角煮を起点とする言葉と本質の諸問題。

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だれかが次に発する言葉、というものは、
簡単に予測されるものらしい。

2012年に始まった、私のipad生活。
メールで、「おね」と打つと、
なぜか真っ先に「お姉さん」がでてくる時代があった。

都内へ向かう湘南新宿ライングリーン車の中で
「これから初めて会う人」に(もちろん仕事の)
「それでは、本日よろしくお姉さんします。」と送ってしまったことがあった。

この話は、けっこうあちこちでしていたのだけれど。
お姉さんチェンジ!」と追い返されることもなく
お姉さんしたわけでもなく
実際に会っても、先方も特段その話に触れることもなく
ということも含めて。
いまだに、まだ都市伝説にはなっていないようだけれど、
まあ、仲間内では、誤変換メールが多いミノダというのは、
有名な話です。(偉そう)

ヒジノワ企画運営集団のメーリングリストでは

「情報よろしくお願いします」が
「情婦よろしくお願いします」になっていたらしい。
気づいたのは、約1名。彼は、もちろん爆笑を禁じ得なかったとか。
どうも、前世は、なんか、そういう関係の…お姉さんとか情婦とか、
そんな心持が良くて情にあつくて涙もろくて、そんな人たちの
マネイジメント業(花街の裏番かよ)を
やっていたのではと思ってしまう。(思わん、普通)

さて、次に、最近のmac-PC wordの誤変換の話。

「ご確認よろしくお願いします」が、
7割打者を超える勢いで
「ご角煮よろしくお願いします」になってしまう。
気づく前に、私の指は電光石火のスピードで、
送信ボタンを押してしまったよ、1度だけ)

最後の署名が、これはもう8割の確率で、
「M猪田」になってしまう。

マリアンヌ猪田?(宝塚男役)
みのだいのだ?(おわらいこんび)

とにかく、誰?

角煮をオーダーしてしまう件にしても、
名前すら間違える件にしても、
仕事関係のみなさんは
「みのださん、忙しすぎるから」と労ってくれまして、
大きな混乱は引き起こしてない、いまのところ。

しかし、です。
このPCでの変換ミスについても、ずっと、自分的には
ipadなどの親切な予測変換をよくよく見ないで使ってしまう、という
いわば「そそっかしい類」のミスの延長だと、捉えていたわけですが

気づいてしまったのです。

あきらかに、
「指先の運動能力、反射神経の老化による低下」が原因である、と。
老化です。

どうしましょう。

広報勉強会を役場や宇都宮大で行う少しまえくらいからずっと
「言葉の定義」
「言葉の意味の本質をズラさない使い方」とか、
そういうことをまとめたり、
話したり、伝えたり、尋ねたり、考えたりし続けていますが
個人的課題として、まず、いろんな意味で
「言葉の確度・精度」を上げていきたいものです。

戦闘がいきなり、衝突なんて
誤変換しようがない言葉にすり替えられたり
云々が、でんでんになったりするご時世ですから、
「民主主義」という社会のお勉強の基本用語の定義すら
危うい世の中ですから
まだまだ老化を理由に「おねえさん」引退はできませんね、
私もあなたも。

ちなみに、写真は
「デニムのクロップドパンツSを買ったけれど、
 履いてみたら、普通のズボンだよ」の図。

と書いても、クロップドパンツが何かがわからないと、
このフレーズの「みのだの自虐性」が伝わらないわけです。
クロップドパンツとは、検索上位に出てくる解説によると
「裾丈を普通のものより短くカットしたもの、
たいていは6~7分丈のものを指す」です。
言葉の定義を共有して初めて、わかりあえることがある一例です。

Sで、これだものねえ。笑

 

私が私を風化させないために。

2012年の3月11日に書いた文を、5年後の今日、再録します。

311 for myself(2012.0311Facebook投稿より)
…………

毎年中身を新しくして、もう10年は使っている手帳も
ずいぶんと色が落ちてきた。
2011の夏、青森で貼った「頑張ろう東北」のシールは
去年の暮れにはがれてしまい、
プロジェクトFUKUSHIMAのステッカーも、半分ほどはがれそう。

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風化するとは、どういうことなのか。
忘れていくとは、どういうことなのか。
自分の存在が忘れ去られてしまう、ということは、
どれほどの「孤独」か。
さほどたいしたことではなかった、
ということにされてしまうということは、どういうことなのか。
ひとりひとりの、たしかに温かみをもって存在していた日々すらも、
犠牲者数という数字に、いつのまにか、ひとくくりにされていく、
それは、どれほどの「魂の孤独」か。
命を落としたひとばかりではなく、
「東電が」起こした原発事故で故郷を追われた人々の、
かつてそこにあった、日々も。

あの日は日赤での検査の日だった。
病院を出て益子に帰る途中で、あの揺れ。
揺れがおさまり、ヒジノワへ向かい、展示作品をチェック。
さほど被害も無いことに安心して自宅へ向かうと、
大きな掃き出し窓と出窓のガラスが割れて崩れ落ちていた。
窓からのぞくと家の中は倒れた家具やCDや割れたガラスが散乱し、
小さな茶色い家族が震えながら泣き叫んでいた。

半アウトドア状態になった家は、あまりにも寒くて、ぶっそうで、
その夜と次の夜は、小さな茶色い犬くんと 車の中で眠った。
キミは守るべき存在なのに、と、
寄り道せずに帰ってこなかったことをあやまりながら。

携帯Twitterとラジオで東北の状況を聞きながら、
私もまた、生まれ育った土地からずいぶんと遠くに流されてきて
小さな車の中で夜を明かしているという小さな孤独をかみしめた。

そして、二日目の夜には、1つの決意をしたはずなのに。
忙しさを言い訳に、私は私を風化させている。

いろいろと思うところはあるけれど、まずは自分自身から。
311は、もう一度、私が私を生き直す日。

2012,3,11記

………

そして、東京電力福島第一原子力発電所の事故から6年、
私がこの投稿を書いてから5年が経ちました。

年月が経ってわかってきたことがある。
自分自身を風化させないことは、
自分自身をフランチャイズ化しない、ということ。

動き続けながら、対話を続けながら、確信をしたことがある。
政治の右傾化への抗議も、再稼働反対の声を上げることも、
ヘイト(差別主義者)へのカウンターも
椅子の買い替えを先延ばしして行う沖縄へのカンパも
若い世代への声援も
違憲訴訟の原告であることも
すべて、根っこは、私の中では繋がっている。
私やあなたの個々人の尊厳を取り戻す、ということ。

2017.0311
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守るもの守られるもの

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アルバムに残っていない、
つまり時を経てから写真を見ることで
追体験し記憶してきたわけではない古い記憶で、
うすぼんやりと思い出せるのは、
小さな水辺(たぶん小さな池)のほとりに作られた
木造のお堂のような…
そしてそこにあった、聖母マリア像。
みんなとお揃いの小さな丸い襟の白いブラウスを着た私は
手を合わせて「お守りください」とお祈りをしている。

カトリック教の幼稚園児だった頃の記憶。
小さな手を合わせることで得られる安心感。
守られている。守ってくれる存在がいる。

現実世界に出て行く前の、うすぼんやりとした遠い記憶。

大切な友人のひとり、陶芸家の鈴木稔が
聖母像を粘土で形にし始めたのは、いつのころだっただろう、
私はSNSで投稿された写真で知った。
その表情にうすぼんやりとした記憶が投影され、
昨今の現実社会の状況も投影され、心もちょっとズキズキした。

彼も作り続けながら、まっとうに考え続けることをやめていない。
それだけははっきりとした輪郭をもって、
私は少し、安心をすることができた。
幼稚園の庭で講堂で手を合わせる時に感じていた安心感にもにて。

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都内のギャラリー。
彼の個展の空間で、聖母像は無造作に、とも言える空気感をまとって
団体で並んでいた。
益子で出会ったらまた感じ方も違ったのだろうか、
都会のそこで見る聖母像はあまりにも無防備に
「何かにさらされている」ように感じた。
守ってあげないと!
小さいそれを掬い取るように2体の聖母像を手にしてレジへ向かった。

……

彫刻家の古川潤。
彼もまた、作り続けながら、考えることをやめていない、
私の大切な友人のひとり。
彼に守るものを作ってもらおう。

小さな聖母像を白く薄い和紙に包んで手渡し、
「木のウロの中で守られるような、そういう空間を作ってあげたい」
とお願いをした。

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しばらくして彼が見せてくれたのは、
手の仕事が温かみとその息遣いの痕跡を確かに残して、
そこにある小さな聖堂だった。

守るものは、守られる。
守られるものは、また、なにかを守る。

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このようなことを、
人は軽く「作り手と作り手のコラボ」というかもしれない。
守り守られるもの、というと、
人は軽く「ウィンウィンの関係で」と企画書に書くかもしれない。

もう、そういう口先だけの言葉使いには、うんざりしているのです。

………
この週末は、土日ともに多くの友人たちととても良い時間がもてて、
あらためて自分の中で確認した。

私は誰の真似でもないやり方で
まっとうに生きようとする人たち、大切な友人たちとともに
自分の足元から小さな革命を続けていく。

国民を守る、と、国のリーダーが唱え続ける現実社会で、
聖母に守られていた幼稚園の記憶から遠くきてしまった
平成の現実社会で。