私の戦争体験記
毛利 且枝
宇都宮市
86歳
あれは1945年7月12日の夜。私が10歳、宇都宮市立東小学校5年生の時でした。その日は、朝から大雨で、台風の様な雨風の強い晩でした。毎日毎晩の空襲警報で疲れ果て、「この大雨では、敵機も来ないだろう。」と家族全員(父母長女本人弟妹合わせて6人)無防備に蚊帳の中で寝入っておりました。
突然、父親の大きな声がし、目を覚ましました。「焼夷弾だ!早く起きろ、逃げるんだ!!」
私は 夢中で着替え防空ずきんをかぶり、救急袋を持ち、裸足で外に出ました。(靴を履いている時間がなかった。弟妹達は下着だけ着用)
外は照明弾が投下され、昼間の様な明るさです。焼夷弾はガソリンを撒く為、雨の中、はだしで転びながら、私たち家族は、組内で作った防空壕に飛び込みました。その壕には5〜60名位の組内の人が入っていたと思います。
まわりは全部火の海です。「防空壕にそのまま居たら、蒸し焼きになる!!」と大人達が判断し、この壕に入っているご近所全員が火の間をくぐり、すぐ近くの田川の堤防へ逃げました。雨と空から降ってきた焼夷弾のガソリンですごい勢いで何度もスッテンスッテンすべって転んだことを覚えています。
堤防の草むらの陰に身を隠し、足元は、雨水の寒さに震えながら、真夜中、真っ黒の川の水面に燃えて流れる焼夷弾の火を見ていました。そこで夜明けまで水に浸かり、その後、防空壕に戻りました。
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あとで聞いたことですが、他の地域で防空壕に残っていた人達は皆蒸し焼きとなり亡くなっていました。
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空襲の時、こんなこともありました。組内の若いお母さんが、男の子3人を連れて、1番末っ子の1歳になるかならないかの女の赤ちゃんをおんぶして私たちと一緒に逃げていました。子ども達のお父さんは戦地に行っていて留守でした。空襲の異常な状況に泣き叫ぶ4人の子ども達をお母さん1人で連れて逃げていたのです。気がつくと、なんだか赤ちゃんは泣かなくなっていました。寝ているのかなと思ったら、赤ちゃんの脚がぷらんとしていました。お母さんが後ろの赤ちゃんに手を回すと、血だらけになって、脚が一本なくなって、赤ちゃんは、お母さんの背中ですでに死んでいました。お母さんはきっと無我夢中で逃げて気がつかなかったのだと思います。
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翌日13日、朝になり、見渡すと、まわりは全面焼け野原、宇都宮の街がどこまでも遠く見渡せました。我が家ももちろん燃えて跡形も無くなっていました。庭の片隅にあった鶏小屋も全焼したのですが、父が飼っていた20羽ほどの鶏が、真っ黒焦げとなって見つかりました。何も食べるものがなくなってしまったので、父は焼け焦げた鶏の毛をむしって、その鶏を組内のご近所さん全員に配って皆で食べていました。しかし、私はお腹が空いているはずなのにどうしても食べることができません。昨晩からの悪夢、降り注ぐ焼夷弾とそれにより変わり果てた街とあちこちに転がる遺体の地獄絵にショック状態だったのでしょう。死体の焼ける鼻をつく異様な臭いがあたり一面に漂っていたのと、焼けついた道路の熱さは、今でも忘れられないです。
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あの赤ちゃん以外にも組内の方が2、3人亡くなっていました。ですが、火葬するところもなかったので、焼け残った木柱を燃料にし、家の土台の石をかまどにし、火をつけ、その上に遺体を寝かせ、そしてトタン板を被せて火葬しました。あの赤ちゃんには誰が持っていたのか真っ白いサラシが被せられて、トタンの上で焼かれました。そのお母さんは、「この子がこんなになっちゃった。」って泣き崩れていました。本当に可哀想でした。トタンと人が焼かれる異様な臭いとともにあの光景は忘れることができません。
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また、空襲の時、田川の中に飛び込んだ人がたくさんいました。川に飛び込んでも助からず、遺体は皆真っ黒焦げでした。私は押切橋を歩いていたとき、偶然ある光景を目にしていました。消防隊の人が、田川の中の真っ黒焦げになったたくさんの遺体を鳶口(魚市場でマグロなど大きな魚を移動させるのに使う道具)で川から引き揚げていたのです。それをなんとなくぼ〜っと見ていたら、私に気が付いた消防隊が、「見るな〜!!早くあっちへ行け〜!!」と私に凄い剣幕で怒鳴っていました。私はすぐにその場を立ち去りました。
空襲後の地獄絵に、私の心の中は、絶望感でいっぱいでした。家なし、食べ物なし、水、風呂、履き物なし、自分の体しかないのだということを実感しました。誰もが皆同じです。
淋しかったー。わびしさと恐怖で私の体は押し潰されたような感じでした。興奮状態で胸が詰まって、食欲もわかず。空腹のはずなのに、何にも感じない自分がいました。魂の抜けた、空虚の自分でした。
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家が焼けて、夜寝るところがなくなり、10日位野宿生活が続きました(7月12日から7月22日くらいまで)。皆疲れが極度に達してしまい、組内仲間で、蔵が焼け残ったところを間借りすることにしました(千波町あたり)。藁を敷いてぎゅうぎゅう詰めで身動き出来ずでしたが、なんとか屋根の下で寝ることができました。
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野宿が続いた数日後(たぶん7月20日前後)昼間に醤油の配給があるとのことで、いちばん上の長女だった私は、上町の戸祭町の方の酒屋に行かされました。空襲で焼け野原だから街が街でない、道もどこが道だかわからないようなところを同じ組内で家が隣だった一つ上のみっちゃんと出かけました。私は、左右サイズの合わない小さなワラジをなんとか履いて、配給のお醤油用の一升瓶を抱えていました。やっとのことで、ほんのちょっとの醤油を分けてもらい、今の清住町から亀の子坂を歩いて、栃木県庁があるあたりに差し掛かった時でした。(県庁は焼け残っていました。)
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真っ黒な鳥の大群みたいな編隊の機銃掃射が、低空飛行でバババババっと県庁通りを行き交う人々を狙い打ちしてきたのです。その時、たくさんの女子中学生の姿や、馬車や、荷車を引く人々で通りはごった返していましたが、あっという間に人々も馬も機銃掃射にやられて倒れ込んでしまいました。私は、みっちゃんに「さぁ、どうしよう。みっちゃん機銃掃射だよ。これ!どうすんの?」と言ったけど、みっちゃんは「しょうがないよね。」と言って、2人で、遺体を飛び越えて、逃げましたが、機銃掃射は、追いかけてきます。その時、県庁のすぐ前の官舎が一軒だけ残っていて(今の宇都宮総合文化センターあたり)そこは門被りに大きな松の木があり、その陰に2人で隠れました。私たちカラダが小さかったからなんとか松の陰に隠れることができました。
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そこで数分ブルブル震えていると、機銃掃射に馬がやられた馬方が、私たちが隠れている門被りの松に子どもの私たちを押しのけて急に入ってきたのです。そしたら、私たちは、はみ出してしまい、狙われてしまいます。人の家に入るのは怖かったけど、咄嗟の判断で、その官舎の勝手口が開いていたので、そこに入って隠れました。その官舎は誰もいませんでしたが、部屋の中で、「大本営発表!大本営発表!」とラジオだけが大きく鳴ってました。そのうち、だんだん外は静かになってきて、ラジオは「銚子方面に逃走せり。」と言っていたのをはっきりと今でも覚えています。私たちは無事でした。「みっちゃん、もう行っちゃったから帰ろう、早く行こう!」と言って、それからどんどん駆け足で帰りました。着いた時にはもう心臓が止まりそうでした。機銃掃射に狙われたけれど、逃げ延びました。あれはすごい小学校5年の体験でした。(醤油瓶は離さず無事でした)
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あれからみっちゃんと会っていません。九死に一生を得たあの体験を共有したみっちゃんと話したい。ずっとずっとそう思っています。
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私は、戦争時の体験を語るときは、いつも涙が止まらなくなります。7月のあの夏、2度も空襲に襲われ、命辛々逃げ延びて、今の私があります。
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戦争は大勢の人々を巻き込み、極限まで苦しめ、たくさんの犠牲者を出します。戦争は二度と繰り返してはならないのです。このような大きな犠牲の上に現在の平和があることを私達は絶対に忘れてはならないと思います。 (2021年3月)
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*写真は、宇都宮市内の小学校で戦争体験を語ったときのもの。2021年3月)