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機能が停止した都会の暗闇に、
どこからか鉦の音が聴こえくる。

飯田団紅の伝、其の壱。
総隊長、鉦

飯田団紅

いいだだんこう。切腹ピストルズ総隊長、絵師。東京生まれ。二〇十三年に妻の地元・栃木市西方へ移住。






切腹ピストルズと名乗り始めたのは、一九九九年。最初は軽い駄洒落ぐらいのつもりで。ただ、そのときに多少、この国、日本はどこに向かっているんだろうな、みたいなことはうっすらと感じてました。今からちょうど二十年前ですかね。あたくし、今年で五十歳なので、当時三十歳ぐらい。生活含め、海外のものばっかり真似しすぎているな俺、みたいな気持ちと、なんでこうなってんだろうなって…。それで、浅はかながら日本のものとかをちょっとずつ探るなかで名付けた「切腹ピストルズ」です。たとえば拳銃を渡されて、今から死ねと言われても、拳銃で頭を撃ち抜くんじゃなくて、それで切腹するぐらいの意地は持ちたいなと。こいつ拳銃を無理やり腹に突きつけてぐりぐりぐりぐりやってるよ、っていう、そういう意地だったり、矛盾みたいなものを含んでます。



パンクに出会ったのは十六歳ぐらい。ちゃんとやり始めたのは十九歳ぐらいから。スリンクス(The Slinks)というバンド。「こそこそする」って意味です。そのバンドは、二十二、三くらいまで続けたのかな。そのへん言うのも恥ずかしいですけど、パンクって何か敵?というか、おもしろくない何かに対してワーっていう感じで文句言うみたいなね。世の中のナントカとか、政府だのなんだのとか、気にくわない価値観の人たちに文句を言う。で、その前に、当のパンクはどうなのよ?ってなって、そのスリンクスというバンドは、標的がパンクになっちゃって。だから、歌っていることもその時の、ただパンクの悪口を並べているだけなんで。パンクを敵にしつつ、自身も解りやすいパンクの形を取ってね、自分で言うのも何ですが、恐ろしいほど真面目にパンクが好きだった事の裏返しだと思ってます。


その頃、東京の高円寺に住んでたんですけど、嫌われてましてね。そりゃあね、ライブのチケット買いに来る奴にまで文句を言うような感じ。チケット売らなきゃどうしようもないんだけど、例えば二十枚は売らなきゃいけないとかあったから。「チケットありますか?」と、わざわざ来てくれる人にまで、「そもそもおまえ、どういうつもりでパンクやってんだ?」みたいに文句つけたりとかさ、それでもライブハウスやパンクのイベントに出るわけです。みんな楽しそうにやってるんだけど、俺たちが出てくると、みんな後ろのほうに下がっちゃう。そのころ見ていた奴とか、生き残ってる奴とかと最近になって会うと、「当時、実はすげえかっこいいと思ってたけど、そう言ったらいけない風潮があった」とか聞いて、「なんだ、早く言ってよー(笑)」ってね。言ったところで文句言われんだからどうしょうもない。改めて御礼を述べたり、ほんとご迷惑おかけましたと謝ったりしてね(笑)。高円寺の駅前って、昔はほんとパンクスだらけ。仕事から帰ってくるたびに、駅前でガンの飛ばし合い。あとは、どこからどう漏れたんだか、うちの電話番号が出回って、家にいるといたずら電話。殺人予告とか、彼女を襲撃するぞとかの脅しがよくありました。当時は携帯ないから黒電話だから臨場感があってね。あとはデマとかね。どこどこの某有名なバンドに、こそこそ土下座して謝ってたらしいとか噂が回ってきたり。まあでも皆そういうデマってのはあるんじゃないかな。そんなのをまたエネルギーにしてやってました。


なんでそんなにイラついてたかというと、今さら言葉にすれば、いくらでも理屈ついちゃいますけど、そのころハタチくらいですからね。ただむかついていたんでしょうね。なんでもよかったみたいなね、因縁つけてるみたいな、迷惑な話ですよ。「日本なくなれ」くらいに思っていて、そういう発言もしてたり、正々堂々と「世の中悪い」と思って(笑)。世の中を作ってるのは自分も含まれるとはいえ、なんていうのかね、世の中クソだなと。世の中のせいにするなと言われるけど、いや、そのフレーズ自体、世の中が作ったもんじゃねえのかな、言っていいんじゃないかなと思ってね。特に若いうちは、元々あった時代の被害者みたいなものでしょう?だから、そのときは、日本も無くなればいいとか、世界も無くなればいいのに!とか毎朝祈ってるみたいな、そういう時期です。あ、肝心なこと言っていなかったけど、その時、俺たち○○中毒なんですよ。それでね、なんかこう、余計にどんどんドロドロになって、争いがあったりで、仕事もおろそかになったり右往左往の底なし沼。早く、ノストラダムスの大予言どおり、地球吹っ飛ばないかなって。ちなみに、切腹ピストルズの三味線の壽ん三はノストラダムスの大予言に期待して、じゃあ勉強しなくていいじゃんって、ずーっと青春を謳歌してね。ついに一九九九年当日、さぁ!こいこいこい!って花札みたいにね。何も起きなかったから真っ青になってました。


スリンクスの時に出会って、唯一仲良くなったのが、埼玉の狂乱というバンド。泥臭ぇの。たまたま高円寺のライブで一緒になった。最初にステージ見て、ほぅ、と思って。随分悪そうな汚いガキですよ。片っぽ眉毛ないみたいな。で、ありふれたパンクバンドと違うなと思って、あと、言葉がちゃんと聞こえた。スカスカのフロア真ん中で、睨みつけながら見てた。で、俺たちの演奏になったら、狂乱も多分同じように思ったのか、一番前に来た。挨拶代わりに目の前にある缶かなんかを思いきり顔に投げつけたりして。一悶着あるのかなと思いつつも、ぐじゃぐじゃで終わって楽屋に行ったら、その狂乱の眉毛ないやつらが楽屋にどやどや来たんです。喧嘩になるのかなと思ったら、すげえ良かったよって。そこから意気投合ですね、狂乱のメンバーとは。俺らがハタチくらいだったとしたら、その時、狂乱は十七、八くらいですか。いまの切腹ピストルズでは、笛の大口の純と平太鼓隊長の久坂が、元・狂乱。


当時、働いていたのは原宿のパンクショップでした。働いているくせに、お客をにらみつけたりして。俺がいるときは、ものが売れないっていう感じでしょう。外から覗いて「奴だ、帰ろう」みたいな。ただ、俺がそんな感じでも、ちょこちょこ遊びに来たりとか、そこを乗り越えて来てくれる奴とかがいて、そういう人たちとは仲良くなったりしてました。その時の店長もとてもよくしてくれました。あとは、店に来る人たちに頼まれて刺青とかTシャツの絵とか描いたり、デザインの何かやったり。そんなのをどこかで見てくれたんでしょうか、「これ、誰に頼んでるの?」「原宿のパンクショップの奴」とかいうやりとりがあったらしくて、デビューして1年くらいのBLANKEY JET CITYに、ツアーグッズとかパンフレットのデザインとか、ビデオのジャケットとか、頼まれるというか、拾われることになるんですが、それは本当に今も感謝しています。(註1)


でまあ、日々じたばたといろいろなことがあって、突如スリンクスを解散させます。次にほとんど同じメンバーで、ええと、キャンゲロ。can geroね。文法的にはめちゃくちゃですけど、まあ、ただ、思いついたまま吐き出せと。スリンクスからキャンゲロの主要メンバーは、今も一緒にやっています。切腹ピストルズの太一と志ん奴は、スリンクスからのメンバー。ギターのジュンって奴は三十そこそこで死んじゃった。ジュンとの出会いは昔、阿佐ヶ谷あったRickyっていうパンクディスコに初めて行った日、頭が黄色でツンツンで背がスラッとした奴がアナーキーの曲で暴れてたので、突然襲って曲終わって名乗り上げ口上、それがジュン。太一は拉致してスリンクスに入れようと計画したぐらい色々な噂があったチンピラ。志ん奴は、東京中野のブロードウェイの汚い路地裏でサングラスの売り子やってたシド・ヴィシャス。すぐ話しかけた。で、なんだっけ、そうそうキャンゲロね。志ん奴はでもしばらくして一回いなくなる。理由は割愛。三味線の壽ん三は、キャンゲロから一緒。初めて会ったときに楽屋に押しかけてギターやってよ、って誘った。すらっとしてて三茶とか下北の匂いがあったな。パンクやガレージ出身。キャンゲロは音楽とかめちゃくちゃで変なバンド。あっという間にその期間が終わり、俺が二十六、七の頃からかな、サムライナウって馬鹿みたいな名前のバンドをはじめました。世の中に、打ち込みとか電子音楽の波が再浮上、ハウスやらなんやらというなかで、激しいデジタルハードコアというのがドイツで生まれて、それがなかなか激しくておもしろくて。それに触発されて、まあ、それも真似ですけど。でも中身やテーマは少し面白かったですよ。壽ん三あたりと幕末とか憂国の考えとかノリが合って、暴走してやっちゃおうやっちゃおうって。三軒茶屋あたりで活動していて、その頃から、サンプラーでお囃子とか時代劇シーンとか、ちょっと入れ始めてる。俺が歌いながら、サンプラーで、ばんって演奏始まって、それにあわせて、一応、ベース、ギター、ドラムが入るんだけど、ただ単に暴れるだけのね。それをずっと続けてたんだけど、一九九九年の大晦日かなんかに、一回遊びで、俺が切腹ピストルズって名義でひとりでやったという。セックスピストルズの曲だけを繋ぎ直して別の曲にしたカラオケを作って、それで何曲か俺一人で歌うというのをやったんだけど。高円寺だったかな、小さいお店でやったから、知ったような顔ばっかり集まっているような、なんてことない余興ですね。寿ん三が、ハルマゲドン来なくて焦ってた時期。



しばらくはサムライナウやってて、ロシアから日本に来ていた女の子と知り合って遊ぶようになるんですよ。セツ・モードセミナーと語学学校に留学してた娘で、当時十九歳、日本での留学が終わったら、ロンドンのセント・マーチンズ(現セントラル・セント・マーチンズ大学)に行くってわけ。セント・マーチンズと言えば、セックス・ピストルズが、初めてライブやったところでしょう。彼女は紙一重なタイプで、気が合ったというか面白くて、いろいろ大変だったけど世話にもなりました。その父親は、ニューリッチって呼ばれる世代の人で、ソビエトが崩壊したときに会社を作って成功したような人たちです。プーチンがプロパガンダとか広告とか広報をたくさん任せてるようなでっかい広告代理店の社長。で、その娘、予定通りロンドンに移住するってことになって、一緒に行こうセント・マーチンズに!ってなって、そのときに働いていた仕事も辞めて、住んでいる所も引き払って、奥さんとも、すみませんって離婚して、ロンドンに飛んじゃう。仕方ねぇなと仲間も応援してくれた。何か修行してもどってくるだろうと。そんとき、三十歳ちょいかな。



ロンドンでは、あっちいったりこっちいったり。たまに気が向いたときだけセント・マーチンズの中をうろうろしているぐらいで、授業にもぐりこんでも英語も分からないんで、まあとにかく、うろうろしていました。半分浮浪者みたいな生活の時期もあったりの、二年と半年です。途中でお金もなくなったりするので、作ったものを道端で売ってたばこ銭を稼いで、寝る場所を探すみたいな生活もしていていました。ソビエト時代の軍が被っていたかわいい形の帽子があるんだけど、それをカラフルな帽子にしたらかっこよくないかと、セレクトショップに置いてもらった。シド・ヴィシャスの浮世絵風な絵をシルクスクリーンでポスターにして、道端で売った時はけっこう売れた。「われわれは、あしたのジョーである」って、よど号ハイジャック犯の声明文入れて、矢吹丈の顔のポスター作ったりもしていましたね。今思うとソ連とよど号で左翼みたいだな。




シルクの製版は、夜中に工場へ行って。当時は、ちっちゃいモバイルフォンが普及してて、それで連絡回ってくる。「何月何日の夜中、どこどこの裏にあるシルク工場に来れるヤツは集まれ!」って。仕切ってるヤツが工場の夜警に賄賂わたして話し付けてくるの。その興行主に5ポンド払うと、工場ん中は全部使いたい放題。だから、バンドのヤツとか、売れないアーティストとか、工場で勝手に製販してTシャツとか、版画やってるヤツもいたね。まあ、言って見れば、イナゴの襲来みたいなもので朝までモノ作りまくって逃げる。それを道端で売ってましたが、もちろんこれは悪いことですょ。そんなこんなしてるうちに、彼女が一回ちょっとロシアに帰るけど一緒に行かない?って事で、ロシアとウクライナへ。お父さんにも会いまして。で、俺の誕生日に、プレゼントに何が欲しいか?って聞かれたんで、北方領土と答えてやった。そしたら、うーんって唸ってて、北方領土入りの日本の地図の入ったケーキを贈ろうとなった。わっはっは!彼女のお母さんはというと、お父さんとは別居してて、ウクライナに黒海という海があるじゃないですか、黒海のほとりで民宿やっているんですよ。じゃあウクライナに行こうということになった。壊れた戦車がひっくり返ってるような荒野でした。どのくらいいたかな、半年ぐらいいたのかな。民宿の庭師の人について、仕事やりながら住み込み。そこには、いろいろな人が泊まりに来るんですけど、大半は自閉症とかそういう子ども。近所にイルカと一緒に泳げる施設があって送迎するんです。このイルカたちは失業して転職してきたの。俺も何回か一緒に泳いだんだけど、なんとそのイルカたち、冷戦時代に体に爆弾つけてアメリカの軍艦に突っ込むとか、ぷかぷか浮いている人間にアタックして殺すという教育を受けたイルカたちって言われて、あぶねえなぁって。あとは、それまで人に教えたこともなかったんだけど、そんな子どもや、金持ちの子供とかに絵を教えたりしてね。この俺が(笑)。そんなことをしながらぶらぶらぶらぶらしていました。まあ、英語もままならないのにロシア人とのコミュニケーションなんかひどいもので、一生懸命教えてくれようとするんだけど、一から十まで数えられたからって何の会話もできないし、だったらもう覚えないで身振りでやったほうがいいんじゃないかと。彼女は日本語もしゃべれたので通訳もしてもらいましたけど、ロシア人だらけの中のスピード感じゃざっくりでしょ。そこでだんだん、フラストレーションたまって、よく潜水艦の沈んだ黒海で泣いていましたね、ひとりで。しくしく。おーい!誰それ~!とか叫んで。そこからロンドンにまたちょっと戻ったりしてちゃんと仕事したり、交友があったり、太一も遊びに来たかな。二人で突然知らないバンドにやらせろって言って、二人で暴れたな。なんやかんやで運良く日本に帰れることになった。帰ってきたのが三十四歳とか三十五歳くらいかな。


日本に帰ってきて、成田空港から東京まで移動するときに痛感したんだけど、もう日本の、東京の風景の見え方が、ロンドンに行く前と違っちゃった。あっちでは、どんなに反体制の奴やアーティストとかパンクでも、土着的なものに結構誇りを持っているんですね。石造りのとてつもなく古い家がそのまま残っている所もある。それを誇らしく話す人たちの前で、負けず嫌いの本性がむくむくと。あとはセックスピストルズのデビューを見たことがあるおじちゃんに会って話をしてても、長く話しこむと、最終的にはローカルで土着な話になっていく。当然ながら、ここはもう俺ついていけないわけです。パンクですら、土着から始まっているってことが、だんだん実感してくるわけです。そこの土地の文化じゃないですか。だから、そういうサブカルチャーや面白いことってのは、土着的なものから始まったりしているわけで、手放しでパンクパンク言っている場合じゃないのかもしれないなとか思い始めたり。「わびさび」って刺青入れてるロンドンの奴に「わびさびってなに?」って聞かれた時に答えられなかったこともあったり、そんなこんなのいろんなことが混ざって、帰国して日本をあらためて見たときに、なんだかプレハブだらけのめちゃめちゃな場所だなというのを、成田空港から東京に戻るときに、どうかなっちゃってるぞ、と、痛感しやした。ま、俺の実感でしかないんだけど。


帰国した自分には、もう家もないし、太一ん家にもそこまで世話になれないから、静岡の自動車工場に住み込みで行きました。数ヶ月で四十万貯めて東京に戻って、京都のフーテンの友達も途中から合流してきた。金できたし都内にアジト作ろうってなって、西荻にアパート借りて、そこが後にいろいろな奴らが出入りする通称「鶴屋」という溜まり場になるわけです。その鶴屋で、日本について談義するようなことが増えたり、人も集まってきた。なんてことないアパートなんですけど、ちょっとでも風流に戻そうってなって、アパートの入り口に蛍光灯の四角い照明があったので、そこに赤いカッティングシートで包んで折り鶴のマークかなんか入れたりする。アパートの前は細い路地で、いろいろな人が通るんですけど、その外観や流れる出囃子に「あら、きれいね」なんて挨拶が飛び交う感じの道になる。そこだけ庭を変えたり、盆栽置いたりとかして、風情ある反逆をはじめる、それが鶴屋。おばあちゃんが窓開けて秋刀魚を置いていくような場所になった。そこを拠点にして、近くの八幡神社だかで、薪能(たきぎのう)ってのをやるらしいから偵察に行こう、とか、浅草の投扇興(とうせんきょう)という遊びがあるらしいから行ってみようかとか、いろいろとうろうろして。それで、そこから落語につながっていくんですが、鶴屋にいながら、今の奥さんと知り合いましてね、励まされて広告制作会社に就職したんです。ブラック企業でしたけど、かなり修行になりました。決めたとおり三年で会社を辞める。辞めた次の日、数年ぶりの自由な一日をどうしてやろう。金と時間をドブに捨てることをやればいいって、寄席を見にいくんです。落語はちょっと聞きかじったし、NHKや笑点見てるけど、よく分からない。最低につまらなくてどうやら俺に合わない。浅草演芸ホールに行って昭和のろくでなしかネットカフェ難民のように一日中無駄に過ごそう、と。それがなんと入って三十分も経たないうちに虜になっちゃう。夜の九時、寄席終わってすぐ仲見世歩きながら仲間に連絡して「一ヶ月後に落語やるぞ、全員、古典落語を仕込め」「日本にいて、落語ってどういうものなの?と聞かれたときに、大人だったら一本ぐらい話せなきゃダメだ。しゃらくせぇ」で、落語やるぞ、と。それからしばらく後には和菓子なんてのもやった。和菓子も専門的に勉強しないでも、なんとなくできるはずだ、日本に住んでりゃ和菓子の思い出のひとつやふたつあるだろうと。外国人に負けちゃいられねぇと、めちゃくちゃ。それで、十数人それぞれ持ち寄ったDIY和菓子を囲みながら、モチーフは?とか、味はどうだ、色はどうだ、和菓子感あるかとかあれこれ突っ込む。で落語は誰々が真打ちとか、和菓子は誰それが金賞とか、頭角出す奴がそれぞれになっていった。



話し戻して、一回目の落語の会は、十一月の文化の日。一番与太公の現・切腹隊員の志むらが一番上手かった。最近は俺が抜かしたはず(笑)。まあ鶴屋一門の初代師匠です。次、年末の忘年会で再度落語やろうと。一回目の寄席の噂を聞いた人らが四十人くらい集まっちゃった。半分ぐらい知らない人で、もう内輪の会じゃない。その中に、美術評論家の福住廉がいた。今は「途中でやめる」という服屋の山下陽光が連れてきた。思想家の鶴見俊輔の「限界芸術論」を研究する福住廉は、「なんでこのパンクたちは落語やってるんだ」と。「これは限界芸術に通ずる。大衆の芸術かもしれない!」・・・そんな単純じゃないかもだけど、かみ砕くとそんな風に興味を持ってくれた。で、外でやりましょうって、福住企画で「二十一世紀の限界芸術論」シリーズっていうのがあって、茅場町で「衝動の落語」展をやったのが二〇〇九年の秋かな。次の年は月島説教所でやった。(註2)



それからなんだかんだで、福住氏推薦で、越後妻有の「大地の芸術祭」で切腹ピストルズやりませんかというふうに発展していく。後ろめたいったらありゃしない。俺たち芸術とかわからないから。でもやっちゃうの。面白そうだし、新潟の野良着を集めたいから、隊員自前の野良着の展示。野良着に熱狂してる俺たちのコーディネートをばーっと展示した。ただ単に趣味のコレクションの空間じゃなくて、野良着が実はどれだけカッケーかというのを見せつける展示にしようと。それが二〇一三年かな「野良着で逆襲」展。その時は、演奏とか寄席もちょろっとやったり、講談も作って女講談師・田辺銀冶に読み上げてもらった。次の会期から、今度は村めぐりとか、お年寄りに野良着の話を聞いたりとか、菅笠(すげがさ)をつくれるおばちゃんに教えにもらいに行ったりとか、山仕事したり、山道と旧街道を練り歩きしたり、そんなのが続いて、新潟・十日町との交流が深まっていくわけ。

隊員の野中克哉(篠笛・尺八)が移住するきっかけとなった茅葺き職人で米を作っている木暮さんに出会うのもこの時期。木暮さんは、雑草に隠れてた江戸時代の田んぼの広い地形を、鍬一本で蘇らせたの。手植えで手刈り。それで無農薬でお米を作ってる人。「そんなに昔のいろんなものが好きで関心あるんだったら、ちょうど今夜、津南にからす踊りっていういい祭りがあるから、見に行こう」と連れてってくれて、これまた凄く良くて。いったん途絶えてたけど、一九七〇年代に復活させたおっちゃんたちがいるって。七〇年代といえば、時は高度経済成長、世の中はみんな、新しいモノ、経済だと言っている時代でしょう。そのタイミングにからす踊りを復活させた凄い人たちがいるんです。それから毎年、からす踊りに助太刀に行くようになった。そういや、長野県の戸隠山で新たなお祭りを立ち上げたいから手伝ってくれないかと言われて、この前、戸隠の下見に行ったの。(註3) 戸隠、なかなか面白くて。修験道っていって山伏が集まる場所なんです。いまだに不思議な人も集まるみたいですけど、修験道と忍者とちょっと重なっていたり。そう思って調べたら、戸隠山で十五世紀に生まれた宣澄(せんちょう)踊りというのが、からす踊りの起源で、戸隠から繋がる越後街道沿いに十日町まできたらしいんです。からす踊り。すごい原始的で、よくある盆踊りというよりも、輪になって甚句を唄うみたいなやつ。


ああ、バンド活動の話ね、逸れました。逸れて追い抜かしちゃった。ええと、帰国してから、そのサムライナウを再開して、それからバンド名は、再度、切腹ピストルズにしちゃおうかって。元狂乱の久坂も合流。サンプリング素材とかは、より日本のものになってきて、まあ基本はパンクロックっていうか、うるさいの。で、雅楽がのってるとか、民謡がのってる…みたいな感じ。歌詞の内容は、サムライナウの時は、日本的な単語。切腹ピストルズを名乗り始めたときあたりから、日本の歴史問題とかやるか!って、南京大虐殺の歌とか、三島由紀夫とか、零戦とか、CIAとか領土問題とか手当たり次第(笑)右だ左だと世が揉めているあたり。それをどんどん消化していきたい。真剣に話したって解決できないんだったら、なんか別の切り口がねえのかなっていう、戦後から戦中、戦前みたいな感じでどんどん遡って、目指せ江戸まで、一曲一曲戻っていこうという野良着活動。当初、話してたのは、今はサンプラーでお囃子とか日本の芸能みたいなのを混ぜているけど、六十近くになったら、全部生でやりてぇなと。最終的には、雅楽をかしこまって聞くんじゃなくて、雅楽で、みんながわーっとなっちゃうような、そんな事までできるようになったらいいなという志を持ち、切腹ピストルズはやっていました。根底には僭越ながら「憂国」という文字を抱きつつね。そしたら、二〇一一年の東北の大地震がきた。原発事故。世の表現者もこれからどうすんだとガヤガヤしてね。時代に逆襲するなら、もう和楽器しかねえんじゃねえか。じゃあ、六十歳まで待たず!ということで、和楽器に変えちゃうわけです。



被災地だけじゃなくて、停電だから大変だ、帰宅難民がどうのこうのだ、電車が止まった、コンビニに飯が無い、東京がひいひい騒いでいる。それまで表現表現と言ってた連中も、電気をどうするか?みたいなね。で、急にしーんとしちゃうのは情けねえだろう!と。世界が停電しても、どこからか、笛や太鼓の音が聞こえてくる。「なんだ、この音は、いったいなんなんだ?」と。そこで出てくるのが、日本が近代化する前のモノたち。暗闇の中でも大音量。それが答えなんじゃないかなと。それで素人が、せーので楽器を持ち替えた。二〇一一年の十月には、まだ四人、福島の原発の手前二十キロの山道まで行ってデビュー。それが初めての公演。まだ曲も二曲。俺が鉦、寿ん三がギターから三味線に、太一と久坂が太鼓。さあ土地を浄化しよう!放射能ばかやろーとか山の中で叫んでんの。観客はボランティア帰りの数人とお年寄りかな。









それから、次の年には、いよいよあの愛知県豊田の橋の下世界音楽祭の一回目が始まって誘われた。俺たちの育ての親といっても良い。色々なところで何かが起き始めてますよ。隊員もちょっとずつ増えてった。演奏見に来て「やりたい。なにか足りない楽器は?」とか、そいつ入れてまた別のとこでやったら、別の奴が「太鼓っていくらするんですか」とかって言ってきて…そういうふうに増えていきやした。全員その楽器については素人(笑)。よくある和物でしょ?創作太鼓でしょ?で片づけられずに、あちらこちらからどんどん呼ばれてね。「なんとか太鼓の会」みたいにしなかった理由もそれ。「この人たちは、和楽器を演っているんだけど、切腹ピストルズって、なんでこんな名前つけているんだ?」「なんでこんなに間近なんだ?」と。賛否両論上等!それが俺たち切腹ピストルズなわけですよ。(談)



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註1

BLANKEY JET CITYから依頼されたデザインやイラストの仕事は、2002年発売の「DOG FOOD」ジャケット制作など。BJC のドラマーで、今は俳優としても活動する中村達也氏は、2014年に飯田団紅さんと再会し、自身のブランド「Gavial」から、飯田さんが描いた日本狼でスカジャンを制作・発表している。その経緯を語った投稿を(許可を得て)FBページから転載して紹介します。

「スカジャンを、作ろうと長年おもっていた。ある日大津波が街を、襲う映像が、テレビで流れた。黒い海面を、白い日本狼の群れがはしっているように感じた。そして、直感し、スガダイローに、電話した。あれは、白鍵と黒鍵だと。以来甲府桜座にて、日本オオカミの足跡と題して田中泯さんと公演を、おこなっている。俺は、あの大地震は、巨大なヤマタノオロチが、のたうって、地中を這ったのだと感じている。

現代への警笛でもなく自然の驚異というだけではなく、かつて、神と人々が、怖れ敬い続けた何か。ある日、とにかく、スカジャン作ろうと思って、ある人を、探し始めた。BJC時代に出したDOG FOODというタイトルのライブビデオのジャケットデザインをした、Johnny Pistonという奴を。あの作品は確か1991年辺りに発表したから、それ以来、彼の行方を、おったことはなかった。記憶をほじくりだして、出会うキッカケとなった人々に、あたってみたが、俺の思い違いばかりで、ジョニーピストンには、いきあたらなかったのだが、今年なんだか、俺の周りを、ざわつかせてる、切腹ピストルズという集団がいた。俺が住んでる高円寺では高円寺阿波踊りという、夏の大祭りがあって、街じゅうが、太鼓と踊りで人々の命が沸き立つ。人々の、真の人間性を呼び覚ます太鼓叩き達。おのれの身体が砕け散ろうが、狂ったように太古の意識を呼び覚ます。DESTROY だ。

ある日、切腹ピストルズを、おっかけはじめたオンナが、電話で、切腹の人が、俺を、しっているといったので、瞬時直感で、それは飯田という男ではないか?と聞くと、そうだという。繋がった!そして、23年ぶりに、再会したジョニーピストンは、ベレー帽にボンテージではなく、野良着に捩り鉢巻きという、逞しい風貌で、渋谷警察のむかえにある喫茶店にあらわれた。ちょっとばかり話しをして、日本オオカミを、描いてくれとたのんだ。飯田も俺も、日本オオカミで、なにか、合致した。来年50になるんだ。なんかないか?ときくと、五十にして天命を知る。と、かえってきた。

切腹ピストルズも、俺も、スカジャンも、ニホンオオカミ男もオンナも、この先が、たのしみだ。」(転載・終わり)

Gavial ウェブサイト https://www.gavial.jp

facebook page https://www.facebook.com/gavials.informer/



註2

この会の記録は、美術評論家・福住廉さんの論考とともに、note「駆け抜ける衝動―鶴屋団紅の原始落語と鶴見俊輔の限界芸術」に納められています。ぜひ!こちらもお読みください。


https://note.mu/fukuzumiren/n/n612b44e390d8



註3

この「戸隠山の新たなお祭り」は「第一回もののけ祭り」として、八月三十一日と九月一日の二日間に渡って開催され、切腹ピストルズも参加。来年も夏に予定されている。

https://mononoke-matsuri.jp

写真提供|飯田団紅氏
意匠|須田将仁
挿絵|黒田太郎

聞き書き|簑田理香
収録 二〇一九年五月二十九日、江戸部屋にて。
飯田団紅
いいだだんこう。切腹ピストルズ総隊長、絵師。東京生まれ。二〇十三年に妻の地元・栃木市西方へ移住。

切腹ピストルズと名乗り始めたのは、一九九九年。最初は軽い駄洒落ぐらいのつもりで。ただ、そのときに多少、この国、日本はどこに向かっているんだろうな、みたいなことはうっすらと感じてました。今からちょうど二十年前ですかね。あたくし、今年で五十歳なので、当時三十歳ぐらい。生活含め、海外のものばっかり真似しすぎているな俺、みたいな気持ちと、なんでこうなってんだろうなって…。それで、浅はかながら日本のものとかをちょっとずつ探るなかで名付けた「切腹ピストルズ」です。たとえば拳銃を渡されて、今から死ねと言われても、拳銃で頭を撃ち抜くんじゃなくて、それで切腹するぐらいの意地は持ちたいなと。こいつ拳銃を無理やり腹に突きつけてぐりぐりぐりぐりやってるよ、っていう、そういう意地だったり、矛盾みたいなものを含んでます。

パンクに出会ったのは十六歳ぐらい。ちゃんとやり始めたのは十九歳ぐらいから。スリンクス(The Slinks)というバンド。「こそこそする」って意味です。そのバンドは、二十二、三くらいまで続けたのかな。そのへん言うのも恥ずかしいですけど、パンクって何か敵?というか、おもしろくない何かに対してワーっていう感じで文句言うみたいなね。世の中のナントカとか、政府だのなんだのとか、気にくわない価値観の人たちに文句を言う。で、その前に、当のパンクはどうなのよ?ってなって、そのスリンクスというバンドは、標的がパンクになっちゃって。だから、歌っていることもその時の、ただパンクの悪口を並べているだけなんで。パンクを敵にしつつ、自身も解りやすいパンクの形を取ってね、自分で言うのも何ですが、恐ろしいほど真面目にパンクが好きだった事の裏返しだと思ってます。

その頃、東京の高円寺に住んでたんですけど、嫌われてましてね。そりゃあね、ライブのチケット買いに来る奴にまで文句を言うような感じ。チケット売らなきゃどうしようもないんだけど、例えば二十枚は売らなきゃいけないとかあったから。「チケットありますか?」と、わざわざ来てくれる人にまで、「そもそもおまえ、どういうつもりでパンクやってんだ?」みたいに文句つけたりとかさ、それでもライブハウスやパンクのイベントに出るわけです。みんな楽しそうにやってるんだけど、俺たちが出てくると、みんな後ろのほうに下がっちゃう。そのころ見ていた奴とか、生き残ってる奴とかと最近になって会うと、「当時、実はすげえかっこいいと思ってたけど、そう言ったらいけない風潮があった」とか聞いて、「なんだ、早く言ってよー(笑)」ってね。言ったところで文句言われんだからどうしょうもない。改めて御礼を述べたり、ほんとご迷惑おかけましたと謝ったりしてね(笑)。高円寺の駅前って、昔はほんとパンクスだらけ。仕事から帰ってくるたびに、駅前でガンの飛ばし合い。あとは、どこからどう漏れたんだか、うちの電話番号が出回って、家にいるといたずら電話。殺人予告とか、彼女を襲撃するぞとかの脅しがよくありました。当時は携帯ないから黒電話だから臨場感があってね。あとはデマとかね。どこどこの某有名なバンドに、こそこそ土下座して謝ってたらしいとか噂が回ってきたり。まあでも皆そういうデマってのはあるんじゃないかな。そんなのをまたエネルギーにしてやってました。

なんでそんなにイラついてたかというと、今さら言葉にすれば、いくらでも理屈ついちゃいますけど、そのころハタチくらいですからね。ただむかついていたんでしょうね。なんでもよかったみたいなね、因縁つけてるみたいな、迷惑な話ですよ。「日本なくなれ」くらいに思っていて、そういう発言もしてたり、正々堂々と「世の中悪い」と思って(笑)。世の中を作ってるのは自分も含まれるとはいえ、なんていうのかね、世の中クソだなと。世の中のせいにするなと言われるけど、いや、そのフレーズ自体、世の中が作ったもんじゃねえのかな、言っていいんじゃないかなと思ってね。特に若いうちは、元々あった時代の被害者みたいなものでしょう?だから、そのときは、日本も無くなればいいとか、世界も無くなればいいのに!とか毎朝祈ってるみたいな、そういう時期です。あ、肝心なこと言っていなかったけど、その時、俺たち○○中毒なんですよ。それでね、なんかこう、余計にどんどんドロドロになって、争いがあったりで、仕事もおろそかになったり右往左往の底なし沼。早く、ノストラダムスの大予言どおり、地球吹っ飛ばないかなって。ちなみに、切腹ピストルズの三味線の壽ん三はノストラダムスの大予言に期待して、じゃあ勉強しなくていいじゃんって、ずーっと青春を謳歌してね。ついに一九九九年当日、さぁ!こいこいこい!って花札みたいにね。何も起きなかったから真っ青になってました。

スリンクスの時に出会って、唯一仲良くなったのが、埼玉の狂乱というバンド。泥臭ぇの。たまたま高円寺のライブで一緒になった。最初にステージ見て、ほぅ、と思って。随分悪そうな汚いガキですよ。片っぽ眉毛ないみたいな。で、ありふれたパンクバンドと違うなと思って、あと、言葉がちゃんと聞こえた。スカスカのフロア真ん中で、睨みつけながら見てた。で、俺たちの演奏になったら、狂乱も多分同じように思ったのか、一番前に来た。挨拶代わりに目の前にある缶かなんかを思いきり顔に投げつけたりして。一悶着あるのかなと思いつつも、ぐじゃぐじゃで終わって楽屋に行ったら、その狂乱の眉毛ないやつらが楽屋にどやどや来たんです。喧嘩になるのかなと思ったら、すげえ良かったよって。そこから意気投合ですね、狂乱のメンバーとは。俺らがハタチくらいだったとしたら、その時、狂乱は十七、八くらいですか。いまの切腹ピストルズでは、笛の大口の純と平太鼓隊長の久坂が、元・狂乱。

当時、働いていたのは原宿のパンクショップでした。働いているくせに、お客をにらみつけたりして。俺がいるときは、ものが売れないっていう感じでしょう。外から覗いて「奴だ、帰ろう」みたいな。ただ、俺がそんな感じでも、ちょこちょこ遊びに来たりとか、そこを乗り越えて来てくれる奴とかがいて、そういう人たちとは仲良くなったりしてました。その時の店長もとてもよくしてくれました。あとは、店に来る人たちに頼まれて刺青とかTシャツの絵とか描いたり、デザインの何かやったり。そんなのをどこかで見てくれたんでしょうか、「これ、誰に頼んでるの?」「原宿のパンクショップの奴」とかいうやりとりがあったらしくて、デビューして1年くらいのBLANKEY JET CITYに、ツアーグッズとかパンフレットのデザインとか、ビデオのジャケットとか、頼まれるというか、拾われることになるんですが、それは本当に今も感謝しています。(註1)

でまあ、日々じたばたといろいろなことがあって、突如スリンクスを解散させます。次にほとんど同じメンバーで、ええと、キャンゲロ。can geroね。文法的にはめちゃくちゃですけど、まあ、ただ、思いついたまま吐き出せと。スリンクスからキャンゲロの主要メンバーは、今も一緒にやっています。切腹ピストルズの太一と志ん奴は、スリンクスからのメンバー。ギターのジュンって奴は三十そこそこで死んじゃった。ジュンとの出会いは昔、阿佐ヶ谷あったRickyっていうパンクディスコに初めて行った日、頭が黄色でツンツンで背がスラッとした奴がアナーキーの曲で暴れてたので、突然襲って曲終わって名乗り上げ口上、それがジュン。太一は拉致してスリンクスに入れようと計画したぐらい色々な噂があったチンピラ。志ん奴は、東京中野のブロードウェイの汚い路地裏でサングラスの売り子やってたシド・ヴィシャス。すぐ話しかけた。で、なんだっけ、そうそうキャンゲロね。志ん奴はでもしばらくして一回いなくなる。理由は割愛。三味線の壽ん三は、キャンゲロから一緒。初めて会ったときに楽屋に押しかけてギターやってよ、って誘った。すらっとしてて三茶とか下北の匂いがあったな。パンクやガレージ出身。キャンゲロは音楽とかめちゃくちゃで変なバンド。あっという間にその期間が終わり、俺が二十六、七の頃からかな、サムライナウって馬鹿みたいな名前のバンドをはじめました。世の中に、打ち込みとか電子音楽の波が再浮上、ハウスやらなんやらというなかで、激しいデジタルハードコアというのがドイツで生まれて、それがなかなか激しくておもしろくて。それに触発されて、まあ、それも真似ですけど。でも中身やテーマは少し面白かったですよ。壽ん三あたりと幕末とか憂国の考えとかノリが合って、暴走してやっちゃおうやっちゃおうって。三軒茶屋あたりで活動していて、その頃から、サンプラーでお囃子とか時代劇シーンとか、ちょっと入れ始めてる。俺が歌いながら、サンプラーで、ばんって演奏始まって、それにあわせて、一応、ベース、ギター、ドラムが入るんだけど、ただ単に暴れるだけのね。それをずっと続けてたんだけど、一九九九年の大晦日かなんかに、一回遊びで、俺が切腹ピストルズって名義でひとりでやったという。セックスピストルズの曲だけを繋ぎ直して別の曲にしたカラオケを作って、それで何曲か俺一人で歌うというのをやったんだけど。高円寺だったかな、小さいお店でやったから、知ったような顔ばっかり集まっているような、なんてことない余興ですね。寿ん三が、ハルマゲドン来なくて焦ってた時期。

しばらくはサムライナウやってて、ロシアから日本に来ていた女の子と知り合って遊ぶようになるんですよ。セツ・モードセミナーと語学学校に留学してた娘で、当時十九歳、日本での留学が終わったら、ロンドンのセント・マーチンズ(現セントラル・セント・マーチンズ大学)に行くってわけ。セント・マーチンズと言えば、セックス・ピストルズが、初めてライブやったところでしょう。彼女は紙一重なタイプで、気が合ったというか面白くて、いろいろ大変だったけど世話にもなりました。その父親は、ニューリッチって呼ばれる世代の人で、ソビエトが崩壊したときに会社を作って成功したような人たちです。プーチンがプロパガンダとか広告とか広報をたくさん任せてるようなでっかい広告代理店の社長。で、その娘、予定通りロンドンに移住するってことになって、一緒に行こうセント・マーチンズに!ってなって、そのときに働いていた仕事も辞めて、住んでいる所も引き払って、奥さんとも、すみませんって離婚して、ロンドンに飛んじゃう。仕方ねぇなと仲間も応援してくれた。何か修行してもどってくるだろうと。そんとき、三十歳ちょいかな。

ロンドンでは、あっちいったりこっちいったり。たまに気が向いたときだけセント・マーチンズの中をうろうろしているぐらいで、授業にもぐりこんでも英語も分からないんで、まあとにかく、うろうろしていました。半分浮浪者みたいな生活の時期もあったりの、二年と半年です。途中でお金もなくなったりするので、作ったものを道端で売ってたばこ銭を稼いで、寝る場所を探すみたいな生活もしていていました。ソビエト時代の軍が被っていたかわいい形の帽子があるんだけど、それをカラフルな帽子にしたらかっこよくないかと、セレクトショップに置いてもらった。シド・ヴィシャスの浮世絵風な絵をシルクスクリーンでポスターにして、道端で売った時はけっこう売れた。「われわれは、あしたのジョーである」って、よど号ハイジャック犯の声明文入れて、矢吹丈の顔のポスター作ったりもしていましたね。今思うとソ連とよど号で左翼みたいだな。

シルクの製版は、夜中に工場へ行って。当時は、ちっちゃいモバイルフォンが普及してて、それで連絡回ってくる。「何月何日の夜中、どこどこの裏にあるシルク工場に来れるヤツは集まれ!」って。仕切ってるヤツが工場の夜警に賄賂わたして話し付けてくるの。その興行主に5ポンド払うと、工場ん中は全部使いたい放題。だから、バンドのヤツとか、売れないアーティストとか、工場で勝手に製販してTシャツとか、版画やってるヤツもいたね。まあ、言って見れば、イナゴの襲来みたいなもので朝までモノ作りまくって逃げる。それを道端で売ってましたが、もちろんこれは悪いことですょ。そんなこんなしてるうちに、彼女が一回ちょっとロシアに帰るけど一緒に行かない?って事で、ロシアとウクライナへ。お父さんにも会いまして。で、俺の誕生日に、プレゼントに何が欲しいか?って聞かれたんで、北方領土と答えてやった。そしたら、うーんって唸ってて、北方領土入りの日本の地図の入ったケーキを贈ろうとなった。わっはっは!彼女のお母さんはというと、お父さんとは別居してて、ウクライナに黒海という海があるじゃないですか、黒海のほとりで民宿やっているんですよ。じゃあウクライナに行こうということになった。壊れた戦車がひっくり返ってるような荒野でした。どのくらいいたかな、半年ぐらいいたのかな。民宿の庭師の人について、仕事やりながら住み込み。そこには、いろいろな人が泊まりに来るんですけど、大半は自閉症とかそういう子ども。近所にイルカと一緒に泳げる施設があって送迎するんです。このイルカたちは失業して転職してきたの。俺も何回か一緒に泳いだんだけど、なんとそのイルカたち、冷戦時代に体に爆弾つけてアメリカの軍艦に突っ込むとか、ぷかぷか浮いている人間にアタックして殺すという教育を受けたイルカたちって言われて、あぶねえなぁって。あとは、それまで人に教えたこともなかったんだけど、そんな子どもや、金持ちの子供とかに絵を教えたりしてね。この俺が(笑)。そんなことをしながらぶらぶらぶらぶらしていました。まあ、英語もままならないのにロシア人とのコミュニケーションなんかひどいもので、一生懸命教えてくれようとするんだけど、一から十まで数えられたからって何の会話もできないし、だったらもう覚えないで身振りでやったほうがいいんじゃないかと。彼女は日本語もしゃべれたので通訳もしてもらいましたけど、ロシア人だらけの中のスピード感じゃざっくりでしょ。そこでだんだん、フラストレーションたまって、よく潜水艦の沈んだ黒海で泣いていましたね、ひとりで。しくしく。おーい!誰それ~!とか叫んで。そこからロンドンにまたちょっと戻ったりしてちゃんと仕事したり、交友があったり、太一も遊びに来たかな。二人で突然知らないバンドにやらせろって言って、二人で暴れたな。なんやかんやで運良く日本に帰れることになった。帰ってきたのが三十四歳とか三十五歳くらいかな。

日本に帰ってきて、成田空港から東京まで移動するときに痛感したんだけど、もう日本の、東京の風景の見え方が、ロンドンに行く前と違っちゃった。あっちでは、どんなに反体制の奴やアーティストとかパンクでも、土着的なものに結構誇りを持っているんですね。石造りのとてつもなく古い家がそのまま残っている所もある。それを誇らしく話す人たちの前で、負けず嫌いの本性がむくむくと。あとはセックスピストルズのデビューを見たことがあるおじちゃんに会って話をしてても、長く話しこむと、最終的にはローカルで土着な話になっていく。当然ながら、ここはもう俺ついていけないわけです。パンクですら、土着から始まっているってことが、だんだん実感してくるわけです。そこの土地の文化じゃないですか。だから、そういうサブカルチャーや面白いことってのは、土着的なものから始まったりしているわけで、手放しでパンクパンク言っている場合じゃないのかもしれないなとか思い始めたり。「わびさび」って刺青入れてるロンドンの奴に「わびさびってなに?」って聞かれた時に答えられなかったこともあったり、そんなこんなのいろんなことが混ざって、帰国して日本をあらためて見たときに、なんだかプレハブだらけのめちゃめちゃな場所だなというのを、成田空港から東京に戻るときに、どうかなっちゃってるぞ、と、痛感しやした。ま、俺の実感でしかないんだけど。

帰国した自分には、もう家もないし、太一ん家にもそこまで世話になれないから、静岡の自動車工場に住み込みで行きました。数ヶ月で四十万貯めて東京に戻って、京都のフーテンの友達も途中から合流してきた。金できたし都内にアジト作ろうってなって、西荻にアパート借りて、そこが後にいろいろな奴らが出入りする通称「鶴屋」という溜まり場になるわけです。その鶴屋で、日本について談義するようなことが増えたり、人も集まってきた。なんてことないアパートなんですけど、ちょっとでも風流に戻そうってなって、アパートの入り口に蛍光灯の四角い照明があったので、そこに赤いカッティングシートで包んで折り鶴のマークかなんか入れたりする。アパートの前は細い路地で、いろいろな人が通るんですけど、その外観や流れる出囃子に「あら、きれいね」なんて挨拶が飛び交う感じの道になる。そこだけ庭を変えたり、盆栽置いたりとかして、風情ある反逆をはじめる、それが鶴屋。おばあちゃんが窓開けて秋刀魚を置いていくような場所になった。そこを拠点にして、近くの八幡神社だかで、薪能(たきぎのう)ってのをやるらしいから偵察に行こう、とか、浅草の投扇興(とうせんきょう)という遊びがあるらしいから行ってみようかとか、いろいろとうろうろして。それで、そこから落語につながっていくんですが、鶴屋にいながら、今の奥さんと知り合いましてね、励まされて広告制作会社に就職したんです。ブラック企業でしたけど、かなり修行になりました。決めたとおり三年で会社を辞める。辞めた次の日、数年ぶりの自由な一日をどうしてやろう。金と時間をドブに捨てることをやればいいって、寄席を見にいくんです。落語はちょっと聞きかじったし、NHKや笑点見てるけど、よく分からない。最低につまらなくてどうやら俺に合わない。浅草演芸ホールに行って昭和のろくでなしかネットカフェ難民のように一日中無駄に過ごそう、と。それがなんと入って三十分も経たないうちに虜になっちゃう。夜の九時、寄席終わってすぐ仲見世歩きながら仲間に連絡して「一ヶ月後に落語やるぞ、全員、古典落語を仕込め」「日本にいて、落語ってどういうものなの?と聞かれたときに、大人だったら一本ぐらい話せなきゃダメだ。しゃらくせぇ」で、落語やるぞ、と。それからしばらく後には和菓子なんてのもやった。和菓子も専門的に勉強しないでも、なんとなくできるはずだ、日本に住んでりゃ和菓子の思い出のひとつやふたつあるだろうと。外国人に負けちゃいられねぇと、めちゃくちゃ。それで、十数人それぞれ持ち寄ったDIY和菓子を囲みながら、モチーフは?とか、味はどうだ、色はどうだ、和菓子感あるかとかあれこれ突っ込む。で落語は誰々が真打ちとか、和菓子は誰それが金賞とか、頭角出す奴がそれぞれになっていった。

話し戻して、一回目の落語の会は、十一月の文化の日。一番与太公の現・切腹隊員の志むらが一番上手かった。最近は俺が抜かしたはず(笑)。まあ鶴屋一門の初代師匠です。次、年末の忘年会で再度落語やろうと。一回目の寄席の噂を聞いた人らが四十人くらい集まっちゃった。半分ぐらい知らない人で、もう内輪の会じゃない。その中に、美術評論家の福住廉がいた。今は「途中でやめる」という服屋の山下陽光が連れてきた。思想家の鶴見俊輔の「限界芸術論」を研究する福住廉は、「なんでこのパンクたちは落語やってるんだ」と。「これは限界芸術に通ずる。大衆の芸術かもしれない!」・・・そんな単純じゃないかもだけど、かみ砕くとそんな風に興味を持ってくれた。で、外でやりましょうって、福住企画で「二十一世紀の限界芸術論」シリーズっていうのがあって、茅場町で「衝動の落語」展をやったのが二〇〇九年の秋かな。次の年は月島説教所でやった。(註2)

それからなんだかんだで、福住氏推薦で、越後妻有の「大地の芸術祭」で切腹ピストルズやりませんかというふうに発展していく。後ろめたいったらありゃしない。俺たち芸術とかわからないから。でもやっちゃうの。面白そうだし、新潟の野良着を集めたいから、隊員自前の野良着の展示。野良着に熱狂してる俺たちのコーディネートをばーっと展示した。ただ単に趣味のコレクションの空間じゃなくて、野良着が実はどれだけカッケーかというのを見せつける展示にしようと。それが二〇一三年かな「野良着で逆襲」展。その時は、演奏とか寄席もちょろっとやったり、講談も作って女講談師・田辺銀冶に読み上げてもらった。次の会期から、今度は村めぐりとか、お年寄りに野良着の話を聞いたりとか、菅笠(すげがさ)をつくれるおばちゃんに教えにもらいに行ったりとか、山仕事したり、山道と旧街道を練り歩きしたり、そんなのが続いて、新潟・十日町との交流が深まっていくわけ。
隊員の野中克哉(篠笛・尺八)が移住するきっかけとなった茅葺き職人で米を作っている木暮さんに出会うのもこの時期。木暮さんは、雑草に隠れてた江戸時代の田んぼの広い地形を、鍬一本で蘇らせたの。手植えで手刈り。それで無農薬でお米を作ってる人。「そんなに昔のいろんなものが好きで関心あるんだったら、ちょうど今夜、津南にからす踊りっていういい祭りがあるから、見に行こう」と連れてってくれて、これまた凄く良くて。いったん途絶えてたけど、一九七〇年代に復活させたおっちゃんたちがいるって。七〇年代といえば、時は高度経済成長、世の中はみんな、新しいモノ、経済だと言っている時代でしょう。そのタイミングにからす踊りを復活させた凄い人たちがいるんです。それから毎年、からす踊りに助太刀に行くようになった。そういや、長野県の戸隠山で新たなお祭りを立ち上げたいから手伝ってくれないかと言われて、この前、戸隠の下見に行ったの。(註3) 戸隠、なかなか面白くて。修験道っていって山伏が集まる場所なんです。いまだに不思議な人も集まるみたいですけど、修験道と忍者とちょっと重なっていたり。そう思って調べたら、戸隠山で十五世紀に生まれた宣澄(せんちょう)踊りというのが、からす踊りの起源で、戸隠から繋がる越後街道沿いに十日町まできたらしいんです。からす踊り。すごい原始的で、よくある盆踊りというよりも、輪になって甚句を唄うみたいなやつ。

ああ、バンド活動の話ね、逸れました。逸れて追い抜かしちゃった。ええと、帰国してから、そのサムライナウを再開して、それからバンド名は、再度、切腹ピストルズにしちゃおうかって。元狂乱の久坂も合流。サンプリング素材とかは、より日本のものになってきて、まあ基本はパンクロックっていうか、うるさいの。で、雅楽がのってるとか、民謡がのってる…みたいな感じ。歌詞の内容は、サムライナウの時は、日本的な単語。切腹ピストルズを名乗り始めたときあたりから、日本の歴史問題とかやるか!って、南京大虐殺の歌とか、三島由紀夫とか、零戦とか、CIAとか領土問題とか手当たり次第(笑)右だ左だと世が揉めているあたり。それをどんどん消化していきたい。真剣に話したって解決できないんだったら、なんか別の切り口がねえのかなっていう、戦後から戦中、戦前みたいな感じでどんどん遡って、目指せ江戸まで、一曲一曲戻っていこうという野良着活動。当初、話してたのは、今はサンプラーでお囃子とか日本の芸能みたいなのを混ぜているけど、六十近くになったら、全部生でやりてぇなと。最終的には、雅楽をかしこまって聞くんじゃなくて、雅楽で、みんながわーっとなっちゃうような、そんな事までできるようになったらいいなという志を持ち、切腹ピストルズはやっていました。根底には僭越ながら「憂国」という文字を抱きつつね。そしたら、二〇一一年の東北の大地震がきた。原発事故。世の表現者もこれからどうすんだとガヤガヤしてね。時代に逆襲するなら、もう和楽器しかねえんじゃねえか。じゃあ、六十歳まで待たず!ということで、和楽器に変えちゃうわけです。

被災地だけじゃなくて、停電だから大変だ、帰宅難民がどうのこうのだ、電車が止まった、コンビニに飯が無い、東京がひいひい騒いでいる。それまで表現表現と言ってた連中も、電気をどうするか?みたいなね。で、急にしーんとしちゃうのは情けねえだろう!と。世界が停電しても、どこからか、笛や太鼓の音が聞こえてくる。「なんだ、この音は、いったいなんなんだ?」と。そこで出てくるのが、日本が近代化する前のモノたち。暗闇の中でも大音量。それが答えなんじゃないかなと。それで素人が、せーので楽器を持ち替えた。二〇一一年の十月には、まだ四人、福島の原発の手前二十キロの山道まで行ってデビュー。それが初めての公演。まだ曲も二曲。俺が鉦、寿ん三がギターから三味線に、太一と久坂が太鼓。さあ土地を浄化しよう!放射能ばかやろーとか山の中で叫んでんの。観客はボランティア帰りの数人とお年寄りかな。

それから、次の年には、いよいよあの愛知県豊田の橋の下世界音楽祭の一回目が始まって誘われた。俺たちの育ての親といっても良い。色々なところで何かが起き始めてますよ。隊員もちょっとずつ増えてった。演奏見に来て「やりたい。なにか足りない楽器は?」とか、そいつ入れてまた別のとこでやったら、別の奴が「太鼓っていくらするんですか」とかって言ってきて…そういうふうに増えていきやした。全員その楽器については素人(笑)。よくある和物でしょ?創作太鼓でしょ?で片づけられずに、あちらこちらからどんどん呼ばれてね。「なんとか太鼓の会」みたいにしなかった理由もそれ。「この人たちは、和楽器を演っているんだけど、切腹ピストルズって、なんでこんな名前つけているんだ?」「なんでこんなに間近なんだ?」と。賛否両論上等!それが俺たち切腹ピストルズなわけですよ。(談)

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註1
BLANKEY JET CITYから依頼されたデザインやイラストの仕事は、2002年発売の「DOG FOOD」ジャケット制作など。BJC のドラマーで、今は俳優としても活動する中村達也氏は、2014年に飯田団紅さんと再会し、自身のブランド「Gavial」から、飯田さんが描いた日本狼でスカジャンを制作・発表している。その経緯を語った投稿を(許可を得て)FBページから転載して紹介します。
「スカジャンを、作ろうと長年おもっていた。ある日大津波が街を、襲う映像が、テレビで流れた。黒い海面を、白い日本狼の群れがはしっているように感じた。そして、直感し、スガダイローに、電話した。あれは、白鍵と黒鍵だと。以来甲府桜座にて、日本オオカミの足跡と題して田中泯さんと公演を、おこなっている。俺は、あの大地震は、巨大なヤマタノオロチが、のたうって、地中を這ったのだと感じている。
現代への警笛でもなく自然の驚異というだけではなく、かつて、神と人々が、怖れ敬い続けた何か。ある日、とにかく、スカジャン作ろうと思って、ある人を、探し始めた。BJC時代に出したDOG FOODというタイトルのライブビデオのジャケットデザインをした、Johnny Pistonという奴を。あの作品は確か1991年辺りに発表したから、それ以来、彼の行方を、おったことはなかった。記憶をほじくりだして、出会うキッカケとなった人々に、あたってみたが、俺の思い違いばかりで、ジョニーピストンには、いきあたらなかったのだが、今年なんだか、俺の周りを、ざわつかせてる、切腹ピストルズという集団がいた。俺が住んでる高円寺では高円寺阿波踊りという、夏の大祭りがあって、街じゅうが、太鼓と踊りで人々の命が沸き立つ。人々の、真の人間性を呼び覚ます太鼓叩き達。おのれの身体が砕け散ろうが、狂ったように太古の意識を呼び覚ます。DESTROY だ。
ある日、切腹ピストルズを、おっかけはじめたオンナが、電話で、切腹の人が、俺を、しっているといったので、瞬時直感で、それは飯田という男ではないか?と聞くと、そうだという。繋がった!そして、23年ぶりに、再会したジョニーピストンは、ベレー帽にボンテージではなく、野良着に捩り鉢巻きという、逞しい風貌で、渋谷警察のむかえにある喫茶店にあらわれた。ちょっとばかり話しをして、日本オオカミを、描いてくれとたのんだ。飯田も俺も、日本オオカミで、なにか、合致した。来年50になるんだ。なんかないか?ときくと、五十にして天命を知る。と、かえってきた。
切腹ピストルズも、俺も、スカジャンも、ニホンオオカミ男もオンナも、この先が、たのしみだ。」(転載・終わり)
Gavial ウェブサイト https://www.gavial.jp
facebook page https://www.facebook.com/gavials.informer/

註2
この会の記録は、美術評論家・福住廉さんの論考とともに、note「駆け抜ける衝動―鶴屋団紅の原始落語と鶴見俊輔の限界芸術」に納められています。ぜひ!こちらもお読みください。

https://note.mu/fukuzumiren/n/n612b44e390d8

註3
この「戸隠山の新たなお祭り」は「第一回もののけ祭り」として、八月三十一日と九月一日の二日間に渡って開催され、切腹ピストルズも参加。来年も夏に予定されている。
https://mononoke-matsuri.jp

写真提供|飯田団紅氏
意匠|須田将仁
挿絵|黒田太郎

聞き書き|簑田理香
収録 二〇一九年五月二十九日、江戸部屋にて。