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世の中が期待する、
正解から外れたその先に

久保田大地の伝
締め太鼓。新潟県十日町市松之山

久保田大地。

切腹ピストルズ二十一人衆では(最近、二十二人になったという噂もある)二番目に若い、二十二歳の締太鼓隊員。高校生の頃から地元の盆踊りや芸能祭で活躍する太鼓集団「うらだ屋」で活動し、高三の夏に切腹ピストルズに出会い、入隊した。都内の大学を中退したあと、地元の温泉施設で働きながら、祖父母の農作業を手伝い(註1)、古い野良着を手当したり、新しくこしらえて販売するブランド(註2)を立ち上げている。写真・二〇一八年十月二十一日「アースデイ日光」にて。右に映るのが最年少七歳のイチくんでございます。






約一年前の四月

「黒のスーツが染めた大学の入学式に感じた違和感」「大学の入学式ですら、新入生全員がダークスーツという日本の病的な…」そんな見出しが、ネットニュースに並び、SNS の中では、やたら威勢がいい有識者と呼ばれる類のおじさまが「最近の若者は個性がない!」と、したり顔(推定)でコメントしていた。個性を奪う環境を作ってきたのは、あなたも私も含めて、年長の大人集団だと思いますけれども…と感じながら、そんな記事を眺めていた。

ちょうどその頃、「さよなら〜」と、さらりと書き込んだ写真をインスタにあげて、故郷に帰った若者がいた。そこに写るのは、在学していた都内の有名私立大の正門。大学を中退して戻った先は、生まれ故郷、新潟十日町市の松之山。日本三大薬湯の1つと言われる温泉地であって、多い年には三メートル近い積雪があるという豪雪地帯。

故郷に戻って一ヶ月と少し。そんなタイミングでの彼の話をまずは聞きたく、まだ雪が残る新緑の松之山を訪ねた。メッセンジャーで訪問の申し出を送り、何回かやりとりさせてもらったその印象は、明るいし、丁寧だし、メールのむこうに、きちんと「ひと」がいる手応えがある。

当日、最寄駅に迎えに来てくれていた彼の車の後部座席には、太鼓がデンと坐り、カーステレオからは、ちょっと意外にも軽快なジャズが流れていた。町外からの客人が来たら必ず案内するというブナの自然林「美人林」に連れて行ってもらった。





二〇一九年五月

大学をやめる!って決めたあたりの話から聞いていいですか?


大学をやめるまで、二年近く迷っていたんですよ。決断できたのは、このブナ林に連れてきてもらった時で、大学三年の冬です。知り合いに「雪のブナ林に行ってみよう」って声をかけてもらって。今まで、もちろんこのブナの林のことは知っていたけど、車で通りかかるくらいで、冬に林に入るなんてまったく経験がなかったです。それで初めて林の中に入ってみたら、もうなんか、山の中ってこんなにすばらしいんだって思えて。雪が積もっている林に、かんじきを履いて入ったのも初めてだったし、こんなすごいところに自分は住んでいたんだ!っていう感動がすごかったですね。林の中を歩いていると、どんどん見えてなかったところが見えてきて、山のあっちのほうの木立とか、丘とか、そういうのもどんどん見えてきて。なんだろうな、ほんとに、ここにはすべてがあるという感じがしました。きれいだなと思いながらも、それだけじゃなくて、なんかわくわくしましたね。

そんなことや、今までの積み重なった思いで、4年に上がるときに退学届けを出して帰ってきました。



高校は、近くの六日町で、福祉学科がある高校に行ったんです。小学五年のときに、じいちゃんが肺癌で死んで、同居していたこともあって、死ぬまで介護の手伝いしていたんですよ。でも何もできなくてもどかしくて、福祉に進む事も考えて学校も選んだんです。高校の三年間は、もういま思い出しても大変で大変で。俺、なんか自分で勝手に背負っていたんですよね。一年のころから生徒会に入って、三年で生徒会長やりました。福祉の授業は、自分たちで管理もやりながら実習が多いし、ボランティアにもけっこう行くし、俺にはけっこう負担になってきて…。やらなきゃいけないこと、期待されていることをこなすので精一杯で、自分で考えたこと、思ったことをやるというのが、その頃はまったくできなかったんですよね。自分で勝手に忙しくして疲れすぎているし、生徒会長やって先生たちからも期待されるし、人の目も気にしていたし。何も考えていない自分がいて、なんにも感じられてない自分がいて。でもそれ、自分でうまく表現するなんてできないじゃないですか。ただ必死にこなしていたんですよね。

入学する前は、もっと普通科目もあると思っていたんですけど、ちょっとリサーチ不足で、どっぷりと専門的で。高校から普通科じゃなくて専門を絞って福祉に行ったのは、今思うと、けっこうこだわりが強かったんですかね。それで、卒業後の進路を考えるときに、やっぱり福祉はベースにあって、でも高齢者福祉、高齢者介護だけじゃなくて、もっと幅広く他の分野も学べるところがいいだろうと、立教大学のコミュニティ福祉学科に進んだんです。自分が行けそうなところで、一番レベルが高くて、そこを目指して頑張った。大学に行って学ぶうちに、自分の中から高齢者の介護以外に自分のやりたいことが見えてきたり、生まれてきたりするだろうと、そう思って。実際、入学してしばらくして、学ぶことをどう生かすかとか、考えていた時期もあったんですけど。たとえば、地元に高齢者施設を作りたいなって。冬は除雪が大変じゃないですか。年寄りには。冬の間だけ住めるような居場所を作りたいなとか。でも、だんだん違和感というか、自分の本質みたいなところとのズレを感じ始めて…、なんか違うんだよな、って。

東京で暮らして大学通っていても、東京はあんまり好きじゃないなと、1年の頃から感じていて。地元の太鼓の活動もあるから二、三ヶ月に一度は帰ってきていたし、それから切腹に入れてもらってから、都会よりは地方に演奏に行くじゃないですか、行った先々で、地方の良さを見て、俺、なんかこっちの方が合っているなって思いも強まりましたね。

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そういう、わりと地域に意識が向いている感覚というのは、どんな風に培われてきたんでしょう?

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どうなのかな。この地域が好きだというのもあるだろうし、住んでいる人が好きだというのもあるだろうし。住んでいる人たち、年上の人たちは、すごく尊敬しています。こんなところでよく六十何年も生きてきたな!という気持ちです。雪の中で、山の中で…。単純にもう、ここでずっと生きてきたのは、すごいことだなって。大学進学で東京に一回出てから、そう感じるようになったんですよね。

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まず、尊敬の気持ちがあるんですね。高校まではどうでした? こんな田舎早く出てやるぞって思っていたとか?

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いや全然! そういうわけではなかったし、子どもの頃からずっと地元が好きでしたね。小学校の頃から、中学になって太鼓やるのが待ち遠しかったんですよ。地元に「うらだ屋」という太鼓集団があって、中学生にならないと入れないという謎ルールがあって。で、中学に入って始めたんですけど、ちょうどそのときに芸術祭が始まって協力し始めたから出番も増えていたんですよね。もともとは夏の盆踊りとかで、演奏を披露していて。うらだ屋の太鼓演奏があって、そのあとに、盆踊り。盆踊りでは、俺のじいちゃんが歌って、そのあと、お父(おとう)が歌っていたんですよ。

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それは、すごい! いまね、『盆唄』っていう映画が劇場で上映始まっているんですが、新潟にきたら、ぜひぜひ!おすすめです! 福島の双葉町ってあるじゃないですか、原発事故で住めなくなって、いろんなところで避難所生活を送るひとたちで、やっぱり盆踊りの時の唄い手だったり、太鼓の人だったり、ずっと盆唄を継承してきた人たちがいて、みんな散り散りなっちゃったから、自分たちの代で盆唄が消えてしまうことが、たまらなく悲しいんですよね。それでなんと、双葉の盆唄を、百年も前に移民としてハワイに渡った人たちの子孫の皆さんがハワイで歌い継いでいることがわかってですね(アツくなった簑田、語り続ける。中略)

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へえ、よさそうですね。

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よいよー。それで、監督が、中江裕司さんなんですけど、彼がいろいろ調べ始めたら、福島に伝わっていた盆唄のルーツが加賀にあったらしいということがわかってきて、加賀のお寺も訪ねて・・・(ふたたび中略)

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繋がっていますよね、日本中。こっちに帰ってきて、昔のことや、昔のものが気になって、調べ始めたりしているんですけど、友達でも一緒にやってくれそうな人がけっこういるから、これからちょっと楽しみなんですよ。



自分の中では、やっぱり切腹との出会いが大きかったですね、なににつけても。最初は、高3の5月かな、今は松代に住んでいる克哉さん(尺八・篠笛、野中克哉)が、そのころ浦田に住んでいたんで、俺が参加してる「うらだ屋」の演奏を見に来てくれて知り合ったんですよ。七月に大地の芸術祭で切腹が練り歩きするから、どう?って誘われて。

山の中を三十キロ、二日間かけて練り歩きするんです。俺は、後半の十五キロだけ歩いたんです。それまでは、長胴太皷だったから、そのときに初めて平太鼓を借りて。音を出したのもそのときが初めてでしたね。事前練習とかもなくて、ぶっつけ本番です。当日、みんなが泊まっている集会所に、俺と克哉さんが行って「こんにちは、よろしくお願いします」「あ、よろしく~」みたいな感じ。それで、ではこの太鼓を担いでね、みたいな。

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意外とさらっとしてたんだ(笑)。緊張した?

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ちょっと。でも、なんかそのとき「自分はできる」という気持ちはありました。そういう時期でしたから(笑)。克哉さんに声かけてもらってから、動画とかはちょっと見てたんですけど、でも、そこまで興味があったわけじゃなくて、なんかやってんな…みたいな。


なんだろう。やりたい人たちが集まって、どかんとやって終わるみたいな。特に、しっかりした構成があるわけでもないし、どこが見せ場かというのも分からないし、着てるものも見たことがないし、ぴんとこなかったです、とにかく。阿波踊りとかの経験がある人には、わかるわかる!ってなるかもしんないですけどね。

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平太鼓たたきながら一緒に歩いて、なにか気持ちが変化してきたりしましたか?

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ああ、なんか威勢がいい感じとか、途中で「うおおお」って、いいところで叫ぶ感じとか、僕がそのころ、やりたいなと思っていたのは、これだったんだ、と。うらだ屋は、どっちかというと、ちゃんとしたパフォーマンスな感じがメインなんです。だけど、なんかそれだと、見てる人はおもしろくなさそうだなと思う気持もあって、仲間たちと、自分で動きたいように動きながら演奏することを試していた時期だったんですよね。それが、これだ!みたいな。途中から、ぴんと来ました。これ、すごくいいなって。


それから、練り歩きでは、家の中から人が出てきて、おじいさんもおばあさんもすごく喜んでくれるんですよ。自分がやりたいことをやって、それで人が喜んでくれるって、ほんと嬉しいです。

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切腹の人たちとは、それで一気に馴染んだんですか?

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いえ(笑)。微妙な距離感で練り歩きして、ゴールしたあとに、ちらほら会話して、なんか野良着っていいよ、太鼓もやっぱりいいよねって話になって・・・、隊長から「よかったら入らない?」って言われて。メンバーの「民意」はわかんなかったですけど(笑)。

それから大学いって、東京からだと参加しやすいから、けっこう活動に参加していたんですけど、環境が変わって、やっぱり東京には馴染めなかったし、切腹のみんな、これまでに接したことがないような人たちだし、なんだか1年目の最初の頃は、馴染めなかったですね。

隊長とか、太一さんとか、ほかの人もですけど、なんかもっとみんなの輪に入りなよって声かけてくれたり、そういう雰囲気をつくってくれたりしていたんですけどね。

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たとえば?

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ライブハウスの演奏前に、みんながいろいろ雑談していても、俺、もう全然そんなのどうでもいいわと思っていた時があって、ひとりで本を読んでたんです。あいつ本読んでるぞ、みたいな声も出ていたりして、遠くから、ひとりごというみたいに、実は俺に話しかけてくれているというか…そんなのもありました。聞こえてるだろ?みたいな感じが、それにもちょっとムカついていたかもしれない(笑)。今思うと、すっごい失礼なやつですよね。


そのあと隊長が来てくれて、最近どう?とか、生活はどう?みたいな話を聞いてくれて。隊員の皆さん、すごく気遣ってくれて…、いまごろですが、その節は有難うございました!笑




東京に出て環境が大きく変わったっていうのがベースにあったから、なんか余裕なかったかもしれないですね。ほんとに、山が好きだったから、いやだったな都会は。東京でないとできないことがあるとか、東京で思い切り仕事したいとか、そういうのもなかったし。

結局、一年の後半、秋から三月まで大学は休学したんです。休学していた時は、一か月くらい地元に帰って、それから東京に戻って…。俺、大学休学してんのに、切腹の活動に行っていいのかな、というジレンマもあったんですよね、正直。勝手にそういうプレッシャーかけたりしていて、制約をどんどん作っていたんですよね、自分。


でも、いま思うと、切腹に馴染めてきたきっかけが、休学を始めた十月ごろにあったんですよね。トヨロックっていうお祭りがあって(愛知県豊田市)、そのときに、みんなで宿泊したんですよね。そんで、当然、一緒に宿泊とかいやじゃないですか。その時は、一緒にいたくないな、一人がいいなって思っていて。思っていたんですけど、一緒に泊まってみたら、自分の今の状況とか悩んでいることとかを、なんでだろう、すんなり色々としゃべれたんですよね。それで隊長とか太一(天誅山太一・平太鼓)さんとかに「ああ、そうなんだね」とか「もっと構えなくていいよ」みたいなことを言ってもらえたのが、それこそ自分の解放の第一歩みたいな感じでした。

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構えなくていいよというのは、切腹のほかのメンバーに対して? 世の中に対して?

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ああ。そのときはたぶん切腹のメンバーに対してだと理解したんですけど、他人に対してだけじゃなくて、自分に対してとか、世の中に対してとか、そんな意味も含まれていたんだろうな。

それで、隊員のことを色々話聞いたりする様になって、生き方とか暮しかたとか、背景が見えてくるじゃないですか、けっこう自分にとっては衝撃的だったり、それもアリなんだって気づいたり。なんだろう、真面目じゃない生き方、世の中の真面目じゃない生き方をやってる人たちが見えてきて…。

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真面目じゃないというのは、世の中で普通の常識、常識的に普通はこうでしょみたいな、決められている真面目さみたいな感じですか?

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そうそう、そうですね。それで自分に自分で作っていた柵もいつの間にか取れてきて、自分の幅が広がって・・・、二年に進級したあたりから、自分を解放してあげることができてきたというのがありましたね。

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ニューヨーク公演「逆黒船」(註3)はどうでした?

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あれは、子どものころに海賊になりたいと思った男の子が、ほんとにやったな!みたいなかんじでした。行ったのは二年の六月ですね。隊長からその話がきた時は、最初、遠出したくないって思ったんですよね、正直。元気のない頃だったから。でも、行って良かったですよ、自分はよけいに山の中が好きになりました。

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ニューヨークに行ったから?

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うん。それもあると思います。

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なるほど。タイムズスクエアで演奏している映像で、手ぬぐいを頭にかぶって太鼓叩いてる久保田さんが、一瞬ちょっと上を向いて吠えるところが映ってます。気持ちよさそうに見えたけど?

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うーん。なんか、なんだろうな。あんまりいい感じはしなかったですね。どうしようもないじゃないですか、あのビルとか。壊しようがない。スーさん(壽ん三・三味線)が、「エネルギーの空ぶかし」って言っていたんですよ。僕がそれを聞いて思ったのは、どうにもできないことに対してでも、自分が思っていることを全力でぶつけてくるみたいな、なんにもならないことだけど、とにかく全力でやったみたいなことかな、と。だから「ニューヨークでやったぜ!」みたいな感じじゃなくて、ただ、大都市のどこかでやりましたみたいなことと同じことというか…。分かんない。それも醒めている見方かもしれないけど。

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ハーレムでは?

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ハーレムとかで演奏したときは、また違う盛り上がりがあって。公演が終わってから見た記事なんですけど、「自分の根源に問いかける音だね」という感想があって。日本人も同じようなこと言ってくれる人もいるし、そういうことを感じてくれる人が、あの場にもいたってことが、嬉しいですよね。パンクアイランドもよかったですね。あれはよかった。YouTubeとかで見る海外のバンドの騒ぎが起きているのを、生で見ることができて。

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私が見たパンクアイランドのライブの映像では、最後に何人かのお客さんがカメラに向かって感想を話しているでしょう。最後に十八か十九くらいの若い男の子が、感極まって、なんかしゃべろうとするんだけど泣いちゃっていましたよね。切腹のメンバーが横で見守っていたのかな。「分かってるよ、言いたいことは」みたいな感じで、にこにこしながら肩をたたいてあげて、あれ、志むらさん(平太鼓)だったかな、それがすごく印象に残っていて。向こうの若い人たちに何かが確実に伝わったんだなと。彼も若いなりの悩みを抱えていたかもしれないけど、切腹の演奏でぐっときちゃったみたいな、そんな感じなのかな?

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それはね、マシュー。そのあと、秋に切腹に会いに日本に来たんです。

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えー、なんと!そうなの?すごい! 

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都内のメンバーの家に泊まって観光したり、瀬戸内国際芸術祭でも演奏する時期だったから、その時に一緒にお遍路も行って。彼は、多分同じ年だと思うんですよね。そんなに話したわけじゃないけど、彼にも彼なりの、どうしようもない若い悩みみたいなのがきっとあって、それを互いに確認し合って終わった感じでした、僕と彼はね。

僕も演奏中に泣いたことがあって、こんなにすごいことができるんだって感動が一気に押し寄せてきて泣いて。どこでかって? アメリカ行く前の冬かな、沖繩の那覇、桜坂アサイラムというイベントです。ライブでは、目の前にいる会場の人たちと一体感って共有できるんですけど、あの時は、それを、その後ろで、近くに住んでいる人達とかもたくさん見てくれていて、それもほんとうに楽しそうに見ていてくれて。その姿が目に入ったら…。切腹みたいな集団はおそらく世の中にいないじゃないですか。その、民衆的な、というか、素人集団がこんな一体感を作り出せるんだ、これ、ほんとにやっちゃっているんだというのがすごいなと思って、ぐっときちゃったんですね。


なんでもできるんだなって思いましたね。でも、それも切腹の力に、僕が入れてもらっているからで、それを自分でやるには、またいろいろあると思いますけど。


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ご自身で始めた事のひとつに、手縫いの道中袋や野良着づくりがありますよね。あれはいつから? そのきっかけをちょっと詳しく聞かせてもらっていいですか?

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二年に上がる春休みですね。きっかけは、鯉口シャツが欲しかったんですけど。あの、祭の時に下着として着る丸首の。欲しかったんですけど、八千円くらいしてけっこう高いなあと感じて、自分で作れるだろうと思って。ミシン持ってないし手縫いです。初めてにしてはうまくできたかな、と。最初は、特に何も考えていなくて、自分が欲しい物を作りはじめただけですけど、だんだんやっているうちに、大切にしたいこととかがみえてきて。

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蔵の中に眠っていたような、野良着や古布を集めている?

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うん、集めてます。古い布を扱う人って、それをみんなパッチワークにする人が多いじゃないですか。それでジャケットにしたりとか。それがハイブランドになって高く売られていたりします。





久保田さんの場合はそれをなるべく昔のまま、野良着のまま着てもらいたいということで制作していますよね。その辺のこだわりの理由というのは?

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ああ、それは、昔の布に対する思いです。その時代に、その布が織られて、それが生きて使われていた。それを今の僕たちがはさみを入れて切り刻んじゃうのは、すごい失礼なことだと思うし。しかもそれがジャケットとか、他国のものになってしまう。


和の要素って言っても、袋じゃなくて、ポーチとか現代的な感じになる。それはなんか違う。野良着をいただいたら、穴が空いているところなんかに手当をしたり、ほつれているところを補強したりして、できるだけそのままの形を維持しています。それに、野良着の形で残すと、全部直線裁ちだから、解いても一枚の布に戻るんですよ。だから、百年後に生きる人が俺の作ったのを見ても、また使えるし。残せるし。


今日、着ているこれも、それこそ浦田の人が使っていたやつ。当て布をして破れたら直すことでずっと着ることができます。昔はもっと安かったんですって、もんぺが。反物も安くて、一反が、二千円、三千円。それだけ生活用品だった。身近だったんだなと。

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地域の人たちは、昔の野良着をとっていらっしゃいますか?

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処分する人が大半のように感じています。野良着は、豪雪の苦しい記憶というものと一緒だからだと思うんですよ。「ダウンという軽いものがあるのに、なんでわざわざ綿入れ着るの?」みたいなこと、言う人もいますね。また、世代交代や災害の影響で処分することも多いそうです。

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同じ年代の友人達はどうですか?

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波長があう友達もいるし、太鼓やっている友達もいるし。昨日、同級生と一緒に山古志で太鼓やってきたんです。 彼もこっちで仕事も見つけたから、これから色々一緒にやれることもあると思う。

この二、三年で、地元の人も、切腹の人も、いろんな出会いがあって。一般企業に就職した人も、自分のやりたいことをやり続けている人も。立教には、ずっとエリートコースに乗っかっていて、うまく人生やっていきたい人も多くいた。就活で勝ちあがることは、世の中の正解に対して自分を合わせて当てはめていくことができるってことかなぁと思っていて、ある意味でそれは凄いなと思います。でも俺は、それしたくないな。それをしたら、自分が壊れると思います。だからその道を選ばなかった。切腹と出会ってから、大学をやめて地元に帰ってから、ほんと、いろんな人に出会いました。これからもそうだと思うけど、その刺激で自分がどう変わっていくか、ほんと分からないなというのも実感していて。またいくつか転機もあると思うけど。まあ、予測できないから、楽しみですよね。

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二〇二〇、三月

ここまでの話を聞いた後、ウェブページの立ち上げに時間をかけながら時は流れて、その間にも、SNS を通して、久保田さんの「その後」の変化がビシビシと伝わってくる。「野良着太郎」で発表する野良着や道中袋のバリエーションが増え、そこに記される、使用した古布などにまつわる話にも、かなりの勉強(見聞)の後が伺える。地域のお年寄りにも色々な話を聞きに行っているらしい。おー、温泉施設や福祉施設で何かやってる! 独演会? 太鼓の演舞、民話の語り、あら三味線も? ということで、メッセージチャットのやりとりで「近況」をお話しいただきました

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独演会のこと

どんな経緯で始めたんですか? 手応えはどうでしょう?

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勤めている温泉施設の社長さんから「当館のイベントとしてやってみないか?」とお声掛けいただいて、それもいいなぁと思って始めました。この半年で、福祉施設慰問も含めて合計六回の独演会を行いました。親も数回見に来てくれたんですけど、「こんなに芸達者だとは思わなかった。そういえば保育園の文化祭でアドリブ発してたなぁ」とか、「頼もしく感じられたよ。新しい企画にも挑戦してみたら?」なんて言われています。

お客さまからは、感動の声をたくさんいただいて、嬉しい限りです。昔話をしている最中には「おら、このしょの話、聞きにきたぁだ(私はこの人の話を聞きに来たの)」という声が聞こえてきたり、親から昔話を聞いた方が何人もいることが分かって、その経験を語ってもらったりしました! 舞台後方に設置する野良着にも、よい反応を示していただけます。次の演奏機会を提案していただくことも多く、本当に有難いことです。


これからの展開は、松之山観光に繋げられる昔話を紹介したり、じさばさに民話を朗読してもらったり、じさばさから聞き取りした昔のお話を紹介するとか、地元の人の声を直に聞く時間を作ることも考えてます! 太鼓各種に三味線は、もっと自分が楽しむことで、お客さまも楽しくなれるようにしていきたいです。三味線は、本やYouTubeで独学です。スーさんが三回くらい教えてくれたこともあります!自分の部屋でつま弾いてる時間が楽しいと感じるので、まだ習いにいかないかな…。習いたくなったら行きます!


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昔の話の聞き取りのこと

文献を探して読んだり、お祖母様に聴き取りをしたり、松之山の昔のことを調べ始めていますよね。どんなことが見えてきて、どんなことを面白く感じていますか?

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今の九〇歳くらいの世代の方たちは、今とは比べ物にならない貧しい暮らしをしていたことが分かってきました。そんな中で、またそれを見て育った世代が、辛い時代の野良着から洋服へ、安価で実用的なモノへ移行したいと思うのは自然な事のように思えてきましたね。暮らす土地についても、除雪ができなくなったり、一人暮らしになって住み続けるのが危険だと思った方は山間部から平野部へ暮らしを移す、それもそうですよね。

ただ、山間は貧困にあえいでいたというイメージばかりが強かったけど、時代や土地に適した娯楽が想像以上にあって、仲間同士でも面白く暮らしを営んでいたし、県、昔は藩ですね、その境界を超えた交流もあった。昔も今も、その人が生きている瞬間が最先端であるという当たり前のことを実感して、昔のことに、さらに親しみと関心を強く持つようになってます。


それから、わかってきたことのひとつが、地域にひとりは居た「物知り爺さん」の話をまとめた記録が、案外残っているということ。地域のじさの本棚の奥に仕舞われていて、聞かないと出てこない。そんな風に忘れ去られていくものもたくさんある。新しいモノ・コトはいくらでも生み出せるけど、過去のものは忘れ去られると帰ってきづらいですよね。昔のことを自分から進んで語らない人は多いけれど、質問していくと、喜んでお話してくださる方が多いんです。自分のことを聞いてもらいたいのは、やっぱり人間の本質なのかな…。顔の表情を若返らせて話す人も多くて…。「話を伺いたい」というアピールや、実際に足を運んで話を聞くことを続けていきたいですね。(終)




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註1


仕事が休みの日に野菜の出荷準備などを手伝いに行く、母方の祖父母の家。松之山を訪れた日、私も一緒に伺い、祖父の竹内茂俊さんにも地域のいろんな話を教えていただいた。茂俊さんは、合併前の町役場から勤め上げ、若い頃から仕事でも仕事の延長上でも、仲間たちと地域振興を担ってきた方。十一月から三月までは、関東や名古屋方面へ焼きいもや夜鳴きそばの屋台の出稼ぎに行くしかない豪雪地帯で、なにかできることはないものかと、常に考えをめぐらしていらっしゃったようです。取り組みのひとつに、茂俊さんが中心となって三十年近く前に立ち上げ、若い世代にバトンを渡しながら続いてきた、都会からのツアー「豪雪塾」があります。一九八〇年代に、広島県の総領町(現・庄原市)の役場職員が中心に立ち上げた、過疎のまちづくり「過疎を逆手に取る会(逆手塾)」を知り、視察に赴き、「過疎というけれど、あなたのところには雪があるじゃないですか」「そうだ、豪雪を逆手に取ろう!」と。茂俊さんは、土建屋さんや電気屋さん、農協職員など六人の仲間を集め、一六〇戸を一軒一軒訪問して寄付を募り、農家民泊としてのツアー客受け入れもお願いするなど、準備に奔走し、年間に四回、季節ごとの東京からのツアー「豪雪塾」を仕掛けます。春は残雪の山菜採り、夏は室で保存しておいた雪でかまくらをつくり、秋や冬は、かんじきや雪下ろしや、年越しを雪国で体験する。二十年続けて、六百人以上が松之山を訪れたそう。続く仕組みと、続けるために地域でバトンが渡されてきたことが何よりすばらしい!

「ツーリズム」とか「地域資源」とか「関係人口づくり」とか、さも新しい発明のような言葉が飛び交う昨今ですが、地域では、昔から、やっているひとはやっている。そこに根を張って生きる人たちが、地域の尊厳を守りながら…。そんなことを、私も教わりました。茂俊さんと久保田さんの会話も、祖父と孫というより「地域の同志」という印象で、コタツでお茶と、おばあさまのおいしい山菜のお茶請けをいただきながら、なんだかとてもこちらまで幸せな時間を過ごせたのでした。

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註2


久保田さんがこしらえる野良着や道中袋の通販サイト「野良着太郎」。「ご挨拶」には、彼のブレない思いが端的に表現されている。美術関係の人や、服にこだわりを持つ人、大切に着る意識がある人など、リピーターさんも多いという。

https://sannzinn.thebase.in

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註3

アメリカ公演の様子は、YouTube「ドキュメンタリー切腹ピストルズ公式」チャンネルで観ることができる。

https://www.youtube.com/channel/UCzsvhsMziZLqgwpPhWWIulw/videos

挿絵|黒田太郎
聞き書き|簑田理香
取材・二〇一九年五月十三日 松之山にて。
追加取材・二〇二〇年三月 電子網にて。

久保田大地。
切腹ピストルズ二十一人衆では(最近、二十二人になったという噂もある)二番目に若い、二十二歳の締太鼓隊員。高校生の頃から地元の盆踊りや芸能祭で活躍する太鼓集団「うらだ屋」で活動し、高三の夏に切腹ピストルズに出会い、入隊した。都内の大学を中退したあと、地元の温泉施設で働きながら、祖父母の農作業を手伝い(註1)、古い野良着を手当したり、新しくこしらえて販売するブランド(註2)を立ち上げている。写真・二〇一八年十月二十一日「アースデイ日光」にて。右に映るのが最年少七歳のイチくんでございます。

約一年前の四月
「黒のスーツが染めた大学の入学式に感じた違和感」「大学の入学式ですら、新入生全員がダークスーツという日本の病的な…」そんな見出しが、ネットニュースに並び、SNS の中では、やたら威勢がいい有識者と呼ばれる類のおじさまが「最近の若者は個性がない!」と、したり顔(推定)でコメントしていた。個性を奪う環境を作ってきたのは、あなたも私も含めて、年長の大人集団だと思いますけれども…と感じながら、そんな記事を眺めていた。
ちょうどその頃、「さよなら〜」と、さらりと書き込んだ写真をインスタにあげて、故郷に帰った若者がいた。そこに写るのは、在学していた都内の有名私立大の正門。大学を中退して戻った先は、生まれ故郷、新潟十日町市の松之山。日本三大薬湯の1つと言われる温泉地であって、多い年には三メートル近い積雪があるという豪雪地帯。
故郷に戻って一ヶ月と少し。そんなタイミングでの彼の話をまずは聞きたく、まだ雪が残る新緑の松之山を訪ねた。メッセンジャーで訪問の申し出を送り、何回かやりとりさせてもらったその印象は、明るいし、丁寧だし、メールのむこうに、きちんと「ひと」がいる手応えがある。
当日、最寄駅に迎えに来てくれていた彼の車の後部座席には、太鼓がデンと坐り、カーステレオからは、ちょっと意外にも軽快なジャズが流れていた。町外からの客人が来たら必ず案内するというブナの自然林「美人林」に連れて行ってもらった。

二〇一九年五月
大学をやめる!って決めたあたりの話から聞いていいですか?

大学をやめるまで、二年近く迷っていたんですよ。決断できたのは、このブナ林に連れてきてもらった時で、大学三年の冬です。知り合いに「雪のブナ林に行ってみよう」って声をかけてもらって。今まで、もちろんこのブナの林のことは知っていたけど、車で通りかかるくらいで、冬に林に入るなんてまったく経験がなかったです。それで初めて林の中に入ってみたら、もうなんか、山の中ってこんなにすばらしいんだって思えて。雪が積もっている林に、かんじきを履いて入ったのも初めてだったし、こんなすごいところに自分は住んでいたんだ!っていう感動がすごかったですね。林の中を歩いていると、どんどん見えてなかったところが見えてきて、山のあっちのほうの木立とか、丘とか、そういうのもどんどん見えてきて。なんだろうな、ほんとに、ここにはすべてがあるという感じがしました。きれいだなと思いながらも、それだけじゃなくて、なんかわくわくしましたね。
そんなことや、今までの積み重なった思いで、4年に上がるときに退学届けを出して帰ってきました。

高校は、近くの六日町で、福祉学科がある高校に行ったんです。小学五年のときに、じいちゃんが肺癌で死んで、同居していたこともあって、死ぬまで介護の手伝いしていたんですよ。でも何もできなくてもどかしくて、福祉に進む事も考えて学校も選んだんです。高校の三年間は、もういま思い出しても大変で大変で。俺、なんか自分で勝手に背負っていたんですよね。一年のころから生徒会に入って、三年で生徒会長やりました。福祉の授業は、自分たちで管理もやりながら実習が多いし、ボランティアにもけっこう行くし、俺にはけっこう負担になってきて…。やらなきゃいけないこと、期待されていることをこなすので精一杯で、自分で考えたこと、思ったことをやるというのが、その頃はまったくできなかったんですよね。自分で勝手に忙しくして疲れすぎているし、生徒会長やって先生たちからも期待されるし、人の目も気にしていたし。何も考えていない自分がいて、なんにも感じられてない自分がいて。でもそれ、自分でうまく表現するなんてできないじゃないですか。ただ必死にこなしていたんですよね。
入学する前は、もっと普通科目もあると思っていたんですけど、ちょっとリサーチ不足で、どっぷりと専門的で。高校から普通科じゃなくて専門を絞って福祉に行ったのは、今思うと、けっこうこだわりが強かったんですかね。それで、卒業後の進路を考えるときに、やっぱり福祉はベースにあって、でも高齢者福祉、高齢者介護だけじゃなくて、もっと幅広く他の分野も学べるところがいいだろうと、立教大学のコミュニティ福祉学科に進んだんです。自分が行けそうなところで、一番レベルが高くて、そこを目指して頑張った。大学に行って学ぶうちに、自分の中から高齢者の介護以外に自分のやりたいことが見えてきたり、生まれてきたりするだろうと、そう思って。実際、入学してしばらくして、学ぶことをどう生かすかとか、考えていた時期もあったんですけど。たとえば、地元に高齢者施設を作りたいなって。冬は除雪が大変じゃないですか。年寄りには。冬の間だけ住めるような居場所を作りたいなとか。でも、だんだん違和感というか、自分の本質みたいなところとのズレを感じ始めて…、なんか違うんだよな、って。
東京で暮らして大学通っていても、東京はあんまり好きじゃないなと、1年の頃から感じていて。地元の太鼓の活動もあるから二、三ヶ月に一度は帰ってきていたし、それから切腹に入れてもらってから、都会よりは地方に演奏に行くじゃないですか、行った先々で、地方の良さを見て、俺、なんかこっちの方が合っているなって思いも強まりましたね。
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そういう、わりと地域に意識が向いている感覚というのは、どんな風に培われてきたんでしょう?
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どうなのかな。この地域が好きだというのもあるだろうし、住んでいる人が好きだというのもあるだろうし。住んでいる人たち、年上の人たちは、すごく尊敬しています。こんなところでよく六十何年も生きてきたな!という気持ちです。雪の中で、山の中で…。単純にもう、ここでずっと生きてきたのは、すごいことだなって。大学進学で東京に一回出てから、そう感じるようになったんですよね。
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まず、尊敬の気持ちがあるんですね。高校まではどうでした? こんな田舎早く出てやるぞって思っていたとか?
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いや全然! そういうわけではなかったし、子どもの頃からずっと地元が好きでしたね。小学校の頃から、中学になって太鼓やるのが待ち遠しかったんですよ。地元に「うらだ屋」という太鼓集団があって、中学生にならないと入れないという謎ルールがあって。で、中学に入って始めたんですけど、ちょうどそのときに芸術祭が始まって協力し始めたから出番も増えていたんですよね。もともとは夏の盆踊りとかで、演奏を披露していて。うらだ屋の太鼓演奏があって、そのあとに、盆踊り。盆踊りでは、俺のじいちゃんが歌って、そのあと、お父(おとう)が歌っていたんですよ。
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それは、すごい! いまね、『盆唄』っていう映画が劇場で上映始まっているんですが、新潟にきたら、ぜひぜひ!おすすめです! 福島の双葉町ってあるじゃないですか、原発事故で住めなくなって、いろんなところで避難所生活を送るひとたちで、やっぱり盆踊りの時の唄い手だったり、太鼓の人だったり、ずっと盆唄を継承してきた人たちがいて、みんな散り散りなっちゃったから、自分たちの代で盆唄が消えてしまうことが、たまらなく悲しいんですよね。それでなんと、双葉の盆唄を、百年も前に移民としてハワイに渡った人たちの子孫の皆さんがハワイで歌い継いでいることがわかってですね(アツくなった簑田、語り続ける。中略)
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へえ、よさそうですね。
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よいよー。それで、監督が、中江裕司さんなんですけど、彼がいろいろ調べ始めたら、福島に伝わっていた盆唄のルーツが加賀にあったらしいということがわかってきて、加賀のお寺も訪ねて・・・(ふたたび中略)
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繋がっていますよね、日本中。こっちに帰ってきて、昔のことや、昔のものが気になって、調べ始めたりしているんですけど、友達でも一緒にやってくれそうな人がけっこういるから、これからちょっと楽しみなんですよ。

自分の中では、やっぱり切腹との出会いが大きかったですね、なににつけても。最初は、高3の5月かな、今は松代に住んでいる克哉さん(尺八・篠笛、野中克哉)が、そのころ浦田に住んでいたんで、俺が参加してる「うらだ屋」の演奏を見に来てくれて知り合ったんですよ。七月に大地の芸術祭で切腹が練り歩きするから、どう?って誘われて。
山の中を三十キロ、二日間かけて練り歩きするんです。俺は、後半の十五キロだけ歩いたんです。それまでは、長胴太皷だったから、そのときに初めて平太鼓を借りて。音を出したのもそのときが初めてでしたね。事前練習とかもなくて、ぶっつけ本番です。当日、みんなが泊まっている集会所に、俺と克哉さんが行って「こんにちは、よろしくお願いします」「あ、よろしく~」みたいな感じ。それで、ではこの太鼓を担いでね、みたいな。
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意外とさらっとしてたんだ(笑)。緊張した?
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ちょっと。でも、なんかそのとき「自分はできる」という気持ちはありました。そういう時期でしたから(笑)。克哉さんに声かけてもらってから、動画とかはちょっと見てたんですけど、でも、そこまで興味があったわけじゃなくて、なんかやってんな…みたいな。

なんだろう。やりたい人たちが集まって、どかんとやって終わるみたいな。特に、しっかりした構成があるわけでもないし、どこが見せ場かというのも分からないし、着てるものも見たことがないし、ぴんとこなかったです、とにかく。阿波踊りとかの経験がある人には、わかるわかる!ってなるかもしんないですけどね。
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平太鼓たたきながら一緒に歩いて、なにか気持ちが変化してきたりしましたか?
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ああ、なんか威勢がいい感じとか、途中で「うおおお」って、いいところで叫ぶ感じとか、僕がそのころ、やりたいなと思っていたのは、これだったんだ、と。うらだ屋は、どっちかというと、ちゃんとしたパフォーマンスな感じがメインなんです。だけど、なんかそれだと、見てる人はおもしろくなさそうだなと思う気持もあって、仲間たちと、自分で動きたいように動きながら演奏することを試していた時期だったんですよね。それが、これだ!みたいな。途中から、ぴんと来ました。これ、すごくいいなって。

それから、練り歩きでは、家の中から人が出てきて、おじいさんもおばあさんもすごく喜んでくれるんですよ。自分がやりたいことをやって、それで人が喜んでくれるって、ほんと嬉しいです。
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切腹の人たちとは、それで一気に馴染んだんですか?
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いえ(笑)。微妙な距離感で練り歩きして、ゴールしたあとに、ちらほら会話して、なんか野良着っていいよ、太鼓もやっぱりいいよねって話になって・・・、隊長から「よかったら入らない?」って言われて。メンバーの「民意」はわかんなかったですけど(笑)。
それから大学いって、東京からだと参加しやすいから、けっこう活動に参加していたんですけど、環境が変わって、やっぱり東京には馴染めなかったし、切腹のみんな、これまでに接したことがないような人たちだし、なんだか1年目の最初の頃は、馴染めなかったですね。
隊長とか、太一さんとか、ほかの人もですけど、なんかもっとみんなの輪に入りなよって声かけてくれたり、そういう雰囲気をつくってくれたりしていたんですけどね。
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たとえば?
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ライブハウスの演奏前に、みんながいろいろ雑談していても、俺、もう全然そんなのどうでもいいわと思っていた時があって、ひとりで本を読んでたんです。あいつ本読んでるぞ、みたいな声も出ていたりして、遠くから、ひとりごというみたいに、実は俺に話しかけてくれているというか…そんなのもありました。聞こえてるだろ?みたいな感じが、それにもちょっとムカついていたかもしれない(笑)。今思うと、すっごい失礼なやつですよね。

そのあと隊長が来てくれて、最近どう?とか、生活はどう?みたいな話を聞いてくれて。隊員の皆さん、すごく気遣ってくれて…、いまごろですが、その節は有難うございました!笑

東京に出て環境が大きく変わったっていうのがベースにあったから、なんか余裕なかったかもしれないですね。ほんとに、山が好きだったから、いやだったな都会は。東京でないとできないことがあるとか、東京で思い切り仕事したいとか、そういうのもなかったし。
結局、一年の後半、秋から三月まで大学は休学したんです。休学していた時は、一か月くらい地元に帰って、それから東京に戻って…。俺、大学休学してんのに、切腹の活動に行っていいのかな、というジレンマもあったんですよね、正直。勝手にそういうプレッシャーかけたりしていて、制約をどんどん作っていたんですよね、自分。

でも、いま思うと、切腹に馴染めてきたきっかけが、休学を始めた十月ごろにあったんですよね。トヨロックっていうお祭りがあって(愛知県豊田市)、そのときに、みんなで宿泊したんですよね。そんで、当然、一緒に宿泊とかいやじゃないですか。その時は、一緒にいたくないな、一人がいいなって思っていて。思っていたんですけど、一緒に泊まってみたら、自分の今の状況とか悩んでいることとかを、なんでだろう、すんなり色々としゃべれたんですよね。それで隊長とか太一(天誅山太一・平太鼓)さんとかに「ああ、そうなんだね」とか「もっと構えなくていいよ」みたいなことを言ってもらえたのが、それこそ自分の解放の第一歩みたいな感じでした。
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構えなくていいよというのは、切腹のほかのメンバーに対して? 世の中に対して?
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ああ。そのときはたぶん切腹のメンバーに対してだと理解したんですけど、他人に対してだけじゃなくて、自分に対してとか、世の中に対してとか、そんな意味も含まれていたんだろうな。
それで、隊員のことを色々話聞いたりする様になって、生き方とか暮しかたとか、背景が見えてくるじゃないですか、けっこう自分にとっては衝撃的だったり、それもアリなんだって気づいたり。なんだろう、真面目じゃない生き方、世の中の真面目じゃない生き方をやってる人たちが見えてきて…。
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真面目じゃないというのは、世の中で普通の常識、常識的に普通はこうでしょみたいな、決められている真面目さみたいな感じですか?
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そうそう、そうですね。それで自分に自分で作っていた柵もいつの間にか取れてきて、自分の幅が広がって・・・、二年に進級したあたりから、自分を解放してあげることができてきたというのがありましたね。
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ニューヨーク公演「逆黒船」(註3)はどうでした?
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あれは、子どものころに海賊になりたいと思った男の子が、ほんとにやったな!みたいなかんじでした。行ったのは二年の六月ですね。隊長からその話がきた時は、最初、遠出したくないって思ったんですよね、正直。元気のない頃だったから。でも、行って良かったですよ、自分はよけいに山の中が好きになりました。
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ニューヨークに行ったから?
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うん。それもあると思います。
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なるほど。タイムズスクエアで演奏している映像で、手ぬぐいを頭にかぶって太鼓叩いてる久保田さんが、一瞬ちょっと上を向いて吠えるところが映ってます。気持ちよさそうに見えたけど?
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うーん。なんか、なんだろうな。あんまりいい感じはしなかったですね。どうしようもないじゃないですか、あのビルとか。壊しようがない。スーさん(壽ん三・三味線)が、「エネルギーの空ぶかし」って言っていたんですよ。僕がそれを聞いて思ったのは、どうにもできないことに対してでも、自分が思っていることを全力でぶつけてくるみたいな、なんにもならないことだけど、とにかく全力でやったみたいなことかな、と。だから「ニューヨークでやったぜ!」みたいな感じじゃなくて、ただ、大都市のどこかでやりましたみたいなことと同じことというか…。分かんない。それも醒めている見方かもしれないけど。
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ハーレムでは?
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ハーレムとかで演奏したときは、また違う盛り上がりがあって。公演が終わってから見た記事なんですけど、「自分の根源に問いかける音だね」という感想があって。日本人も同じようなこと言ってくれる人もいるし、そういうことを感じてくれる人が、あの場にもいたってことが、嬉しいですよね。パンクアイランドもよかったですね。あれはよかった。YouTubeとかで見る海外のバンドの騒ぎが起きているのを、生で見ることができて。
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私が見たパンクアイランドのライブの映像では、最後に何人かのお客さんがカメラに向かって感想を話しているでしょう。最後に十八か十九くらいの若い男の子が、感極まって、なんかしゃべろうとするんだけど泣いちゃっていましたよね。切腹のメンバーが横で見守っていたのかな。「分かってるよ、言いたいことは」みたいな感じで、にこにこしながら肩をたたいてあげて、あれ、志むらさん(平太鼓)だったかな、それがすごく印象に残っていて。向こうの若い人たちに何かが確実に伝わったんだなと。彼も若いなりの悩みを抱えていたかもしれないけど、切腹の演奏でぐっときちゃったみたいな、そんな感じなのかな?
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それはね、マシュー。そのあと、秋に切腹に会いに日本に来たんです。
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えー、なんと!そうなの?すごい! 
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都内のメンバーの家に泊まって観光したり、瀬戸内国際芸術祭でも演奏する時期だったから、その時に一緒にお遍路も行って。彼は、多分同じ年だと思うんですよね。そんなに話したわけじゃないけど、彼にも彼なりの、どうしようもない若い悩みみたいなのがきっとあって、それを互いに確認し合って終わった感じでした、僕と彼はね。
僕も演奏中に泣いたことがあって、こんなにすごいことができるんだって感動が一気に押し寄せてきて泣いて。どこでかって? アメリカ行く前の冬かな、沖繩の那覇、桜坂アサイラムというイベントです。ライブでは、目の前にいる会場の人たちと一体感って共有できるんですけど、あの時は、それを、その後ろで、近くに住んでいる人達とかもたくさん見てくれていて、それもほんとうに楽しそうに見ていてくれて。その姿が目に入ったら…。切腹みたいな集団はおそらく世の中にいないじゃないですか。その、民衆的な、というか、素人集団がこんな一体感を作り出せるんだ、これ、ほんとにやっちゃっているんだというのがすごいなと思って、ぐっときちゃったんですね。

なんでもできるんだなって思いましたね。でも、それも切腹の力に、僕が入れてもらっているからで、それを自分でやるには、またいろいろあると思いますけど。

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ご自身で始めた事のひとつに、手縫いの道中袋や野良着づくりがありますよね。あれはいつから? そのきっかけをちょっと詳しく聞かせてもらっていいですか?
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二年に上がる春休みですね。きっかけは、鯉口シャツが欲しかったんですけど。あの、祭の時に下着として着る丸首の。欲しかったんですけど、八千円くらいしてけっこう高いなあと感じて、自分で作れるだろうと思って。ミシン持ってないし手縫いです。初めてにしてはうまくできたかな、と。最初は、特に何も考えていなくて、自分が欲しい物を作りはじめただけですけど、だんだんやっているうちに、大切にしたいこととかがみえてきて。
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蔵の中に眠っていたような、野良着や古布を集めている?
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うん、集めてます。古い布を扱う人って、それをみんなパッチワークにする人が多いじゃないですか。それでジャケットにしたりとか。それがハイブランドになって高く売られていたりします。

久保田さんの場合はそれをなるべく昔のまま、野良着のまま着てもらいたいということで制作していますよね。その辺のこだわりの理由というのは?
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ああ、それは、昔の布に対する思いです。その時代に、その布が織られて、それが生きて使われていた。それを今の僕たちがはさみを入れて切り刻んじゃうのは、すごい失礼なことだと思うし。しかもそれがジャケットとか、他国のものになってしまう。

和の要素って言っても、袋じゃなくて、ポーチとか現代的な感じになる。それはなんか違う。野良着をいただいたら、穴が空いているところなんかに手当をしたり、ほつれているところを補強したりして、できるだけそのままの形を維持しています。それに、野良着の形で残すと、全部直線裁ちだから、解いても一枚の布に戻るんですよ。だから、百年後に生きる人が俺の作ったのを見ても、また使えるし。残せるし。

今日、着ているこれも、それこそ浦田の人が使っていたやつ。当て布をして破れたら直すことでずっと着ることができます。昔はもっと安かったんですって、もんぺが。反物も安くて、一反が、二千円、三千円。それだけ生活用品だった。身近だったんだなと。
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地域の人たちは、昔の野良着をとっていらっしゃいますか?
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処分する人が大半のように感じています。野良着は、豪雪の苦しい記憶というものと一緒だからだと思うんですよ。「ダウンという軽いものがあるのに、なんでわざわざ綿入れ着るの?」みたいなこと、言う人もいますね。また、世代交代や災害の影響で処分することも多いそうです。
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同じ年代の友人達はどうですか?
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波長があう友達もいるし、太鼓やっている友達もいるし。昨日、同級生と一緒に山古志で太鼓やってきたんです。 彼もこっちで仕事も見つけたから、これから色々一緒にやれることもあると思う。
この二、三年で、地元の人も、切腹の人も、いろんな出会いがあって。一般企業に就職した人も、自分のやりたいことをやり続けている人も。立教には、ずっとエリートコースに乗っかっていて、うまく人生やっていきたい人も多くいた。就活で勝ちあがることは、世の中の正解に対して自分を合わせて当てはめていくことができるってことかなぁと思っていて、ある意味でそれは凄いなと思います。でも俺は、それしたくないな。それをしたら、自分が壊れると思います。だからその道を選ばなかった。切腹と出会ってから、大学をやめて地元に帰ってから、ほんと、いろんな人に出会いました。これからもそうだと思うけど、その刺激で自分がどう変わっていくか、ほんと分からないなというのも実感していて。またいくつか転機もあると思うけど。まあ、予測できないから、楽しみですよね。
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二〇二〇、三月
ここまでの話を聞いた後、ウェブページの立ち上げに時間をかけながら時は流れて、その間にも、SNS を通して、久保田さんの「その後」の変化がビシビシと伝わってくる。「野良着太郎」で発表する野良着や道中袋のバリエーションが増え、そこに記される、使用した古布などにまつわる話にも、かなりの勉強(見聞)の後が伺える。地域のお年寄りにも色々な話を聞きに行っているらしい。おー、温泉施設や福祉施設で何かやってる! 独演会? 太鼓の演舞、民話の語り、あら三味線も? ということで、メッセージチャットのやりとりで「近況」をお話しいただきました
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独演会のこと
どんな経緯で始めたんですか? 手応えはどうでしょう?
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勤めている温泉施設の社長さんから「当館のイベントとしてやってみないか?」とお声掛けいただいて、それもいいなぁと思って始めました。この半年で、福祉施設慰問も含めて合計六回の独演会を行いました。親も数回見に来てくれたんですけど、「こんなに芸達者だとは思わなかった。そういえば保育園の文化祭でアドリブ発してたなぁ」とか、「頼もしく感じられたよ。新しい企画にも挑戦してみたら?」なんて言われています。
お客さまからは、感動の声をたくさんいただいて、嬉しい限りです。昔話をしている最中には「おら、このしょの話、聞きにきたぁだ(私はこの人の話を聞きに来たの)」という声が聞こえてきたり、親から昔話を聞いた方が何人もいることが分かって、その経験を語ってもらったりしました! 舞台後方に設置する野良着にも、よい反応を示していただけます。次の演奏機会を提案していただくことも多く、本当に有難いことです。

これからの展開は、松之山観光に繋げられる昔話を紹介したり、じさばさに民話を朗読してもらったり、じさばさから聞き取りした昔のお話を紹介するとか、地元の人の声を直に聞く時間を作ることも考えてます! 太鼓各種に三味線は、もっと自分が楽しむことで、お客さまも楽しくなれるようにしていきたいです。三味線は、本やYouTubeで独学です。スーさんが三回くらい教えてくれたこともあります!自分の部屋でつま弾いてる時間が楽しいと感じるので、まだ習いにいかないかな…。習いたくなったら行きます!

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昔の話の聞き取りのこと
文献を探して読んだり、お祖母様に聴き取りをしたり、松之山の昔のことを調べ始めていますよね。どんなことが見えてきて、どんなことを面白く感じていますか?
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今の九〇歳くらいの世代の方たちは、今とは比べ物にならない貧しい暮らしをしていたことが分かってきました。そんな中で、またそれを見て育った世代が、辛い時代の野良着から洋服へ、安価で実用的なモノへ移行したいと思うのは自然な事のように思えてきましたね。暮らす土地についても、除雪ができなくなったり、一人暮らしになって住み続けるのが危険だと思った方は山間部から平野部へ暮らしを移す、それもそうですよね。
ただ、山間は貧困にあえいでいたというイメージばかりが強かったけど、時代や土地に適した娯楽が想像以上にあって、仲間同士でも面白く暮らしを営んでいたし、県、昔は藩ですね、その境界を超えた交流もあった。昔も今も、その人が生きている瞬間が最先端であるという当たり前のことを実感して、昔のことに、さらに親しみと関心を強く持つようになってます。

それから、わかってきたことのひとつが、地域にひとりは居た「物知り爺さん」の話をまとめた記録が、案外残っているということ。地域のじさの本棚の奥に仕舞われていて、聞かないと出てこない。そんな風に忘れ去られていくものもたくさんある。新しいモノ・コトはいくらでも生み出せるけど、過去のものは忘れ去られると帰ってきづらいですよね。昔のことを自分から進んで語らない人は多いけれど、質問していくと、喜んでお話してくださる方が多いんです。自分のことを聞いてもらいたいのは、やっぱり人間の本質なのかな…。顔の表情を若返らせて話す人も多くて…。「話を伺いたい」というアピールや、実際に足を運んで話を聞くことを続けていきたいですね。(終)

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註1

仕事が休みの日に野菜の出荷準備などを手伝いに行く、母方の祖父母の家。松之山を訪れた日、私も一緒に伺い、祖父の竹内茂俊さんにも地域のいろんな話を教えていただいた。茂俊さんは、合併前の町役場から勤め上げ、若い頃から仕事でも仕事の延長上でも、仲間たちと地域振興を担ってきた方。十一月から三月までは、関東や名古屋方面へ焼きいもや夜鳴きそばの屋台の出稼ぎに行くしかない豪雪地帯で、なにかできることはないものかと、常に考えをめぐらしていらっしゃったようです。取り組みのひとつに、茂俊さんが中心となって三十年近く前に立ち上げ、若い世代にバトンを渡しながら続いてきた、都会からのツアー「豪雪塾」があります。一九八〇年代に、広島県の総領町(現・庄原市)の役場職員が中心に立ち上げた、過疎のまちづくり「過疎を逆手に取る会(逆手塾)」を知り、視察に赴き、「過疎というけれど、あなたのところには雪があるじゃないですか」「そうだ、豪雪を逆手に取ろう!」と。茂俊さんは、土建屋さんや電気屋さん、農協職員など六人の仲間を集め、一六〇戸を一軒一軒訪問して寄付を募り、農家民泊としてのツアー客受け入れもお願いするなど、準備に奔走し、年間に四回、季節ごとの東京からのツアー「豪雪塾」を仕掛けます。春は残雪の山菜採り、夏は室で保存しておいた雪でかまくらをつくり、秋や冬は、かんじきや雪下ろしや、年越しを雪国で体験する。二十年続けて、六百人以上が松之山を訪れたそう。続く仕組みと、続けるために地域でバトンが渡されてきたことが何よりすばらしい!
「ツーリズム」とか「地域資源」とか「関係人口づくり」とか、さも新しい発明のような言葉が飛び交う昨今ですが、地域では、昔から、やっているひとはやっている。そこに根を張って生きる人たちが、地域の尊厳を守りながら…。そんなことを、私も教わりました。茂俊さんと久保田さんの会話も、祖父と孫というより「地域の同志」という印象で、コタツでお茶と、おばあさまのおいしい山菜のお茶請けをいただきながら、なんだかとてもこちらまで幸せな時間を過ごせたのでした。
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註2

久保田さんがこしらえる野良着や道中袋の通販サイト「野良着太郎」。「ご挨拶」には、彼のブレない思いが端的に表現されている。美術関係の人や、服にこだわりを持つ人、大切に着る意識がある人など、リピーターさんも多いという。
https://sannzinn.thebase.in
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註3
アメリカ公演の様子は、YouTube「ドキュメンタリー切腹ピストルズ公式」チャンネルで観ることができる。
https://www.youtube.com/channel/UCzsvhsMziZLqgwpPhWWIulw/videos

挿絵|黒田太郎
聞き書き|簑田理香
取材・二〇一九年五月十三日 松之山にて。
追加取材・二〇二〇年三月 電子網にて。