
藪の中のオオカミらしきものへ会いに行く。
- #コラム
2014年に行っていた益子の風土調査で訪れていた大羽の御嶽神社へ。
当時も多少は荒れた感じはあったが、久しぶりに訪ねた神社は、廃墟のように荒れ果てていた。しかし、拝殿に上がる階段さえも枯れ草や枯れ枝で覆われ、人の手が入らなくなった山の斜面のようになっていても、竹が拝殿の屋根を突き破ろうとも、オオカミの(ようなものの)姿は、4年前と変わらず石灯籠の中に、輪郭もくっきりとあった。
そうそう。この姿を拝みに来た。
御嶽神社と彫られた石碑もあり、石灯籠の他の面には「三峯」を表しているような山の姿も彫られている。まちがいなく、オオカミの姿かと思うのだけれど風化も進んだ石の肌からは、シカのようにも見えるような。。
2014の風土調査では、この神社のことを詳しく知る人に出会えず、ずっと、「宿題」のままになっている。今年は、この荒れた状況もなんとかしつつ、ぼちぼち調査を進めたい。体力復活させて、雨巻&御嶽にも登りましょう。
大晦日も元旦も、ただただ地続きで続く、ただの繰り返しとはいえ、あらためて、今年の「はたらき」について考える。12月に、久しぶりに読み返していた『オオカミの護符』(小倉美惠子・著)から活動と仕事と稼ぎを地続きで行う私のベースとしたい文章を引用する。
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人が自然に身をゆだね、互いの力をうまく引き出し合うところに
思いがけない「はたらき」が生まれてくる。
これが仕事の本領なのだろうと気づかせてくれる。
「個性」とは、そこに匂い立つものに与えられる言葉ではないだろうか。
「稼ぎ」は人間関係の中で成立するが、「仕事」は人のみでは成し得ない。
こう考えると、現代の「仕事」の概念は、ずいぶんと変わってしまったことに気づく。
むしろ「仕事」だと思って行っている労働のほとんどは、
「稼ぎ」と言えるかもしれない。
(中略)
人の力だけでもなく、また自然の力だけでもない。
その双方をつなぐ「はたらき」が宿る「仕事」に出逢えたとき、
人は感動を覚え、信頼を感じ、
そこに人と人とのつながりが生まれるのではないだろうか。
2019/01/01