譜面なんてなくて、その場で合わせて稽古していくわけですよね?


そう。一応、動画はいっぱいあるから家で見て。あとはもう、本番の経験が一番でかいと思います。本番をやることで、あとで見返した時に、「あ、この叩き方ダセえ」とか「ここ、間違いやすいところ」とか確認しながら見直して、次は、こう叩こう、とか、こうやればもっとカッコよく見えんじゃねえか、とか。僕はそんな感じでやってます。


最初の頃は、キメ!みたいな感じで叩く時に、自分では気づいてなかったんだけど、動画で見ると首がこんなんなっていて(左右に首をぐらぐらしながら)。これダサいなあ、次回は意識して振らないようにしようって、ちょっとずつ直して。それでまあ少しずつ見ためも良くなってきたかなあと。他のメンバーも、それぞれやり方は違っても、そんな感じで、稽古したり修正したりしてるんじゃないかな、そんな話は改めてしたことないですけど。


演奏する曲に、歌詞があって、それが目安になるわけでも無いし、繰り返しが多かったりしても、途中途中のキメのところも、最後の終わるところも全員ビシッと決まる。あれ、すごいですよね。


ですよね。特に僕がやってる平太鼓って人数も多いし、ビシッと決まってないと本当にかっこ悪いので、先輩にいろいろアドバイスもらいながら練習あるのみです。みんなもそうだと思うけど、切腹ピストルズの隊員として頼もしいヤツになりたいっていう気持ちで、今もずっと精進してます。まあ今は、コロナでずっと演奏する機会がなくなってますけど、普段は、間が空いたとしても、せいぜい二週間。だいたい毎週末に祭りとかフェスとかイベントとか、本番があって、それでよかったんですけどね。


三月十五日の湯河原の練り歩きと寄席が最後かな、あ、渋谷もありました。楽しみにしてたイベント、全部潰れちゃいましたからね・・・。まあ、最初にも話したように、うちの場合は二人目の子供が生まれたタイミングだったので助かってる部分もあるんですけどね。


十二月の「ど田舎にしかた祭り」までには、コロナも落ち着いて欲しいですね。この夏をコロナが乗り越えちゃったら、ど田舎祭りもダメかも。個人的な考えでは、無理してやらない方がいいかなあと思ってます。最近の世の中、怖いですよね。どっちにしても叩く人がいるし。そんな状況で無理してやってるのって、あんまり良くは見えなくて。もちろん、ど田舎祭りだけじゃなくて、自分が関わることが「やる!」となったら進んで協力はするけど、「やる」ことだけに執着する必要はないかなと思います。切腹ピストルズで言うと、俺たち、どこでもできるし、外でも、電気引っ張ってこなくても。もともと成り立ちからそうだもん。原発事故で電気なかったら俺たちもうライブできねえのか? いや、俺たち、できるし!っていうのが切腹だし。コロナでこうなる前から、鼻っから、そこの境目飛び超えて、とっくにこっちに来てたわけだから。


落語と丹下段平


志むらさんといえば、落語!というイメージがあります。去年の秋に西方から「ど田舎にしかた祭り」の有志で益子に来てもらって農村舞台の交流会をしたときに、『酢豆腐』を演っていただきました。いやほんとに面白かった。


いやー、落語の話をふってくれるの嬉しいな。落語のことしか話すことないから(いやいやいやー)。さっきの話にもつながるんですけど、鶴屋時代に、隊長からある日突然、鶴屋一門に指令が飛んだんですよ。「一か月後に、落語会をやるから、ひとり一席覚えろ」って。それで、みんな必死に覚えて。第一回の落語会を西荻の鶴屋でやったんすよね。(二〇〇八年。「一、飯田団紅の伝 その壱」もご参照を)


笑。どう思いました?その指令。めんどくせえな、って思わないんですか?


いやー、みんな慣れてると言えば慣れてるし、隊長はそういう人だってみんな知ってるし、面白いから、じゃ覚えるか、って。あ、当時、僕は「夢屋夢乃助」って名前をもらっていて。そうそう、「志むら」は切腹ピストルズに入隊してから隊長に名付けれらたんですよ。ドリフの志村みたいな立ち位置でいいじゃん!って。志村さんコロナで亡くなっちゃうなんてショックですけど。志むら、気にいってます、自分でも馴染んでます。


それで話を戻すと演目は、そん時も『酢豆腐』でした。実家が豆腐屋だし、隊長が「こんな落語があるんだよ」と教えてくれて。それで軽いノリで選びました。それで確か、ほぼ演者だったんだけど、お客さんに投票してもらったんです。誰が良かったか。そこで、なぜか僕がいちばん評判が良くて、それで初代の落語師匠になったわけなんです。その時はいい感じに肩の力が抜けていて、たまたまホームラン打っちゃった、という奇跡が起きただけなんですけどね。そこから「落語と言えば志むら」になってしまって、何かイベントに呼ばれたりすると僕がやる機会が多くなってしまって、しかし残念ながらその後、なかなかホームランは打てずで・・・。まあもう実質的には師匠の座は、隊長に譲っていますけどね。笑


あ、そうそう、僕が師匠だったから、隊長の「団紅(だんこう)」という名前は、僕が名付け親なんですよ、唯一の自慢です!隊長は、その前、「紅緒」だったんですけどね。で、本人も「いい歳したおっさんが何が紅緒だと、そろそろ名前変えたい」ということになって、「師匠、なんか名前考えてくれないかな」と頼まれて。「よぉろこんで!」と、切腹ピストルズ入隊してすぐに言われまして。で考えに考えてあの「団紅」が生まれたんです。


いくつか案を出して、最初にオッケーが出た案もあったんですけど、隊長も気に入ってくれて、これでいこう、って。でも、僕の中では、隊長にはもっといい名前があるはずという気持ちがあって、考え続けてたんですよね。それで、もう一度考え直して下さいって出したのが「団紅」。「だん」という響きは、降りてきたんですよね。丹下段平から来てんのかな、笑。いやー自画自賛なんですけど、いい名前ですよね。あ、これ喋っちゃうの隊長的にどうなのかな、というのはあるけど。良いですよね?事実だし。笑


師匠!そろそろ新しい落語を仕込む予定は?


はい、いろいろ考えてます、実は。落語だけに拘らずに、切腹ピストルズは寄席をやる機会がけっこうあるので、そんな時に落語じゃなくても、マイクの前に立って、何かやれることをいくつか用意しておきたいというのがあって。いくつか用意はしてます、まだ完成はしてないけど。何かしら考えてます!と言っておきます、笑。


西方と豊田組


最高ですよ、西方は。キャラクターもいいし。隊長が西方の青年部と繋がって仲良くなって、僕もそこに入れてもらって、地域との繋がりができてきて。僕の場合はまだまだこれからですけどね。隊長は、人と繋がっていい関係を作る達人で、そういうの持ってる人なので。それに西方の大工の大ちゃんなんかは、切腹ピストルズの隊員にもなったし。大ちゃんや畳屋の伸ちゃんは、この西方で自分たちが今まで築いてきた関係を僕たちに惜しみなく分けてくれる。彼らの行動範囲の中で僕たちの繋がりもできてきている。ありがたいですよ、本当に。


東日本大震災と原発事故の後にエレキを和楽器に持ち替えて、隊長は、奥さんの実家が西方ってこともあって、西方の田舎に引っ込んで暮らし始めたことは、隊長の深い考えとかあって、全部が繋がっているような気がしますね。僕の場合は、最初はなりゆきで、そこまでしっかり考えずにこっちに来て、結婚して子どもが生まれて、ようやくこれから自分の生き方と暮らしを作っていくところです。とにかく、西方の、このチームワークには、おかげさまとしか言いようがない。


西方で子育てしていけるのも、ありがたいです。正直言うと、自分は結婚も子どもも無理だと思っていたので、結婚して子どもが二人も誕生してくれたことは奇跡としか思っていないんです。自分がどんな父親なのかはまだわからないけど、とにかく子どもには人生を楽しみながら生きて欲しい。子どもが楽しく生きる為ならどんな事も頑張れるし、どんな敵とも戦いますよ。それと、子どもには、好きなことで収入が得られる大人になって欲しいと願っています。


去年の夏に公開された豊田利晃監督の『狼煙が呼ぶ』も、隊長はじめチーム西方との繋がりが深いですよね。音楽だけじゃなく出演も。志むらさんにとって豊田組との体験はどうでしたか?


聴いた話ですけど、ブルーハーブのボスが、豊田監督に「切腹ピストルズいいよ」と勧めてくれていたそうなんですよ。それで、二年くらい前かな、川越のコエドビール祭りというイベントに出ていたら監督が来てくれたんです。うちらが一服してる時に監督が声をかけてくれて、実はその時は、あんまりどういう人かわかってなくて、後で調べたらすごい監督だってわかって・・・笑。その時に監督と隊長は連絡先を交換していて、その週末くらいには「遊びに行っていいですか?」って連絡が来て、監督が隊長の「江戸部屋」に来て、翌日には「日光江戸村」に行って・・・。そっから怒涛のごとくの監督と隊長の付き合いが。もうちょいで、今年の夏で、二年になるのかな。


監督の『狼煙が呼ぶ』にうちらが出ることになって、とにかく嬉しかったです!僕はいつでも、切腹ピストルズの知名度がさらに上がって欲しいと思っているので、次の『破壊の日』にも期待しています!(註一)『狼煙が呼ぶ』に出させてもらったことは、すごい経験でした。豊田監督はとにかく柔軟な人なので、その時の状況でどうにでも創る。付き合いは短いけど、そう言うところ、たくさん見させてもらっているので。十六分の映画をつくっちゃうわけだし。こうでないといけないとか、なんの囚われもないですから。革命家ですよ!

そして、ひたすら「やっぱり切腹ピストルズは面白れえなあ」と言う経験でしたね。撮影の時も、俺たちは農民の格好して竹槍持って。農民の格好というのは俺らの普段の格好だし。演技指導もひと言ふた言あったかもだけど、特に何もないんですよ。渋川清彦さんや浅野忠信さんとか俳優さんたちの後ろに立つ時も、一応、「背の低い人が前に」とか、それくらい。半分は遊びみたいな、オモシレー!!という感じで撮影も進んで。それで、出来上がったものを観たら、やべー!鳥肌立つくらいカッケー!という感じ。すごいですよね。しかも、曲の使われ方が、最初から最後まで丸々うちらの曲じゃないですか。一部に使われるくらいかなと思っていたんで。セリフもない映画だから、見方によっては切腹のPVみたいな。あ、これ言い過ぎかな。でも、良いの?俺たち!というくらい嬉しかった!


次は、『破壊の日』ですよ。予定通り七月二十四日の公開で、豊田監督はやるつもりなんで、そこがいちばん楽しみです。僕が知らない情報もたくさんあるだろうけど、知ってることだけで考えても、もうウズウズしてくるんですよ。上映されたら遡って『狼煙が呼ぶ』も観て欲しいですね。もう観た人も、こっちがこうで、こうだったんだ!という、発見というか楽しみがあると思います!




風景とふんどし


楽しみです! それから、志むらさんにとっての切腹ピストルズとは?とか、知名度を上げていきたい理由とか、そんなことを伺いたいです。


隊員それぞれに、それぞれの切腹ピストルズがあると思うんですが、僕個人がどう考えているかというと・・・。名前だけ見たら、バンド。で、やってることも演奏の活動がメイン。だけど、それ以外のことが、かなり多いし、実はそれ以外の方が大事だったりして、なんだろうな、野良着の格好もそうなんだけど、自分としては、やっぱりねえ、日本・・・、日本らしさだと思っています。なんかこう、日本を守りたい、というのにちょっと近いのかな。


それは、国としての日本?


景色ですね。風景とか、風景の中にいる自分。俺たちがこれを守らなかったら、ここは日本なのかどうかもわからなくなるというか、だから俺たちが守る!という、そういう気概みたいなものを持って切腹ピストルズをやってますね。本気で、カッコイイと考えてますよ。音楽もそうだし、使っている楽器もそうだし。若い頃はそんなことまったく考えていなかったけど。


隊長もいろんなところで言っているけど、「和風」とか「和の雰囲気」とか、日本人のくせに、そう言わないといけないって、変ですよね。僕も一時期「和風が好き」とか言って、昔から好きだったので手拭いをひとつ持ち歩いたりという時期もあったけど、切腹ピストルズに入隊してからは普段から百パーセントだから。


そして、志むらさんと言えば、褌(ふんどし)ですね!


ですね!笑。ふんどしを履き始めたのは切腹ピストルズに入隊してからなので、二〇一五年の暮れからですね。最初のふんどしは手拭いに紐を縫い付けて自分で作ったもので、二本目は、太一さん(天誅山太一・平太鼓)から頂いた切腹ピストルズ大願成就ふんどし。その後は、出会った人から買ったり自分で作ったり、奥さんに作ってもらったりという感じかな。ふんどしには切腹ピストルズが凝縮されています。笑


入隊したばかりの頃は、うちらの格好って現代では目立つから、自分がまだ慣れていない時期は人の目が気になっちゃって。それは嫌な意味じゃなくて、僕は目立つのが好きだから、いい気になっちゃう。でもすぐに人の目が気にならなくなりました。今はもう目立っているとも思わないし、人に見られてることも意識しない。まわりが変わったのか、自分が変わったのかは、よくわからないですけどね。


仕事の時は仕事着だけど、それ以外は靴も服も持っていないし。それでまあ不便な時も、たまにはあるけど、笑。けどまあ、うちの奥さんも、もともと切腹ピストルズのファンだし(註二)、奥さんの両親も応援してくれているので。僕は仕事以外の時は、こんな感じで思いっきり堂々とこの格好でいるわけなんですけど、家族が受け入れてくれているのは、ありがたいですよね。ほんとだったらね、仕事もひっくるめて常に野良着でいられるように暮らしたいけど、それはまあ、今後の目標ですね。


七十歳、八十歳になっても、切腹ピストルズは続きそうですね。


歳をとってもできることをやっていますからね。今みたいな曲ではなくなるかもしれないけど、七十、八十になっても、引退とか解散とかはないんじゃないかな。願わくば、もっと知名度が上がって、もっともっとファンを増やして、野良着も考え方もひっくるめて影響を与えて行きたいですね。そうしたら、さっきも言ったけど、日本の景色、変わりますからね。そしたらね、それは革命じゃないですか。そんな野望を抱いておりますよ。(終)




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註一


◎豊田利晃監督『破壊の日』


今年一月に企画趣旨と東京オリンピック初日と同じ公開日の設定だけが発表され、その後、新型コロナウィルスの感染拡大とその対応であちらこちらが紛糾し困窮する中、ひととしての芯のところでの多くの共感をグッと掴みながらクラウドファンディングで進む映画製作。五月二十八日にはキャストも発表された。

https://www.imaginationtoyoda.com/blank


◎切腹ピストルズ『日本列島やり直し音頭二〇二〇』


日本列島明るい明日へ!というコピーを提げて、六月一日に情報公開されたばかり。『破壊の日』テーマソングとして豪華ゲストボーカル陣(スゴイ!)を迎えて企画され、七月二十二日にディスクユニオンとタワレコで限定発売。詳細はこちら!

ディスクユニオン

https://diskunion.net/punk/ct/news/article/1/88892

せっぷくぴすとるず名物本店

https://edomaruichi.thebase.in/items/30043477






註二|特別後記


結婚の経緯を志むらさんに伺うと、こんな答えが返ってきた。


「出会いですか? うちの奥さんは、もともと切腹のファンでイベントを追いかけてたんですよ。切腹ピストルズは新潟と縁があって行く機会も多くて、僕が入隊してから新潟に行くと、毎回奥さんを見かけたり、ちょこちょこ会う機会もあって、いいなあと思って、僕の方から連絡をとって・・・、まあ今のSNS時代のおかげですね、それでお付き合いするようになったわけです。」


聞き書きの当日は、生後五か月の女の子を抱っこして、二歳の男の子の手を引いた奥様にもお会いできました。「今はとにかく大変で・・・」と、公園を走り回るお子さんを追いかけながらも、おおらかな笑顔! イラストレーターとして似顔絵やマタニティペイントなども行う、ホシノユウさん。後日、メールで「切腹ファン時代、結婚、栃木へ引越し」という変化での思い出などをお願いし、育児でお時間ないなかご快諾いただき(感謝)、とても素敵なメッセージをいただいたので、特別後記として紹介します!


……


奥様のユウさんより

二〇一五年六月、小千谷市で開催された「祭る」というイベントに出演していた切腹ピストルズを観たのが最初でした。彼らの強烈な存在感が頭から離れず、何者なのか、どこから来たのか、何をしているのか? 取り憑かれたように彼らの情報をかき集めはじめました、笑。その夏は三年に一度の「大地の芸術祭」が開催される年でした。芸術祭のアーティストとして地元に彼らが来る事がわかり、その日を心待ちにしていました。


二日がかりの山道練り歩き、小さな集落の夏祭り、寄席、展示、同じく切腹好きな仲間たちと毎週のように楽しませてもらいました。


切腹ピストルズが出没するところに行くたびに驚かれ、その土地での知り合いができて、その人たちにも会える流れが楽しくて仕方なかったです、


切腹ピストルズに惹かれた理由は、ありきたりですがとにかくかっこいい、笑笑。今は着てませんが、初めて見た時はお揃いの紺色の半纏がとにかくインパクトがありました。野良着の集団がただそこにいるだけ、景色に彼らが加わるだけで目も耳も心臓も全部ワクワクしました。演奏が始まった瞬間に自分の中のもやもやしたものが形を保っていられずに粉々になる気持ちよさもありました。


切腹ピストルズを知って数ヶ月後に新しく入った隊員の志むらと縁あって結婚しました。山梨の桜座でまだ演奏デビューもしておらず、客席から飛んでくる座布団を必死な顔でひたすらさばいていた姿が懐かしいです。二人で栃木へ移住し、結婚。隊長家族や隊員の皆さん、栃木の皆さんに助けてもらいながらあっという間に二児の母になりました。


切腹ピストルズと出会って今年で六年目。


志むらさんが一番粋でかっこ良いですよね?と、聞かれましたが粋かどうかはあんまり考えた事ないです(笑)私も粋はよくわからないし、(粋って難しいんです!多分)本人は粋でいたいと思ってるかもしれないけど、粋を意識すればするほど空回りしがちな不器用さがあるので、私の中では粋とはまだちょっと遠いかな、、(笑)でも、自分が出来ることを全力で一生懸命やる姿は切腹ピストルズでも父ちゃんでも一番かもしれません。疲れていても、うまくいかなくても、家族に、切腹ピストルズに、一生懸命向き合ってくれるので、私にとってはそれが一番かっこいいと思います。


最近は育児真っ只中で切腹ピストルズから遠ざかっていたので、早く子連れであちこち遠征したいです!!






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挿絵|黒田太郎
聞き書き|簑田理香
取材・二〇二十年四月二十七日 栃木市にて。
追加取材・二〇二〇年五月 電子網にて。

志むら 切腹ピストルズ平太鼓隊員。
埼玉生まれ栃木市在住。二児の父。
落語では切腹の初代師匠。
イベントなどでお見かけすると、いつも会場のお客さんに柔らかい態度で気を配っている志むらさん。そんな時の表情とは一転して、演奏に入ると時として気迫みなぎる空気を発します。江戸の時代に生まれていたら、普段は村の和ませ役で、一揆となるといざ!竹槍持って「赤ふん」はためかせて突進する。そんな農民の姿が目に浮かびます。


タイトルイラストは志むらファミリー合作ラクガキ。
写真は、昨年の「ど田舎にしかた祭り」にて。

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新型コロナウィルスの感染拡大を受けて、さまざまなイベントが中止に追い込まれる中、三月十五日、豊田組との湯河原練り歩きと「よるのあじと」での「のろし寄席」、二十五日の原宿ファッションウィークに渋谷の地下空間にて無観客開催・配信された「KIDILL」のショーでの演奏を最後に、出演が予定されていたさまざまなイベントも中止や延期になっている。

そして四月末。私も車で行ける範囲で(住まいは栃木県益子町)、天気のいい日に野外で聞き書きを再開しようと、栃木市の志むらさんにメールで連絡を取りましたところ、「どちらさま?」とハテナが浮かぶお名前で速攻返信があり「志むらはいつでも準備万端でございます!」と。
「志村は本名ではなかった!」という発見を胸に、某公園へ向かいます。介護施設で働いていると聞いていた志むらさん。久しぶりにお会いしてみると、転職したばかりだという。ヒゲもさっぱり無くなっていて。まずは、そんなお話から。

コロナの春と家族の転機

ヒゲ? そうなんですよ。仕事を変えたので、自分の判断でさっぱり剃りました。今ねえ、コロナの影響で切腹ピストルズの演奏の活動がないんだけど、個人的には仕事が変わったりとか、二人目が生まれて、お産で里帰りしていた家族が帰ってきたりとか、そういうタイミングなので、僕は助かっているところです。仕事を変えたっていうのは、介護施設の仕事を辞めて四月十日から宅配の仕事です。まだ慣れてないっすねー。

勤めていた介護施設は重度の方の入所施設で、夜勤もやっていたんですけど、二人目の子供が産まれたので夜勤のない仕事を探そうと。子どもが一人の時は奥さんが一人で面倒見ることもできていたんだけど、やっぱりね、二人になって夜に一人で面倒みる自信がない、と。じゃ違う仕事を探そうとなって、いい感じで宅配の仕事が見つかったという流れです。介護施設には丸三年務めました。慣れてきたところで辞めることになったんだけどね。一言でいうと、まあ、とにかくもう大変だな、認知症のレベルが重い人の入所施設だから。僕は、そこしか知らないけど、先輩たちは「よその施設に移ったら、もっと楽できるよー」と話していましたね。

でも実は、介護の仕事やっている時は、特に「きつい仕事だ」って思ってなかったんですよね。こんなもんだろう、って。宅配の仕事に変わってから初めて気づいたところがあって。宅配の仕事やっていると、まだ始めて一か月も経ってないけど、普通によく「ありがとう」とか「ご苦労様です」とか言われるんすよ。介護の仕事って、相手の人が重度の認知症とかの場合、そんな言葉はまったく無いので。夜中や夜明けに、こんだけやっているんだけど文句言われてる俺、みたいな。ダブルできつかったんだなあ、ということが、今になってわかってきたという感じです。

栃木に移住してきたのは、三、四年前でしたっけ?

二〇一六年の九月に引っ越してきました。僕は埼玉出身で、奥さんが新潟なんですよ。結婚することになって、一緒に暮らせる家を探そうとなって、最初は新潟も考えながら隊長にも相談したんです。「隊長の家の近くに空き家なんかありますかねー」って。それで、「ひとつ見つかったけど、見にくる?」って連絡きたんで行ってみたら、前に住んでいた人の家具もゴミもそのままで、四年間空き家になっていたゴミ屋敷みたいな一軒家。ゴミも家具も自分達で全部片付けるんなら安く貸すよ、と。そん時はまだ勢いがあったから、やってみよう!となって、けっこう大変だったけど、隊長たちもいろいろ手伝ってくれて、なんとか引越しができました。そんで、次は仕事探しですよね。仕事も隊長に紹介してもらって、九月から翌年の二月までは山の草刈りの仕事をしていました。里山を守る会。ただ、半年間の仕事なので、二月に終わって職安に行きました。そして介護の仕事がすぐに見つかったという、そんな流れです。

 

メロンの気持ちとサムライナウ

隊長とのおつきあいは、長いんですか? 

長いですよね、隊長と、もともと知り合いで。いや、知り合いというか、四人時代の切腹ピストルズの、サムライナウというバンド名だったんですけど、すごいファンだったんですよ。どうしてサムライナウを知ったかというと、僕は、ジュンくん(大口ノ純・篠笛)とバンドをやってたんです。僕はベースで。中学二年生の時に初めて手にした楽器はエレキギターで、それからずっとギターを弾いていて、高校の時に気の合った友達とバンドやろうってメンバーを探していたんですけど、なかなか見つからなくて。やっと自分たちのバンドを作れたのが二十五歳の頃、ジュンくんも参加したバンドです。名前?「海賊チャンネル」っていうバンドです。

中学の頃は、どんな音楽を聴いてました?

そこはなー(小笑)、そこはなー(中笑)、そこはー(爆笑)! えー、そこ言っちゃうんですか!「パンク!」って言いたいんだけど、そうではなくて、もっとふつうのロック。いちばん好きだったのは、ブラインドメロンというバンドだったんですけど。わははは。そのへんあまり触れてほしくないんだよな、笑。当時はとにかくギターの音が好きな少年でした。

それでそのうちに、いろんな人と知り合う中で、パンク的なものとかと、その頃の自分の感覚とかが合ってきて、音楽の好みも変わっていくんですけど。切腹ピストルズのメンバーは、隊長と昔からの繋がりがあったりする僕より年上世代の隊員はパンク育ちが多くて、僕の場合はパンク育ちというよりも、パンクはパンクだけど「切腹ピストルズ育ち」というか。だから切腹ピストルズの上の世代とは、微妙に違う感じです。逆に下の世代だと、篠笛のかっちゃん(野中克哉・尺八、篠笛)とかもパンク育ちなんだけど、年代が違うからまたちょっと違う感じなのかな。

サムライナウの話に戻すと、ジュンくんが昔から隊長と仲良くて、それで僕も知り合って、サムライナウが、とにかくめちゃくちゃカッコ良くて好きになって、ライブもしょっちゅう行ってましたねえ。サムライナウが「切腹ピストルズ」に変わる一発目のライブは、僕たちと一緒だったんですよ。「海賊チャンネル」で企画したライブをやるのにサムライナウを呼んでいて、手書きで作るチラシにサムライナウって書いてたんだけど、「名前、切腹ピストルズに変えたから」って連絡があって、途中でチラシを修正したんです。切腹ピストルズ記念すべき1発目のライブです。会場は、うちらが拠点にしてたライブハウスでした。

で、切腹ピストルズは、当時かなり過激だったので、そのライブハウスのアンプをぐわーって蹴飛ばして、上に乗って、アンプ壊して演奏中止になって、出禁になっちゃったんですよ、切腹ピストルズが。自分らの企画で自分らが呼んだバンドだったからヤバかったけど、うちらは大丈夫だった、笑。

まあ、そんなノリも含めて、すごく好きでファンだったんです。もうめちゃめちゃにするのが好きでたまらない、という時期だったんでハマっちゃって、行けるライブには出来るだけ行って、一緒にめちゃくちゃになるというファンでした。

アンプに乗ってぶち壊したギターの人は、もしや?

あ、それ、もちろん三味線のすーさん(壽ん三・三味線)です、笑。

なので、切腹ピストルズに入隊したのは、二〇一五年の後半で割と遅い方なんだけど、付き合いは古いんです。一時期、隊長がもう一人の仲間と西荻窪でアパートを借りて住んでた時代があって、僕はそこに居候させてもらっていたこともあって。隊長の話(壱の伝)にも出てきましたよね、「鶴屋」って呼ばれていたアジトだったんですけど、その頃からの関係です。

鶴屋時代は、青春っぽいちゃ青春ですよね。ようは溜まり場というかアジトというか。当時の四人の切腹ピストルズのメンバーはもちろん出入りしてたし、隊長はとにかく、人に慕われる人なので、しょっちゅう色んな人が出入りしていました。それで、ここの呼び名をつけよういうことになって「鶴屋」になって、そこに出入りしている連中が「鶴屋一門」という感じになって。で、今もそうなんですけど、鶴屋の居候時代から僕は隊長によく怒られるタイプなんですよね、笑。年齢的には、僕が小一の時に隊長が六年生という関係です。

どういうことで怒られるんですか?

隊長はなんというか、悪い言い方すると、細かい。すごく細かい。僕は、そういう意味で言うと、細かくない。だから「お前、もっとちゃんとやれよ」と隊長のカンにさわりやすい。

なるほどー。この前(三月十五日)の湯河原の寄席で、出囃子の皆さんがいた小上がりから出てくるジュンさんやスーさんが、「あれ、俺の雪駄がない」って、キョロキョロしてたら、すかさず隊長が「下駄箱に入れておきましたよ」って。出口横の棚に綺麗に収まってました。さすがですよね。

隊長すごいんすよ、目配り、気配りが素晴らしい! つまり、悪く言うと、細かい!笑。僕は居候させてもらったり近くにいることもあったから、まあ、愛のある説教を受けてました、笑。なんちゅうか、気分で怒るとかじゃなくて、じっくり考えて言ってくれるから、ありがたいですよね。僕の場合はそんな感じですね。

いちばん強烈だった愛ある説教って覚えてます?

鶴屋時代に一度、破門になったことがありまして・・・。「おまえ出て行け!事件」笑。あるとき突然、隊長が梅干し作りたいって言い出して、僕が生意気に「梅干しっつうのは、一回つくると、毎年作り続けないと縁起が悪いって、昔から言われてんですよ」って言ったんですよ。そしたら「おめえに言われなくても知ってるよ!」とブチ切れて・・・笑。まあ、何度もいいますけど、愛ある説教です。

近いところでバンドやっていたり、熱烈なファンだったり、そして二〇一一年の原発事故をきっかけに今の切腹ピストルズが生まれた時も近くにいて・・・、一緒に「海賊チャンネル」をやっていたジュンさんも切腹ピストルズに入隊して・・・。志むらさんは、ファンではあったけど入隊は希望してなかったんですか?

そこがねー。震災の後、和楽器に持ち変えたときも、そう方向転換するって聞いてたし、一緒にやりたいっていう気持ちはあったんですけど。でもなあ、そこがなあ、僕のちょっとなあ、まあ、ひねくれたところがありまして・・・。

震災の年は、パソコンのセキュリティ関連の仕事をしていて、都内のビルの九階にいた時に、あの揺れが来て・・・。机の下に潜り込んで机の足を握りながら、ここで死ぬのかと思いました。それで、その年の八月、都内から地元に戻って、実家の豆腐屋の修行を始めたんですよ。震災と原発事故を機に、日本も自分も変わるというか、なんかこう、漠然と時代が変わっていくと感じたし、これを機に人生を変えようと思ったんですよね。僕は、都内から離れたんだけど、切腹ピストルズは、和楽器になってメンバーを増やしながら続いていて、一緒にやりたい気持ちはあったんだけど、本当にすごいファンだったから、ちょっと、うーん・・・というためらいもあって。素直じゃなかったんですかね。僕が悔しいというか羨ましかったのは、たとえば、キ介くん(新谷キ介・平太鼓)のあの素直さ。 「一緒にやりたいから入隊させて!」って言える素直さ! キ介くんも、鶴屋にちょこちょこ顔だしていて、僕のように長いこと切腹ピストルズのファンだったんですよね。でもまあ、自分は鶴屋の本部にしっかりいる立場だぞ!と、居候だけどね、まあそういう気持ちがあったから。なんでキ介くんが入ってるのに俺は?というジレンマもあって。ジュンくんも早々、やりたいって手をあげて参加したし。それから、すごくダサいんだけど、和楽器に変える時に、隊長が何人かに「一緒にやらない?」って声かけてるのを知ってるから、俺には声がかかんないって、ひねくれてもいて。あー、やりてえけどなあ。でも、誘ってくんないってことは、俺は、ちょっと違うんだろうなあ、と、もうジレンマやら葛藤やらがあって。実は、和楽器の切腹ピストルズになってから、長い事、ライブを観に行ってなかったんですよ。行ったら一緒にやりたくなるだろうし、なんとなくちょっと逃げてた、目をそらしてた。

ファンと隊員

それでまあ、豆腐屋を三年やったんですけど、売上もあがんなかったし、別の仕事やろうってなって、実家に居ながら外で働くようになって。そんな自分自身の変化の流れで、ジュンくんに「そろそろやろうよ」って言われて、僕も「そろそろかなあ」という気持ちで稽古を見に行きました。

隊長とジュンくんと越谷の駅で待ち合わせして、三人で一緒に行ったんですけど、隊長に「稽古を見学するってことは、お前、もうやりてえんだろう」って言われて「お願いします!」って即答しました。そっからっすね。そっから、平太鼓をやりたかったので教えてもらって。とりあえず、どんくらいかな、二か月くらいかな。二〇一五年十月の終わりに入隊させてもらったから三か月くらいかな、稽古して、一発目が長野県白馬のトラックスバーが初のライブでした。とにかくめちゃくちゃ楽しくて、もうそれだけ!

稽古は、譜面なんてなくて、その場で合わせて稽古していくわけですよね?

そう。一応、動画はいっぱいあるから家で見て。あとはもう、本番の経験が一番でかいと思います。本番をやることで、あとで見返した時に、「あ、この叩き方ダセえ」とか「ここ、間違いやすいところ」とか確認しながら見直して、次は、こう叩こう、とか、こうやればもっとカッコよく見えんじゃねえか、とか。僕はそんな感じでやってます。

最初の頃は、キメ!みたいな感じで叩く時に、自分では気づいてなかったんだけど、動画で見ると首がこんなんなっていて(左右に首をぐらぐらしながら)。これダサいなあ、次回は意識して振らないようにしようって、ちょっとずつ直して。それでまあ少しずつ見ためも良くなってきたかなあと。他のメンバーも、それぞれやり方は違っても、そんな感じで、稽古したり修正したりしてるんじゃないかな、そんな話は改めてしたことないですけど。

演奏する曲に、歌詞があって、それが目安になるわけでも無いし、繰り返しが多かったりしても、途中途中のキメのところも、最後の終わるところも全員ビシッと決まる。あれ、すごいですよね。

ですよね。特に僕がやってる平太鼓って人数も多いし、ビシッと決まってないと本当にかっこ悪いので、先輩にいろいろアドバイスもらいながら練習あるのみです。みんなもそうだと思うけど、切腹ピストルズの隊員として頼もしいヤツになりたいっていう気持ちで、今もずっと精進してます。まあ今は、コロナでずっと演奏する機会がなくなってますけど、普段は、間が空いたとしても、せいぜい二週間。だいたい毎週末に祭りとかフェスとかイベントとか、本番があって、それでよかったんですけどね。

三月十五日の湯河原の練り歩きと寄席が最後かな、あ、渋谷もありました。楽しみにしてたイベント、全部潰れちゃいましたからね・・・。まあ、最初にも話したように、うちの場合は二人目の子供が生まれたタイミングだったので助かってる部分もあるんですけどね。

十二月の「ど田舎にしかた祭り」までには、コロナも落ち着いて欲しいですね。この夏をコロナが乗り越えちゃったら、ど田舎祭りもダメかも。個人的な考えでは、無理してやらない方がいいかなあと思ってます。最近の世の中、怖いですよね。どっちにしても叩く人がいるし。そんな状況で無理してやってるのって、あんまり良くは見えなくて。もちろん、ど田舎祭りだけじゃなくて、自分が関わることが「やる!」となったら進んで協力はするけど、「やる」ことだけに執着する必要はないかなと思います。切腹ピストルズで言うと、俺たち、どこでもできるし、外でも、電気引っ張ってこなくても。もともと成り立ちからそうだもん。原発事故で電気なかったら俺たちもうライブできねえのか? いや、俺たち、できるし!っていうのが切腹だし。コロナでこうなる前から、鼻っから、そこの境目飛び超えて、とっくにこっちに来てたわけだから。

落語と丹下段平

志むらさんといえば、落語!というイメージがあります。去年の秋に西方から「ど田舎にしかた祭り」の有志で益子に来てもらって農村舞台の交流会をしたときに、『酢豆腐』を演っていただきました。いやほんとに面白かった。

いやー、落語の話をふってくれるの嬉しいな。落語のことしか話すことないから(いやいやいやー)。さっきの話にもつながるんですけど、鶴屋時代に、隊長からある日突然、鶴屋一門に指令が飛んだんですよ。「一か月後に、落語会をやるから、ひとり一席覚えろ」って。それで、みんな必死に覚えて。第一回の落語会を西荻の鶴屋でやったんすよね。(二〇〇八年。「一、飯田団紅の伝 その壱」もご参照を)

笑。どう思いました?その指令。めんどくせえな、って思わないんですか?

いやー、みんな慣れてると言えば慣れてるし、隊長はそういう人だってみんな知ってるし、面白いから、じゃ覚えるか、って。あ、当時、僕は「夢屋夢乃助」って名前をもらっていて。そうそう、「志むら」は切腹ピストルズに入隊してから隊長に名付けれらたんですよ。ドリフの志村みたいな立ち位置でいいじゃん!って。志村さんコロナで亡くなっちゃうなんてショックですけど。志むら、気にいってます、自分でも馴染んでます。

それで話を戻すと演目は、そん時も『酢豆腐』でした。実家が豆腐屋だし、隊長が「こんな落語があるんだよ」と教えてくれて。それで軽いノリで選びました。それで確か、ほぼ演者だったんだけど、お客さんに投票してもらったんです。誰が良かったか。そこで、なぜか僕がいちばん評判が良くて、それで初代の落語師匠になったわけなんです。その時はいい感じに肩の力が抜けていて、たまたまホームラン打っちゃった、という奇跡が起きただけなんですけどね。そこから「落語と言えば志むら」になってしまって、何かイベントに呼ばれたりすると僕がやる機会が多くなってしまって、しかし残念ながらその後、なかなかホームランは打てずで・・・。まあもう実質的には師匠の座は、隊長に譲っていますけどね。笑

あ、そうそう、僕が師匠だったから、隊長の「団紅(だんこう)」という名前は、僕が名付け親なんですよ、唯一の自慢です!隊長は、その前、「紅緒」だったんですけどね。で、本人も「いい歳したおっさんが何が紅緒だと、そろそろ名前変えたい」ということになって、「師匠、なんか名前考えてくれないかな」と頼まれて。「よぉろこんで!」と、切腹ピストルズ入隊してすぐに言われまして。で考えに考えてあの「団紅」が生まれたんです。

いくつか案を出して、最初にオッケーが出た案もあったんですけど、隊長も気に入ってくれて、これでいこう、って。でも、僕の中では、隊長にはもっといい名前があるはずという気持ちがあって、考え続けてたんですよね。それで、もう一度考え直して下さいって出したのが「団紅」。「だん」という響きは、降りてきたんですよね。丹下段平から来てんのかな、笑。いやー自画自賛なんですけど、いい名前ですよね。あ、これ喋っちゃうの隊長的にどうなのかな、というのはあるけど。良いですよね?事実だし。笑

師匠!そろそろ新しい落語を仕込む予定は?

はい、いろいろ考えてます、実は。落語だけに拘らずに、切腹ピストルズは寄席をやる機会がけっこうあるので、そんな時に落語じゃなくても、マイクの前に立って、何かやれることをいくつか用意しておきたいというのがあって。いくつか用意はしてます、まだ完成はしてないけど。何かしら考えてます!と言っておきます、笑。

西方と豊田組

最高ですよ、西方は。キャラクターもいいし。隊長が西方の青年部と繋がって仲良くなって、僕もそこに入れてもらって、地域との繋がりができてきて。僕の場合はまだまだこれからですけどね。隊長は、人と繋がっていい関係を作る達人で、そういうの持ってる人なので。それに西方の大工の大ちゃんなんかは、切腹ピストルズの隊員にもなったし。大ちゃんや畳屋の伸ちゃんは、この西方で自分たちが今まで築いてきた関係を僕たちに惜しみなく分けてくれる。彼らの行動範囲の中で僕たちの繋がりもできてきている。ありがたいですよ、本当に。

東日本大震災と原発事故の後にエレキを和楽器に持ち替えて、隊長は、奥さんの実家が西方ってこともあって、西方の田舎に引っ込んで暮らし始めたことは、隊長の深い考えとかあって、全部が繋がっているような気がしますね。僕の場合は、最初はなりゆきで、そこまでしっかり考えずにこっちに来て、結婚して子どもが生まれて、ようやくこれから自分の生き方と暮らしを作っていくところです。とにかく、西方の、このチームワークには、おかげさまとしか言いようがない。

西方で子育てしていけるのも、ありがたいです。正直言うと、自分は結婚も子どもも無理だと思っていたので、結婚して子どもが二人も誕生してくれたことは奇跡としか思っていないんです。自分がどんな父親なのかはまだわからないけど、とにかく子どもには人生を楽しみながら生きて欲しい。子どもが楽しく生きる為ならどんな事も頑張れるし、どんな敵とも戦いますよ。それと、子どもには、好きなことで収入が得られる大人になって欲しいと願っています。

去年の夏に公開された豊田利晃監督の『狼煙が呼ぶ』も、隊長はじめチーム西方との繋がりが深いですよね。音楽だけじゃなく出演も。志むらさんにとって豊田組との体験はどうでしたか?

聴いた話ですけど、ブルーハーブのボスが、豊田監督に「切腹ピストルズいいよ」と勧めてくれていたそうなんですよ。それで、二年くらい前かな、川越のコエドビール祭りというイベントに出ていたら監督が来てくれたんです。うちらが一服してる時に監督が声をかけてくれて、実はその時は、あんまりどういう人かわかってなくて、後で調べたらすごい監督だってわかって・・・笑。その時に監督と隊長は連絡先を交換していて、その週末くらいには「遊びに行っていいですか?」って連絡が来て、監督が隊長の「江戸部屋」に来て、翌日には「日光江戸村」に行って・・・。そっから怒涛のごとくの監督と隊長の付き合いが。もうちょいで、今年の夏で、二年になるのかな。

監督の『狼煙が呼ぶ』にうちらが出ることになって、とにかく嬉しかったです!僕はいつでも、切腹ピストルズの知名度がさらに上がって欲しいと思っているので、次の『破壊の日』にも期待しています!(註一)『狼煙が呼ぶ』に出させてもらったことは、すごい経験でした。豊田監督はとにかく柔軟な人なので、その時の状況でどうにでも創る。付き合いは短いけど、そう言うところ、たくさん見させてもらっているので。十六分の映画をつくっちゃうわけだし。こうでないといけないとか、なんの囚われもないですから。革命家ですよ!
そして、ひたすら「やっぱり切腹ピストルズは面白れえなあ」と言う経験でしたね。撮影の時も、俺たちは農民の格好して竹槍持って。農民の格好というのは俺らの普段の格好だし。演技指導もひと言ふた言あったかもだけど、特に何もないんですよ。渋川清彦さんや浅野忠信さんとか俳優さんたちの後ろに立つ時も、一応、「背の低い人が前に」とか、それくらい。半分は遊びみたいな、オモシレー!!という感じで撮影も進んで。それで、出来上がったものを観たら、やべー!鳥肌立つくらいカッケー!という感じ。すごいですよね。しかも、曲の使われ方が、最初から最後まで丸々うちらの曲じゃないですか。一部に使われるくらいかなと思っていたんで。セリフもない映画だから、見方によっては切腹のPVみたいな。あ、これ言い過ぎかな。でも、良いの?俺たち!というくらい嬉しかった!

次は、『破壊の日』ですよ。予定通り七月二十四日の公開で、豊田監督はやるつもりなんで、そこがいちばん楽しみです。僕が知らない情報もたくさんあるだろうけど、知ってることだけで考えても、もうウズウズしてくるんですよ。上映されたら遡って『狼煙が呼ぶ』も観て欲しいですね。もう観た人も、こっちがこうで、こうだったんだ!という、発見というか楽しみがあると思います!

風景とふんどし

楽しみです! それから、志むらさんにとっての切腹ピストルズとは?とか、知名度を上げていきたい理由とか、そんなことを伺いたいです。

隊員それぞれに、それぞれの切腹ピストルズがあると思うんですが、僕個人がどう考えているかというと・・・。名前だけ見たら、バンド。で、やってることも演奏の活動がメイン。だけど、それ以外のことが、かなり多いし、実はそれ以外の方が大事だったりして、なんだろうな、野良着の格好もそうなんだけど、自分としては、やっぱりねえ、日本・・・、日本らしさだと思っています。なんかこう、日本を守りたい、というのにちょっと近いのかな。

それは、国としての日本?

景色ですね。風景とか、風景の中にいる自分。俺たちがこれを守らなかったら、ここは日本なのかどうかもわからなくなるというか、だから俺たちが守る!という、そういう気概みたいなものを持って切腹ピストルズをやってますね。本気で、カッコイイと考えてますよ。音楽もそうだし、使っている楽器もそうだし。若い頃はそんなことまったく考えていなかったけど。

隊長もいろんなところで言っているけど、「和風」とか「和の雰囲気」とか、日本人のくせに、そう言わないといけないって、変ですよね。僕も一時期「和風が好き」とか言って、昔から好きだったので手拭いをひとつ持ち歩いたりという時期もあったけど、切腹ピストルズに入隊してからは普段から百パーセントだから。

そして、志むらさんと言えば、褌(ふんどし)ですね!

ですね!笑。ふんどしを履き始めたのは切腹ピストルズに入隊してからなので、二〇一五年の暮れからですね。最初のふんどしは手拭いに紐を縫い付けて自分で作ったもので、二本目は、太一さん(天誅山太一・平太鼓)から頂いた切腹ピストルズ大願成就ふんどし。その後は、出会った人から買ったり自分で作ったり、奥さんに作ってもらったりという感じかな。ふんどしには切腹ピストルズが凝縮されています。笑

入隊したばかりの頃は、うちらの格好って現代では目立つから、自分がまだ慣れていない時期は人の目が気になっちゃって。それは嫌な意味じゃなくて、僕は目立つのが好きだから、いい気になっちゃう。でもすぐに人の目が気にならなくなりました。今はもう目立っているとも思わないし、人に見られてることも意識しない。まわりが変わったのか、自分が変わったのかは、よくわからないですけどね。

仕事の時は仕事着だけど、それ以外は靴も服も持っていないし。それでまあ不便な時も、たまにはあるけど、笑。けどまあ、うちの奥さんも、もともと切腹ピストルズのファンだし(註二)、奥さんの両親も応援してくれているので。僕は仕事以外の時は、こんな感じで思いっきり堂々とこの格好でいるわけなんですけど、家族が受け入れてくれているのは、ありがたいですよね。ほんとだったらね、仕事もひっくるめて常に野良着でいられるように暮らしたいけど、それはまあ、今後の目標ですね。

七十歳、八十歳になっても、切腹ピストルズは続きそうですね。

歳をとってもできることをやっていますからね。今みたいな曲ではなくなるかもしれないけど、七十、八十になっても、引退とか解散とかはないんじゃないかな。願わくば、もっと知名度が上がって、もっともっとファンを増やして、野良着も考え方もひっくるめて影響を与えて行きたいですね。そうしたら、さっきも言ったけど、日本の景色、変わりますからね。そしたらね、それは革命じゃないですか。そんな野望を抱いておりますよ。(終)

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註一

◎豊田利晃監督『破壊の日』

今年一月に企画趣旨と東京オリンピック初日と同じ公開日の設定だけが発表され、その後、新型コロナウィルスの感染拡大とその対応であちらこちらが紛糾し困窮する中、ひととしての芯のところでの多くの共感をグッと掴みながらクラウドファンディングで進む映画製作。五月二十八日にはキャストも発表された。
https://www.imaginationtoyoda.com/blank

◎切腹ピストルズ『日本列島やり直し音頭二〇二〇』

日本列島明るい明日へ!というコピーを提げて、六月一日に情報公開されたばかり。『破壊の日』テーマソングとして豪華ゲストボーカル陣(スゴイ!)を迎えて企画され、七月二十二日にディスクユニオンとタワレコで限定発売。詳細はこちら!
ディスクユニオン
https://diskunion.net/punk/ct/news/article/1/88892
せっぷくぴすとるず名物本店
https://edomaruichi.thebase.in/items/30043477

註二|特別後記

結婚の経緯を志むらさんに伺うと、こんな答えが返ってきた。

「出会いですか? うちの奥さんは、もともと切腹のファンでイベントを追いかけてたんですよ。切腹ピストルズは新潟と縁があって行く機会も多くて、僕が入隊してから新潟に行くと、毎回奥さんを見かけたり、ちょこちょこ会う機会もあって、いいなあと思って、僕の方から連絡をとって・・・、まあ今のSNS時代のおかげですね、それでお付き合いするようになったわけです。」

聞き書きの当日は、生後五か月の女の子を抱っこして、二歳の男の子の手を引いた奥様にもお会いできました。「今はとにかく大変で・・・」と、公園を走り回るお子さんを追いかけながらも、おおらかな笑顔! イラストレーターとして似顔絵やマタニティペイントなども行う、ホシノユウさん。後日、メールで「切腹ファン時代、結婚、栃木へ引越し」という変化での思い出などをお願いし、育児でお時間ないなかご快諾いただき(感謝)、とても素敵なメッセージをいただいたので、特別後記として紹介します!

……

奥様のユウさんより
二〇一五年六月、小千谷市で開催された「祭る」というイベントに出演していた切腹ピストルズを観たのが最初でした。彼らの強烈な存在感が頭から離れず、何者なのか、どこから来たのか、何をしているのか? 取り憑かれたように彼らの情報をかき集めはじめました、笑。その夏は三年に一度の「大地の芸術祭」が開催される年でした。芸術祭のアーティストとして地元に彼らが来る事がわかり、その日を心待ちにしていました。

二日がかりの山道練り歩き、小さな集落の夏祭り、寄席、展示、同じく切腹好きな仲間たちと毎週のように楽しませてもらいました。

切腹ピストルズが出没するところに行くたびに驚かれ、その土地での知り合いができて、その人たちにも会える流れが楽しくて仕方なかったです、

切腹ピストルズに惹かれた理由は、ありきたりですがとにかくかっこいい、笑笑。今は着てませんが、初めて見た時はお揃いの紺色の半纏がとにかくインパクトがありました。野良着の集団がただそこにいるだけ、景色に彼らが加わるだけで目も耳も心臓も全部ワクワクしました。演奏が始まった瞬間に自分の中のもやもやしたものが形を保っていられずに粉々になる気持ちよさもありました。

切腹ピストルズを知って数ヶ月後に新しく入った隊員の志むらと縁あって結婚しました。山梨の桜座でまだ演奏デビューもしておらず、客席から飛んでくる座布団を必死な顔でひたすらさばいていた姿が懐かしいです。二人で栃木へ移住し、結婚。隊長家族や隊員の皆さん、栃木の皆さんに助けてもらいながらあっという間に二児の母になりました。

切腹ピストルズと出会って今年で六年目。

志むらさんが一番粋でかっこ良いですよね?と、聞かれましたが粋かどうかはあんまり考えた事ないです(笑)私も粋はよくわからないし、(粋って難しいんです!多分)本人は粋でいたいと思ってるかもしれないけど、粋を意識すればするほど空回りしがちな不器用さがあるので、私の中では粋とはまだちょっと遠いかな、、(笑)でも、自分が出来ることを全力で一生懸命やる姿は切腹ピストルズでも父ちゃんでも一番かもしれません。疲れていても、うまくいかなくても、家族に、切腹ピストルズに、一生懸命向き合ってくれるので、私にとってはそれが一番かっこいいと思います。

最近は育児真っ只中で切腹ピストルズから遠ざかっていたので、早く子連れであちこち遠征したいです!!

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挿絵|黒田太郎
聞き書き|簑田理香
取材・二〇二十年四月二十七日 栃木市にて。
追加取材・二〇二〇年五月 電子網にて。