バナー写真:三澤さん提供、撮影:霜觸恭平さん
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三澤藏六(みさわぞうろく)
切腹ピストルズ入隊・二〇十三年三月
締太鼓
(三澤さん提供、撮影:鈴木竜一朗さん)
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九人目の聞き書き伝は、隊の要となる締太鼓の中心人物、三澤藏六さん。コロナ禍で少人数編成になっていた時期、締太鼓がひとりの時でも淡々とお役目まっとう!という印象がありました。演奏中は周りに気を配りながらも節目節目で見せ場を担い、鋭い目線の奥に優しさも見え、隠れファンも多いと聞いております。実は今回、何度か取材依頼のご連絡を入れるも「自身を語るほどのものではない」との事で(とても優しく丁寧に、でもキッパリと、笑)拒まれておりましたところ、数度のやり取りののちに「入隊十年目なので今回に限り」という事でお話を聞かせていただきました!
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先行していた、
切腹ピストルズとの出会い
切腹ピストルズ。初期の頃、彼らが四人のバンド形態で演っていたのは知っていたんですよ。
というのも、東日本大震災の後だから二〇一一年の秋かな、自分が当時所属していたポストプロダクションがBSスカパー!の「BAZOOKA!!!」(註一)という番組を担当していて、当時の部下がその番組の映像編集をやっていたので、四人のバンド「切腹ピストルズ」が出演していたのを上司の立場から見ていたんです。その時は彼らを観て「なんか右寄りの歌詞だ。打ち込みっぽいな…」程度にしか思っていなかったんです。照明の色がキツかったのでその放送に準じたレベルだけ心配していました。だから、存在の認識はしていたと(笑)。
その後一年ぐらい経ってからかな、タートルアイランドのレコ発に誘われて行ったんです(2013/10/14 SOUL BEAT ASIA 江戸の変:代官山UNIT)。
前座で切腹ピストルズ。あの四人が出るのか…と思っていたら、俺の知っている切腹ピストルズとは様子が違っていて。数人の打楽器で阿波踊りの連みたいな編成に変わっていたんですよね。それでもってシャム69やデッドケネディーズのカバー曲演ってる。何だコレは!?と調べたら隊員募集告知していてね、衝動的に連絡してみたの。それが全ての間違いの始まり(笑)。
最初は「とにかく野方のスタジオに来てくれ」というカタチで、行ってみると坊主頭の構成員(久坂英樹さん・平太鼓隊長)が出迎えてくれてニコニコと接してくれたのね。そんで他の構成員を紹介していただいて、正直言って全員不気味だったですね(笑)。
「あのね、しばらく隊員募集していたんだけど、結局三澤君しか応募してこなかったから、入隊という事で!」って。え?俺だけ?
ということで、二〇一三年入隊、締太鼓担当の三澤藏六です。
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.少年三澤、
とある人物の導きにより受けた
カルチャーショックとは
俺が生まれたのは一九七一年の二月。横浜の金沢八景にある泥亀町(でいきちょう)ってところ。そんでまだ一歳の頃に父が脱サラして北海道の函館に移住。函館は母の故郷。父は小樽の人間。兄弟は十歳年上の姉が一人。
だから時には横浜生まれのハマっ子、で、都合次第では函館生まれの道産子って事にしてる。出生地を濁すのは怪しいよね。ちなみに父方がロシアの混血と聞いている。
小学生の頃はもっぱらスキー、夏は素潜り。それ以外の記憶は無し。多分それしかすることが無かった。好きだったのは仮面ライダーV3、ウルトラマンタロウ、8時だョ!全員集合の三つ。
中学入ったばかりの頃ですね、自分の中で音楽やファッションを意識し始めた時期は。雑誌でひたすら情報を追い求める…という感じで、田舎あるあるかな。情報が少なかったから、貪(むさぼ)る感じ。それこそ情報に貪欲過ぎて姉の松山千春や西城秀樹のレコードまで、めっちゃ聴いてた(笑)。
そんで俺には少し年上のいとこがいたの。このいとこが俺の人生における最重要人物になるわけよ。清史くんって言うんだけどね。
清史くんはモデルガンマニアで愛読書は青林堂ガロ、レコードはRCサクセションや頭脳警察を聴いている…というまぁ小学生の俺にとってはちんぷんかんぷんな趣味を持っていてね。これまたコロコロコミックしか読んだ事ない俺にしてみりゃ、なんの事やら。出てくる漫画家が、しりあがり寿?蛭子能収(かえるこのうしゅう???)ってなんつー名前だよ!って。
ちょっと理解不能だったけど、多分ガキから見て一風変わった感覚を持った兄ちゃんって妙に気になったんだろうね。清史くんも俺のリアクションが面白かったのか、ニヤニヤしながらコレを読め!とか言って(笑)。でもまぁ所詮漫画ですよね?というドラえもん感覚で渡された日野日出志の『藏六の奇病』(ひばり書房)を読んでしまった時の衝撃と言ったら、まさにドーーン!ですよ(笑)。そのまま俺はいまでも自分がカルチャーに目覚めた起源を尊重して「藏六」って名乗ってるんです。
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——名前の由来は漫画にあったんですね。単なるホラーではなさそう。
で、初めてパンクロックに触れたのは、ザ・スターリンの「虫」というアルバム。虫…!あっ!このジャケットの忍者の画はガロで見た人だ!って思ったりして、それが丸尾末広だった。それからは漫画も音楽も転がるようにのめり込んだね。一九八二、一九八三年ぐらいの話。
当時、函館にはパンク聴くやつなんていないと思っていた。いたかもしれないけどコミュニティーが小さ過ぎて繋がらなかった。知る術も無かったしね。
高校生になって郡部からも通学してくる奴がいてやっと数人パンク好きと知り合ったけど、バンド組むまではいかなかったな。通販で自主制作盤のレコード買ったりカセットテープ交換したり。現金書留で自主レーベルに金を送っても品物が届かなかったりね、買い物も掛けだったな。
父の個人事務所の隣が俺の部屋だったんだけど、姉のフォークギターをジャカジャカ弾いていたら「うるせーなこの!」ってハナ肇ばりに怒鳴り込まれた。「オメーの聴いてる音楽は全部耳障りだ!」って。パンクだから仕方ないよね、エレキ買ってくれ〜(笑)
ファッションでも、ダイエースプレーやDEPを使って髪の毛立てたり、床屋行って無理な注文して理容師のおばさんに嫌がられたり。でももっと刺激的に、もっと何かやりたいという気持ちが満ち溢れていた気がする。とは言え自分で改造したチャリに乗ったり、その程度。あと買ってもらったGジャン破いて着ていたら、母親がしっかり縫い直していたり(笑)。
その重要人物のいとこ清史くんね、数年後に高い所から落っこちて事故死しちゃったの。それで、形見分けじゃないけど、レコードや漫画本は全部オレのとこに来た。これは今でも宝物でね、大切に持ってる。
——それは最高の供養になりますね。バンドやるまではいかなかったとのことですが、部活とかは?
高校は男子校で、三年間ずっと吹奏楽部。超硬派な吹奏楽でオーボエ吹いていたの。今、振り返っても感心する、かっこよくて(笑)
単なるヤンキー校なんだけど部活の縦社会は厳しくてね、練習終わりに上級生が下級生集めて理不尽に殴るの、顎の骨が折れて楽器吹けなくなった奴もいたな。酷いしごきだった。先生は知らんぷり、先生が生徒をボコボコにして新聞に載っちゃうような学校だったしね。
で、吹奏楽部と並行してマーチングバンドもやっていて、そっちは日本武道館でやる全国大会で金賞取ったんだよ、これが伝説の1988 MISAWA LIVE AT BUDOKANですよ。あ、知らないですか?
(笑)
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——あ、すみません、知らないです(笑)。にしてもすごいですね!しかも一九八八! 武道館公演、ビートルズには遅れたけど、ストーンズより早かったですね、笑。 ちなみに今も、吹奏楽部は小中高ともに練習ハードみたいです。運動部より拘束時間も長いし。
そう、確かに朝練も夜練もしょっちゅうやってた。
で、正直ウチは良い空気の家庭ではなかったから、姉も早々に実家を出ていって、俺も家にはあまりいたくなかった。だから吹奏楽というか音楽に逃げるように没頭していたのかも。雑誌読んで悶々として高校卒業したら一刻も早く東京に行きたかったからね。そうやって都会に憧れるのも田舎あるあるの一部かな。
上京したのは一九八九年。本当は音楽大学行きたかったんだけど、音大って凄い大変なんですよ、知識的にも経済的にも。正直全部無理であきらめた。そんで音卓や録音技術、映像技術なんかを学ぶ短大に行ったの。もしかしたらそういう裏方の方が自分には合っているかなと。
——音大に娘さんを進学させた友人、進学ローンに泣いてると言ってましたー。
ですよね、でもその判断が本当に良かったの。それがね、その短大というのがフタを開けてみると、六十人ぐらいのクラスに男子が五人ぐらいしか居ないんですよ。あと全部女子。5/60でしょ?この類稀なる状況、人生で一番モテたかも。毎日超ぉ〜楽しくて(笑)。
——判断が良かったって、そっちの良さですか〜(笑)。
もちろんそれだけじゃなくてね、その時の仲間とはバンド演ったり自主映画撮ったり。そっから、ミニシアター系の映画にハマったりしたかな。
特に六〜七〇年代の日本の喜劇映画が好きで、クレイジーキャッツやドリフターズなんかは冗談音楽(註二)も絡めた映画作品も多くて、あとは監督で言うと中平康、坪島孝、渡辺祐介、鈴木則文などなど挙げたらキリがないけど、浅草東宝や中野武蔵野ホールにしょっ中行っていた。映像と音楽が好きな源かもしれないね。今でも大好きだし。
バンドは吉田くん(現・SANDADAの真骨)とずっとやっていた。あとは、はらたいらの娘や俳優の西島秀俊君とも一緒に演ってた。パンクバンドだったね。今考えると組み合わせがめちゃくちゃ(笑)。
——西島さん!目元の雰囲気、三澤さんと似てます。不思議な味がある俳優さんですよね。
そうね、もっと仲良くしておけばよかったね。
バイトは池袋でテレクラの案内看板持って立っているだけのバイト。一日八千円貰えた。でもバンド、映画、パチンコで、いつも金は無かったですね。女の子の家に行って手料理食わせてもらっていた。あとその時は東上線の上福岡に住んでいたんだけど、百円ラーメンてのがあって、ずいぶん食べた(笑)。
そんで就職。赤い髪して映像制作の会社に面接受けに行ったら目立ったのか、すぐ受かった。普通落とすだろって思うけど(笑)。そこから何だかんだと映像技術の仕事を30年以上続けている。今はほとんど某公共放送の仕事。
俺は特に切腹ピストルズとしてこの仕事やってます…っていうのではない。仕事と生活、家族があり、その上で切腹の活動をしている。だから普段の生活に関しては話す事は特にない、理解のある家内には感謝している。
で、切腹ピストルズ入隊後の話ですよね(笑)。
——はい!最初の印象が「全員不気味」というあたり、気になりますねえ。
スタジオ練習、これ何の集まりだっけ!?
入隊後は平太鼓に配属されたの。で、まずは曲を覚えないといけないからスタジオ見学時に演奏を録音して帰って復習する為に、全曲を譜面に起こしたんですよ。吹奏楽やっていたから譜面起こしが普通というか、手っ取り早かった。
で、次のスタジオに行ったら「え?譜面?」って苦笑いされて。…はい?って。じゃあ皆どうやって合わせているの?って聞いたら「気合いで…」みたいな事言われて。
まぁ今となっては「気合い」が一番重要だと言うのはその通りなんだけどね(笑)。
んで、そのスタジオもね、夜から朝までオールナイトパックで入るんだけど、全然演奏しない、というかまずケースから楽器を出さない(笑)。
円座して雑談というか、ヒロくん(総隊長・飯田団紅さん)が田原総一朗みたいに、端から最近気になるニュース言って…みたいになって、ずーっと討論会してんの。春ちゃん(平太鼓・加藤吉之烝さん)がオーストラリアに留学するから切腹抜けるって話になっていて、何のために海外に行くのか言え!って。みんなで糾弾してんのよ。
春ちゃんは当時二十才弱でしょ?でも必死に食らいついて論破されないの。意固地というか負けず嫌いの集まりというか。挙句「じゃボク新宿で街宣活動あるんで帰ります!」って、え?街宣?座談会に糾弾会に街宣活動???…オレ入るとこ間違えたかなって(笑)。
で、何度かスタジオ入ったんだけど、座談会が相変わらず続いていたので、空いている時は個人でスタジオ入ってひたすら平太鼓練習してたの。久坂君が綾瀬のスタジオで練習によく付き合ってくれて、ありがたかったな。そこで「あの人はああなんだよ…」とか隊員個々について教えてもらったの。
で、俺たちのライブ見ている人はわかるだろうけど、切腹の平太鼓は全身運動量が激ヤバで、やり始めてすぐに五kgぐらいスーって体重が減ってしまい、あれ相当体力消耗するんだよ。運動不足の方にオススメ。ていうか、隊員みんな大食いなのはこれが理由かと(笑)。
だから、入隊した切腹ピストルズは、演奏家ではなくて表現集団なのだと理解するのに少し時間がかかりました。バンドじゃなくてパフォーマーなんだって。打楽器やってると「溜め」とか「グルーヴ」とか、むしろそれが気持ち良くて叩いている…みたいな事って普通に起こりうると思うんだけど、良かれと思ってそういう感じに叩いちゃうと「そういうの要らないから」ってピシッと言われちゃって。
最初は理解出来なかったし、なんで?って苦悶していたんだけど、公演を続けるうちに、爺さんと婆さんが手揉みして喜んでくれるならそれでいいのか!って割り切って。
人がYouTubeに上げた切腹のライブ見て紐解いてみると、溜めやグルーヴを出すとユニゾンが全く合わないし、そもそも大袈裟なぐらいハッキリ叩かないと爆音でかき消されちゃうの。なるほどなと。それよりも客とフロアで揉み合って生爪剥がしちゃわないか、そっちの方が心配になっちゃった。こっち草履で客はエンジニアリングブーツとかなんだもん(笑)
——なるほど〜。そう聞くと、ユニゾンでグルーブ感を出してる切腹ピストルズって改めてすごいと思います。そして最初は、平太鼓だったんですね!
はい。平太鼓から入って、それでそのうち締太鼓に転向するんですけど、その理由が、二〇一五年に新潟で『大地の芸術祭』が行われたときに『十日町〜松代まで三十km旧道を練り歩くぞ』って言うブッ飛んだ企画をやることになって。三十分のライブ演ってあんな痩せちゃう平太鼓で三十kmも練り歩いたら死んじゃうかも!と思って必死に個人練習してサッサと締太鼓にカシを変えました。自分勝手だよね。でも何だかんだ言っても締太鼓だって総重量十五kg以上あるんだから三十kmの練り歩きは普通にシンドかったって言うオチです(笑)。
切腹のライブって、フロアでお客さんとぶつかり合うから、初めて見た人はびっくりしちゃうと思う。バチが当たって血流すし汗でグチャグチャだし、かたや感動して泣いてる人もいて…こちらから見ていると色んな意味でキラキラしています。
(三澤さん提供、撮影:星野優さん)
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それからマスク静観客席の時代を経験して、最近やっとまた元に戻ってきた感じ。
関係ないけど、むかし函館に廃墟というか有名なお化け屋敷があって、その屋敷の窓から中を覗くと「血・汗・涙」って壁だか柱に殴り書きしてあったんですよ。
マジで怖くてね、切腹のライブ中は走馬灯のようにそんな事思い出しながら演ってますね「血・汗・涙だ!」って。しかしライブの事を一揆とはよく言ったもんですね、やたら人間臭いですもんね(笑)。
目先の価値観や主義の違いより、
遥か先に目線を向けて
切腹ピストルズって、いろんな側面があって・・・、祭り、町おこし、デモ活動、パンクの企画ライブ、映画のサントラ、神社仏閣奉納演奏、芸術祭、フェス、船上演奏…あと何だろう。つまるところ、「乱痴気の出前」だと思ってる。俗に言う『和太鼓集団』とか言われてもあまりしっくりこない。
それから、予測不能なところも、俺にとっては心地よいんだよね。
若い頃は、どんなバンドやっても結局意見の違いから険悪になって嫌になり辞めてしまってたの。全然意見が合わねぇな、俺は性格が曲がってんのかな?なんて悩んだりしましたけど、単に性格が曲がっているんですね(笑)。
切腹は自分の思う目先の価値観なんかよりも遥か先に結果があったりして面白い。
例えば主催者の演出やヒロ君のアイディアで何か風変わりなことやるじゃないですか、今でこそだけど、当時は理解できないことも多くて、言われるがままにやっていて、後から、あるいは数年経ってから「ああそういう事か!」って(笑)
——メンバーで意見が合わないことも、ありますよね、きっと。
ありますね。無い方が不思議。コロナ禍で、今は客前でやるべきかやらざるべきかで、隊員の意見が割れたの。LINEが嫌いになるぐらいLINEで話し合って。
気に入らない事は全部言っていたから、変な空気にしたと思う。結局世相に流されてピリピリして、自分も相当感じ悪かったと思う。元々俺もなかなかの嫌われ気質なので、辛気臭いというか、嫌味なこと言っちゃうんだよね、ダメだなぁと思うんだけどなかなかこれはね、DNAレベルの話かね。あとおじさんはLINEで愚痴書いちゃダメだね、狂気と凶器でしかないよあれは(笑)。スマホは上手に使いましょう。
でも、色んな事が重なってやっと自分を客観視できるようになったと言うか、遅いんだけどね、本当にやっとだよ。大所帯だけど、せっかく数少ない感覚の持ち主で徒党を組んだ仲間だしね。だから今は大切にしたい気持ちが強い。
陽気な無礼者が嫌いだったんですよ。デリカシーが無いのが許せないというか。でも切腹の醍醐味ってそもそも『陽気で無礼』なとこなんじゃない?って思えるようになった。隊員一人一人考え方も趣向も様々で、本当に面白いの。ダメなところも当然あるんだけど、そんなダメな奴等も集まると勢いが凄い熱い、不良更生の根源はここにあるのかと(笑)。
——聞いていて、じわじわ来ます。いろんなことに通じる大切な話だなーって。そういえば、いつの間にか、隊員が増えてますよね。
増えてます。新しい隊員は充分何かを感じ取って増幅して生かしていると思います。年齢では優劣はつけないし、年寄りが威張っていてもどうしようもないでしょ、頭固いし話長いし。どんどん新しい息吹入れていかないと高齢化も激しいし体力的にもそろそろ限界なんじゃないかな、まぁ半分は冗談だけど(笑)
でもおっさんがいて画になるのも我々の醍醐味だと思わない? 座って焚き火しているだけの隊員がいたっていいんじゃないかな。
あとはお客さんでもブワーって熱くなっちゃって、俺もやりてー!みたいな人もいるんだけど、もう少し考えてからでも良いんじゃない?と言いつつ、俺も初期衝動で入っちゃった口だから言えた立場ではないね。
——おっさんがいて画になるのが切腹の醍醐味って、ほんとそうですね。隊員にもファンにも、若い人たちに、おっさんになっていくのも悪くない、おっさんになるのもかっこいいぜって思わせてくれていると思います。若い隊員さんも増えるなか、演奏中の三澤さんの表情って、激しい曲の時でも、どこかおだやかで幸福そうな感じで、印象的です。
俺、人が驚く表情が好きなんですよね。俺も子どもの頃清史くんに驚かされて成長してきたのもあるんだろうけど。そもそも自分も切腹見た時ハト豆のように驚いたしね。
で、切腹やっているとやっぱ子どもとか老人とかが、驚いた顔していて痛快なんだよね。演る側から見ていてもニヤニヤしちゃう。妙にお洒落野郎や不良っぽい人にも響いたりして。あと何回かライブのフロアに電動車椅子が来てね、座っている奴も嬉しそうにしていたからこっちもテンション上がっちゃって、その電動車椅子の上に乗っかって演奏したの平太鼓時代に。そうしたら介護人に引き摺り下ろされて「ちょっと!やめて下さい。車椅子いくらすると思ってるんですか!」って。すいませんだよね本当に、驚かせ下手で(笑)。
でも特に子どもたちの心には何か残っていて欲しいですね。あれ、あの時見た江戸のうるさい人たちって、あれ夢だったかな?・・程度の思い出し方で良いので。
——子どもたち!といえば、コロナ禍になる直前のにしかたど田舎祭りだったかな。子どもたちの相撲トーナメントがあって、確か久坂さんと三澤さんが、土俵脇で太鼓叩いて盛り上げていて、三澤さんめっちゃ楽しそうな満面の笑顔だったのを思い出しました!
最後に教えてください。入隊してから十年の間にいろんな「乱痴気の出前」があったと思うんですけど、一番印象的だったのは?
うーん、香川県大島のハンセン病療養所でもやったし、老人ホームでもやったでしょ。隅田川も練り歩いたし、新宿の廃墟ビルもお伊勢さんもニューヨークも。
でも一つ挙げるとしたら新潟の小学校に呼ばれて行ったときに、子ども達と一緒に演奏したの。ペットボトルやボール紙で自作の打楽器作れって先生に言われたんだろうね、用意してあってさ。
最初ビビってんのか恥ずかしいのか、誰も音出さずにシーンとしているんだけど、だんだん音出してきて最終的にはサンバカーニバルみたいに大盛り上がりになったの「うるせー!静かにしろ!」って言って。なんかわからないけどあれ凄い印象に残っている。爪痕残したいね、子どもには・・・。
あれ?俺、子どもがそんな好きだっけかな(笑)?
(完)
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註一 BAZOOKA!!!
聞き書き伝・第六回・鼓徹さんの回でも話題になっていた、切腹ピストルズの出演回。三澤さんが制作側の上司だったとは(驚)! 以下、鼓徹さんの回の脚注を再掲します。
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BAZOOKA!!!〜BSスカパー!で放映されていたバラエティ番組。二〇一一年十一月十四日放送の回のライブコーナーに四人編成の切腹ピストルズが出演。番組アーカイブによると演奏曲は「南京ブギ」「松竹梅島」の二曲。聴きたいですね〜。
https://www.bs-sptv.com/bazooka/archive/20111114/
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註二 冗談音楽
三澤さんのお話で初めて知ったこのジャンル。ネット検索諸々によりますと、替え歌やパロディなどを盛り込みながら音楽を演奏して聞く人を笑顔にしてしまうパフォーマンス・・・といったところでしょうか。まずは演奏技術の高さが必須のようです。ジャズでは、アメリカの伝説の楽団、スパイクジョーンズが有名とのことです。
取材:二〇二三年九月吉日
公開:二〇二三年十月九日
バナー写真:三澤さん提供、撮影:霜觸恭平さん
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三澤藏六(みさわぞうろく)
切腹ピストルズ入隊・二〇十三年三月
締太鼓
(三澤さん提供、撮影:鈴木竜一朗さん)
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九人目の聞き書き伝は、隊の要となる締太鼓の中心人物、三澤藏六さん。コロナ禍で少人数編成になっていた時期、締太鼓がひとりの時でも淡々とお役目まっとう!という印象がありました。演奏中は周りに気を配りながらも節目節目で見せ場を担い、鋭い目線の奥に優しさも見え、隠れファンも多いと聞いております。実は今回、何度か取材依頼のご連絡を入れるも「自身を語るほどのものではない」との事で(とても優しく丁寧に、でもキッパリと、笑)拒まれておりましたところ、数度のやり取りののちに「入隊十年目なので今回に限り」という事でお話を聞かせていただきました!
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先行していた、
切腹ピストルズとの出会い
切腹ピストルズ。初期の頃、彼らが四人のバンド形態で演っていたのは知っていたんですよ。
というのも、東日本大震災の後だから二〇一一年の秋かな、自分が当時所属していたポストプロダクションがBSスカパー!の「BAZOOKA!!!」(註一)という番組を担当していて、当時の部下がその番組の映像編集をやっていたので、四人のバンド「切腹ピストルズ」が出演していたのを上司の立場から見ていたんです。その時は彼らを観て「なんか右寄りの歌詞だ。打ち込みっぽいな…」程度にしか思っていなかったんです。照明の色がキツかったのでその放送に準じたレベルだけ心配していました。だから、存在の認識はしていたと(笑)。
その後一年ぐらい経ってからかな、タートルアイランドのレコ発に誘われて行ったんです(2013/10/14 SOUL BEAT ASIA 江戸の変:代官山UNIT)。
前座で切腹ピストルズ。あの四人が出るのか…と思っていたら、俺の知っている切腹ピストルズとは様子が違っていて。数人の打楽器で阿波踊りの連みたいな編成に変わっていたんですよね。それでもってシャム69やデッドケネディーズのカバー曲演ってる。何だコレは!?と調べたら隊員募集告知していてね、衝動的に連絡してみたの。それが全ての間違いの始まり(笑)。
最初は「とにかく野方のスタジオに来てくれ」というカタチで、行ってみると坊主頭の構成員(久坂英樹さん・平太鼓隊長)が出迎えてくれてニコニコと接してくれたのね。そんで他の構成員を紹介していただいて、正直言って全員不気味だったですね(笑)。
「あのね、しばらく隊員募集していたんだけど、結局三澤君しか応募してこなかったから、入隊という事で!」って。え?俺だけ?
ということで、二〇一三年入隊、締太鼓担当の三澤藏六です。
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.少年三澤、
とある人物の導きにより受けた
カルチャーショックとは
俺が生まれたのは一九七一年の二月。横浜の金沢八景にある泥亀町(でいきちょう)ってところ。そんでまだ一歳の頃に父が脱サラして北海道の函館に移住。函館は母の故郷。父は小樽の人間。兄弟は十歳年上の姉が一人。
だから時には横浜生まれのハマっ子、で、都合次第では函館生まれの道産子って事にしてる。出生地を濁すのは怪しいよね。ちなみに父方がロシアの混血と聞いている。
小学生の頃はもっぱらスキー、夏は素潜り。それ以外の記憶は無し。多分それしかすることが無かった。好きだったのは仮面ライダーV3、ウルトラマンタロウ、8時だョ!全員集合の三つ。
中学入ったばかりの頃ですね、自分の中で音楽やファッションを意識し始めた時期は。雑誌でひたすら情報を追い求める…という感じで、田舎あるあるかな。情報が少なかったから、貪(むさぼ)る感じ。それこそ情報に貪欲過ぎて姉の松山千春や西城秀樹のレコードまで、めっちゃ聴いてた(笑)。
そんで俺には少し年上のいとこがいたの。このいとこが俺の人生における最重要人物になるわけよ。清史くんって言うんだけどね。
清史くんはモデルガンマニアで愛読書は青林堂ガロ、レコードはRCサクセションや頭脳警察を聴いている…というまぁ小学生の俺にとってはちんぷんかんぷんな趣味を持っていてね。これまたコロコロコミックしか読んだ事ない俺にしてみりゃ、なんの事やら。出てくる漫画家が、しりあがり寿?蛭子能収(かえるこのうしゅう???)ってなんつー名前だよ!って。
ちょっと理解不能だったけど、多分ガキから見て一風変わった感覚を持った兄ちゃんって妙に気になったんだろうね。清史くんも俺のリアクションが面白かったのか、ニヤニヤしながらコレを読め!とか言って(笑)。でもまぁ所詮漫画ですよね?というドラえもん感覚で渡された日野日出志の『藏六の奇病』(ひばり書房)を読んでしまった時の衝撃と言ったら、まさにドーーン!ですよ(笑)。そのまま俺はいまでも自分がカルチャーに目覚めた起源を尊重して「藏六」って名乗ってるんです。
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——名前の由来は漫画にあったんですね。単なるホラーではなさそう。
で、初めてパンクロックに触れたのは、ザ・スターリンの「虫」というアルバム。虫…!あっ!このジャケットの忍者の画はガロで見た人だ!って思ったりして、それが丸尾末広だった。それからは漫画も音楽も転がるようにのめり込んだね。一九八二、一九八三年ぐらいの話。
当時、函館にはパンク聴くやつなんていないと思っていた。いたかもしれないけどコミュニティーが小さ過ぎて繋がらなかった。知る術も無かったしね。
高校生になって郡部からも通学してくる奴がいてやっと数人パンク好きと知り合ったけど、バンド組むまではいかなかったな。通販で自主制作盤のレコード買ったりカセットテープ交換したり。現金書留で自主レーベルに金を送っても品物が届かなかったりね、買い物も掛けだったな。
父の個人事務所の隣が俺の部屋だったんだけど、姉のフォークギターをジャカジャカ弾いていたら「うるせーなこの!」ってハナ肇ばりに怒鳴り込まれた。「オメーの聴いてる音楽は全部耳障りだ!」って。パンクだから仕方ないよね、エレキ買ってくれ〜(笑)
ファッションでも、ダイエースプレーやDEPを使って髪の毛立てたり、床屋行って無理な注文して理容師のおばさんに嫌がられたり。でももっと刺激的に、もっと何かやりたいという気持ちが満ち溢れていた気がする。とは言え自分で改造したチャリに乗ったり、その程度。あと買ってもらったGジャン破いて着ていたら、母親がしっかり縫い直していたり(笑)。
その重要人物のいとこ清史くんね、数年後に高い所から落っこちて事故死しちゃったの。それで、形見分けじゃないけど、レコードや漫画本は全部オレのとこに来た。これは今でも宝物でね、大切に持ってる。
——それは最高の供養になりますね。バンドやるまではいかなかったとのことですが、部活とかは?
高校は男子校で、三年間ずっと吹奏楽部。超硬派な吹奏楽でオーボエ吹いていたの。今、振り返っても感心する、かっこよくて(笑)
単なるヤンキー校なんだけど部活の縦社会は厳しくてね、練習終わりに上級生が下級生集めて理不尽に殴るの、顎の骨が折れて楽器吹けなくなった奴もいたな。酷いしごきだった。先生は知らんぷり、先生が生徒をボコボコにして新聞に載っちゃうような学校だったしね。
で、吹奏楽部と並行してマーチングバンドもやっていて、そっちは日本武道館でやる全国大会で金賞取ったんだよ、これが伝説の1988 MISAWA LIVE AT BUDOKANですよ。あ、知らないですか?
(笑)
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——あ、すみません、知らないです(笑)。にしてもすごいですね!しかも一九八八! 武道館公演、ビートルズには遅れたけど、ストーンズより早かったですね、笑。 ちなみに今も、吹奏楽部は小中高ともに練習ハードみたいです。運動部より拘束時間も長いし。
そう、確かに朝練も夜練もしょっちゅうやってた。
で、正直ウチは良い空気の家庭ではなかったから、姉も早々に実家を出ていって、俺も家にはあまりいたくなかった。だから吹奏楽というか音楽に逃げるように没頭していたのかも。雑誌読んで悶々として高校卒業したら一刻も早く東京に行きたかったからね。そうやって都会に憧れるのも田舎あるあるの一部かな。
上京したのは一九八九年。本当は音楽大学行きたかったんだけど、音大って凄い大変なんですよ、知識的にも経済的にも。正直全部無理であきらめた。そんで音卓や録音技術、映像技術なんかを学ぶ短大に行ったの。もしかしたらそういう裏方の方が自分には合っているかなと。
——音大に娘さんを進学させた友人、進学ローンに泣いてると言ってましたー。
ですよね、でもその判断が本当に良かったの。それがね、その短大というのがフタを開けてみると、六十人ぐらいのクラスに男子が五人ぐらいしか居ないんですよ。あと全部女子。5/60でしょ?この類稀なる状況、人生で一番モテたかも。毎日超ぉ〜楽しくて(笑)。
——判断が良かったって、そっちの良さですか〜(笑)。
もちろんそれだけじゃなくてね、その時の仲間とはバンド演ったり自主映画撮ったり。そっから、ミニシアター系の映画にハマったりしたかな。
特に六〜七〇年代の日本の喜劇映画が好きで、クレイジーキャッツやドリフターズなんかは冗談音楽(註二)も絡めた映画作品も多くて、あとは監督で言うと中平康、坪島孝、渡辺祐介、鈴木則文などなど挙げたらキリがないけど、浅草東宝や中野武蔵野ホールにしょっ中行っていた。映像と音楽が好きな源かもしれないね。今でも大好きだし。
バンドは吉田くん(現・SANDADAの真骨)とずっとやっていた。あとは、はらたいらの娘や俳優の西島秀俊君とも一緒に演ってた。パンクバンドだったね。今考えると組み合わせがめちゃくちゃ(笑)。
——西島さん!目元の雰囲気、三澤さんと似てます。不思議な味がある俳優さんですよね。
そうね、もっと仲良くしておけばよかったね。
バイトは池袋でテレクラの案内看板持って立っているだけのバイト。一日八千円貰えた。でもバンド、映画、パチンコで、いつも金は無かったですね。女の子の家に行って手料理食わせてもらっていた。あとその時は東上線の上福岡に住んでいたんだけど、百円ラーメンてのがあって、ずいぶん食べた(笑)。
そんで就職。赤い髪して映像制作の会社に面接受けに行ったら目立ったのか、すぐ受かった。普通落とすだろって思うけど(笑)。そこから何だかんだと映像技術の仕事を30年以上続けている。今はほとんど某公共放送の仕事。
俺は特に切腹ピストルズとしてこの仕事やってます…っていうのではない。仕事と生活、家族があり、その上で切腹の活動をしている。だから普段の生活に関しては話す事は特にない、理解のある家内には感謝している。
で、切腹ピストルズ入隊後の話ですよね(笑)。
——はい!最初の印象が「全員不気味」というあたり、気になりますねえ。
スタジオ練習、これ何の集まりだっけ!?
入隊後は平太鼓に配属されたの。で、まずは曲を覚えないといけないからスタジオ見学時に演奏を録音して帰って復習する為に、全曲を譜面に起こしたんですよ。吹奏楽やっていたから譜面起こしが普通というか、手っ取り早かった。
で、次のスタジオに行ったら「え?譜面?」って苦笑いされて。…はい?って。じゃあ皆どうやって合わせているの?って聞いたら「気合いで…」みたいな事言われて。
まぁ今となっては「気合い」が一番重要だと言うのはその通りなんだけどね(笑)。
んで、そのスタジオもね、夜から朝までオールナイトパックで入るんだけど、全然演奏しない、というかまずケースから楽器を出さない(笑)。
円座して雑談というか、ヒロくん(総隊長・飯田団紅さん)が田原総一朗みたいに、端から最近気になるニュース言って…みたいになって、ずーっと討論会してんの。春ちゃん(平太鼓・加藤吉之烝さん)がオーストラリアに留学するから切腹抜けるって話になっていて、何のために海外に行くのか言え!って。みんなで糾弾してんのよ。
春ちゃんは当時二十才弱でしょ?でも必死に食らいついて論破されないの。意固地というか負けず嫌いの集まりというか。挙句「じゃボク新宿で街宣活動あるんで帰ります!」って、え?街宣?座談会に糾弾会に街宣活動???…オレ入るとこ間違えたかなって(笑)。
で、何度かスタジオ入ったんだけど、座談会が相変わらず続いていたので、空いている時は個人でスタジオ入ってひたすら平太鼓練習してたの。久坂君が綾瀬のスタジオで練習によく付き合ってくれて、ありがたかったな。そこで「あの人はああなんだよ…」とか隊員個々について教えてもらったの。
で、俺たちのライブ見ている人はわかるだろうけど、切腹の平太鼓は全身運動量が激ヤバで、やり始めてすぐに五kgぐらいスーって体重が減ってしまい、あれ相当体力消耗するんだよ。運動不足の方にオススメ。ていうか、隊員みんな大食いなのはこれが理由かと(笑)。
だから、入隊した切腹ピストルズは、演奏家ではなくて表現集団なのだと理解するのに少し時間がかかりました。バンドじゃなくてパフォーマーなんだって。打楽器やってると「溜め」とか「グルーヴ」とか、むしろそれが気持ち良くて叩いている…みたいな事って普通に起こりうると思うんだけど、良かれと思ってそういう感じに叩いちゃうと「そういうの要らないから」ってピシッと言われちゃって。
最初は理解出来なかったし、なんで?って苦悶していたんだけど、公演を続けるうちに、爺さんと婆さんが手揉みして喜んでくれるならそれでいいのか!って割り切って。
人がYouTubeに上げた切腹のライブ見て紐解いてみると、溜めやグルーヴを出すとユニゾンが全く合わないし、そもそも大袈裟なぐらいハッキリ叩かないと爆音でかき消されちゃうの。なるほどなと。それよりも客とフロアで揉み合って生爪剥がしちゃわないか、そっちの方が心配になっちゃった。こっち草履で客はエンジニアリングブーツとかなんだもん(笑)
——なるほど〜。そう聞くと、ユニゾンでグルーブ感を出してる切腹ピストルズって改めてすごいと思います。そして最初は、平太鼓だったんですね!
はい。平太鼓から入って、それでそのうち締太鼓に転向するんですけど、その理由が、二〇一五年に新潟で『大地の芸術祭』が行われたときに『十日町〜松代まで三十km旧道を練り歩くぞ』って言うブッ飛んだ企画をやることになって。三十分のライブ演ってあんな痩せちゃう平太鼓で三十kmも練り歩いたら死んじゃうかも!と思って必死に個人練習してサッサと締太鼓にカシを変えました。自分勝手だよね。でも何だかんだ言っても締太鼓だって総重量十五kg以上あるんだから三十kmの練り歩きは普通にシンドかったって言うオチです(笑)。
切腹のライブって、フロアでお客さんとぶつかり合うから、初めて見た人はびっくりしちゃうと思う。バチが当たって血流すし汗でグチャグチャだし、かたや感動して泣いてる人もいて…こちらから見ていると色んな意味でキラキラしています。
(三澤さん提供、撮影:星野優さん)
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それからマスク静観客席の時代を経験して、最近やっとまた元に戻ってきた感じ。
関係ないけど、むかし函館に廃墟というか有名なお化け屋敷があって、その屋敷の窓から中を覗くと「血・汗・涙」って壁だか柱に殴り書きしてあったんですよ。
マジで怖くてね、切腹のライブ中は走馬灯のようにそんな事思い出しながら演ってますね「血・汗・涙だ!」って。しかしライブの事を一揆とはよく言ったもんですね、やたら人間臭いですもんね(笑)。
目先の価値観や主義の違いより、
遥か先に目線を向けて
切腹ピストルズって、いろんな側面があって・・・、祭り、町おこし、デモ活動、パンクの企画ライブ、映画のサントラ、神社仏閣奉納演奏、芸術祭、フェス、船上演奏…あと何だろう。つまるところ、「乱痴気の出前」だと思ってる。俗に言う『和太鼓集団』とか言われてもあまりしっくりこない。
それから、予測不能なところも、俺にとっては心地よいんだよね。
若い頃は、どんなバンドやっても結局意見の違いから険悪になって嫌になり辞めてしまってたの。全然意見が合わねぇな、俺は性格が曲がってんのかな?なんて悩んだりしましたけど、単に性格が曲がっているんですね(笑)。
切腹は自分の思う目先の価値観なんかよりも遥か先に結果があったりして面白い。
例えば主催者の演出やヒロ君のアイディアで何か風変わりなことやるじゃないですか、今でこそだけど、当時は理解できないことも多くて、言われるがままにやっていて、後から、あるいは数年経ってから「ああそういう事か!」って(笑)
——メンバーで意見が合わないことも、ありますよね、きっと。
ありますね。無い方が不思議。コロナ禍で、今は客前でやるべきかやらざるべきかで、隊員の意見が割れたの。LINEが嫌いになるぐらいLINEで話し合って。
気に入らない事は全部言っていたから、変な空気にしたと思う。結局世相に流されてピリピリして、自分も相当感じ悪かったと思う。元々俺もなかなかの嫌われ気質なので、辛気臭いというか、嫌味なこと言っちゃうんだよね、ダメだなぁと思うんだけどなかなかこれはね、DNAレベルの話かね。あとおじさんはLINEで愚痴書いちゃダメだね、狂気と凶器でしかないよあれは(笑)。スマホは上手に使いましょう。
でも、色んな事が重なってやっと自分を客観視できるようになったと言うか、遅いんだけどね、本当にやっとだよ。大所帯だけど、せっかく数少ない感覚の持ち主で徒党を組んだ仲間だしね。だから今は大切にしたい気持ちが強い。
陽気な無礼者が嫌いだったんですよ。デリカシーが無いのが許せないというか。でも切腹の醍醐味ってそもそも『陽気で無礼』なとこなんじゃない?って思えるようになった。隊員一人一人考え方も趣向も様々で、本当に面白いの。ダメなところも当然あるんだけど、そんなダメな奴等も集まると勢いが凄い熱い、不良更生の根源はここにあるのかと(笑)。
——聞いていて、じわじわ来ます。いろんなことに通じる大切な話だなーって。そういえば、いつの間にか、隊員が増えてますよね。
増えてます。新しい隊員は充分何かを感じ取って増幅して生かしていると思います。年齢では優劣はつけないし、年寄りが威張っていてもどうしようもないでしょ、頭固いし話長いし。どんどん新しい息吹入れていかないと高齢化も激しいし体力的にもそろそろ限界なんじゃないかな、まぁ半分は冗談だけど(笑)
でもおっさんがいて画になるのも我々の醍醐味だと思わない? 座って焚き火しているだけの隊員がいたっていいんじゃないかな。
あとはお客さんでもブワーって熱くなっちゃって、俺もやりてー!みたいな人もいるんだけど、もう少し考えてからでも良いんじゃない?と言いつつ、俺も初期衝動で入っちゃった口だから言えた立場ではないね。
——おっさんがいて画になるのが切腹の醍醐味って、ほんとそうですね。隊員にもファンにも、若い人たちに、おっさんになっていくのも悪くない、おっさんになるのもかっこいいぜって思わせてくれていると思います。若い隊員さんも増えるなか、演奏中の三澤さんの表情って、激しい曲の時でも、どこかおだやかで幸福そうな感じで、印象的です。
俺、人が驚く表情が好きなんですよね。俺も子どもの頃清史くんに驚かされて成長してきたのもあるんだろうけど。そもそも自分も切腹見た時ハト豆のように驚いたしね。
で、切腹やっているとやっぱ子どもとか老人とかが、驚いた顔していて痛快なんだよね。演る側から見ていてもニヤニヤしちゃう。妙にお洒落野郎や不良っぽい人にも響いたりして。あと何回かライブのフロアに電動車椅子が来てね、座っている奴も嬉しそうにしていたからこっちもテンション上がっちゃって、その電動車椅子の上に乗っかって演奏したの平太鼓時代に。そうしたら介護人に引き摺り下ろされて「ちょっと!やめて下さい。車椅子いくらすると思ってるんですか!」って。すいませんだよね本当に、驚かせ下手で(笑)。
でも特に子どもたちの心には何か残っていて欲しいですね。あれ、あの時見た江戸のうるさい人たちって、あれ夢だったかな?・・程度の思い出し方で良いので。
——子どもたち!といえば、コロナ禍になる直前のにしかたど田舎祭りだったかな。子どもたちの相撲トーナメントがあって、確か久坂さんと三澤さんが、土俵脇で太鼓叩いて盛り上げていて、三澤さんめっちゃ楽しそうな満面の笑顔だったのを思い出しました!
最後に教えてください。入隊してから十年の間にいろんな「乱痴気の出前」があったと思うんですけど、一番印象的だったのは?
うーん、香川県大島のハンセン病療養所でもやったし、老人ホームでもやったでしょ。隅田川も練り歩いたし、新宿の廃墟ビルもお伊勢さんもニューヨークも。
でも一つ挙げるとしたら新潟の小学校に呼ばれて行ったときに、子ども達と一緒に演奏したの。ペットボトルやボール紙で自作の打楽器作れって先生に言われたんだろうね、用意してあってさ。
最初ビビってんのか恥ずかしいのか、誰も音出さずにシーンとしているんだけど、だんだん音出してきて最終的にはサンバカーニバルみたいに大盛り上がりになったの「うるせー!静かにしろ!」って言って。なんかわからないけどあれ凄い印象に残っている。爪痕残したいね、子どもには・・・。
あれ?俺、子どもがそんな好きだっけかな(笑)?
(完)
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註一 BAZOOKA!!!
聞き書き伝・第六回・鼓徹さんの回でも話題になっていた、切腹ピストルズの出演回。三澤さんが制作側の上司だったとは(驚)! 以下、鼓徹さんの回の脚注を再掲します。
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BAZOOKA!!!〜BSスカパー!で放映されていたバラエティ番組。二〇一一年十一月十四日放送の回のライブコーナーに四人編成の切腹ピストルズが出演。番組アーカイブによると演奏曲は「南京ブギ」「松竹梅島」の二曲。聴きたいですね〜。
https://www.bs-sptv.com/bazooka/archive/20111114/
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註二 冗談音楽
三澤さんのお話で初めて知ったこのジャンル。ネット検索諸々によりますと、替え歌やパロディなどを盛り込みながら音楽を演奏して聞く人を笑顔にしてしまうパフォーマンス・・・といったところでしょうか。まずは演奏技術の高さが必須のようです。ジャズでは、アメリカの伝説の楽団、スパイクジョーンズが有名とのことです。
取材:二〇二三年九月吉日
公開:二〇二三年十月九日